第8話 色々な見方

文字数 3,015文字

 谷までの往復で約二十キロを歩いてきた身体には、さすがに疲労感が満ちていた。こんな時、日頃の運動不足が正直に現れる。
「それじゃ、また。今日はゆっくり休んでくださいね」
ขอบคุณ ค่ะ(クァップン カー)(ありがとう)」
 サクラは微笑みながら胸の前で両手を合わせた。
 市民ホールで彼女と別れた後、リーダーの浅野さんと一緒に危機管理室へ向かった。

 疲れた体には七階までの階段も堪える。やっとの思いで辿り着き、調査の報告を終えると既に六時を過ぎていた。
「何かを見つけたのは、うちの班だけみたいですね」
 廊下に出てから、歩き出していた浅野さんの背中へ声を掛ける。幸運なだけだったことは分かっているけれど、少し誇らしい。
「あぁ。でも実りのある発見とは言えないからな。かろうじて、かすかな可能性を掴んだに過ぎない」
 俺の気持ちを見通しているかのように、冷静な言葉が返ってくる。
「確かに、そうですね……」
「だからと言って、希望を捨てることもない。そうだろ?」
 振り返って微笑んでくれた浅野さんに励まされた。
 明日は自転車六台で二班に分かれて、谷の詳細調査を行うらしい。谷まで辿り着いたら左右に分かれ、谷の始まりと終わりを探しながら水の痕跡を調べる。
 何かしら水への手掛かりになるものが見つかればいいのだけれど。

 浅野さんと別れ、課のある二階へ戻った。
 何か(フロア)全体が暗い。
 照明はもちろん消えたままでも、白夜のような明るさは昨夜と同じはず。
 しかし、そこに漂う空気感が明らかに異なっていた。
 戸籍住民課の(テーブル)へ戻り、佐藤係長を探す。
「係長、何かあったんですか?」
「あぁ……。水野課長が亡くなった」
 係長は感情を露にすることもなく、努めて淡々とした様子で俺に告げた。
「えっ!」
 慌てて課長が寝かされていた場所へ行くと、そこには既に姿はなかった。
「さっき、小泉君の隣に移してきたよ」
「どうしてすぐに連絡してくれなかったんですかっ! スマホに――」
 そうだった。
 ここはスマホも使えない場所だった。当たり前のように使っていた普段の生活が、いかに依存していたかを思い知らされる。
 係長は何も言わず、俺の肩をポンと優しくたたいた。

 佐伯さんはどうしたのだろう。
 彼女の机の上には、紙薪が無造作に積み上げられている。
「佐伯さんはショックが大きくて、向こうの部屋で休んでもらってるよ」
 俺の視線に気づいたのか、係長が教えてくれた。
「佐伯さんが気付いたんだ、課長が呼吸をしていないことに。荒かった呼吸が静かになったから、寝入ったと思って少し目を離していたそうだ。
 彼女のせいなんかじゃないし、誰がいても何もできなかったのに、責任を感じていて……。自分がもっと早く気づけば、って言ってる」
「……そうですか」
 佐伯さんの気持ちも痛いほどわかる。
 あの時、AEDを持ってきてもらい人工呼吸もして課長のことを助けたはずなのに――何だ、この無力感は。
「……もし、ここが……病院だったら……課長も助けられたんですかね」
 課長が寝かされていた床を見つめたまま、つぶやいた。
「それはどうだろう。確かに病院だったら、お医者さんもいるし薬もある。
 でも診断するのにも、もし手術するにも医療器具のほとんどが電気を必要としているはずだ。大きな病院ならば自家発電設備もあるけれど、使える時間には限りがある。
 それに……病院には、これほどの非常食などは保管されていないんじゃないかな」
「結果は同じ、ってことですか」
 俺の問いかけに、係長は無言の肯定を返した。

 身体だけでなく、精神的にも疲れが一気に押し寄せてきたので、自席の椅子に座った。係長も、隣にある小泉さんの椅子に座る。
 何もする気にならないが、何もしなければ不安に押し潰されてしまいそうで、床に視線をやりながら話し始めた。
「外の調査に行ったとき、離れた場所からこの庁舎を見て、何か悪いことをして立たされているように感じたんです。俺たち、こんなところに放り込まれて……何かしたんですかね……」
 係長がこちらに向き直った気配がする。
「加瀬君は何か悪いことをした心当たりでもあるの?」
「いえ……分かりません。ないつもりですが、自分で気付かないところで何かしているのかもしれないし……」
 声の方を見れず、視線を床に落としたまま答えた。
 係長は再び椅子をくるっと回す。
「加瀬君の話を聞いて、ふと思ったことがある。
 ひょっとしたら、私たちは罰としてこの地に送られたのではなく、護られてここへ来たのかもしれない、って。 
 今頃、私たちがいた世界では大変なことが起こっていて、そのことから護るためにここへ強制的に避難させられたとも考えられるじゃないか。ほら、ノアの箱舟も似たような話だったと思うけど」
 驚いて、今度は俺が係長の方へ向き直った。
「係長、……とても前向きなんですね」
「色々な見方ができる、ってことだよ」
 もう一度椅子を回して、向き合う形になり係長は話を続けた。
「今置かれている状況だって、視点を変えれば色々な見方が出来る。
 課長のことだって同じだと思うんだ。
 佐伯さんが近くにいても気づかなかったくらい、静かに息を引き取ったってことは、課長は苦しまずに亡くなられたんじゃないかな。
 それは佐伯さんや加瀬君が手当てしてくれたおかげだと思うよ」
 どんな結果でも、何かやろうと起こした行動は決して無駄になっていない――係長の言葉で、素直にそう感じることが出来た。

                  *

 暮れることのない夜が明け、二度目の朝を迎えた。
 食材は確実に減ってきてはいるものの、当初の見込みよりも減る量が抑えられている。出来るだけ無駄がないように、レストランや食堂の調理員たちが工夫してくれたおかげだ。
 そんな彼らの中にも、食料への不安の声が上がり始めていた。
「やはり、水……ですね」
 現状における責任者の田町は副市長室へは戻らず、危機管理室に常駐している。
 この日も早い時間から、総務の光岡を始めとした局長が三人、対応の検討に集まっていた。
「水の確保が最優先であることに変わりはないと思います」
 無精髭が目立ってきた光岡が続ける。
「水さえ確保できれば、調理方法により、さらに数日は現状の食材で保たせることが出来るそうです。水の存在が確認できれば、食材となる動植物の発見も可能性が高まるのですが……」
「昨日見つかった、谷の調査に期待するしかありません」
 田町が壁の時計に目をやると、十時半を回っていた。
「もう、谷には着いている時間かな」
 四人の目は、自然と窓の外へ向けられた。

「もう一つ、報告があります」
 光岡は声のトーンを低くして話し始めた。
「戸籍住民課の水野課長と環境計画課の斎藤さんが亡くなりました」
「そうですか……。確か、お二人とも怪我をされていましたよね」
「はい。ここでは応急処置しか出来なかったので――」
 光岡の返答が終わる間もなく――。

「――んっ!?」
「何だっ!?」
「あっ! 危ないっ!」


 すでに三日目。それが起きたのは十一時になろうかという時だった。
 彼らに残されているのは――七十五時間。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

加瀬 大地:大卒一年目の札幌市役所市民部・戸籍住民課職員。

     大学では化学を専攻し、超常現象研究会に所属。

     「俺は……どこにいるんだ?」

佐藤 係長:加瀬の上司。見かけによらず熱い一面がある。

     「そうかもしれない。それでも、いま出来ることを各々がやらなきゃ……」

佐伯さん:加瀬の先輩。真面目な性格が故に、精神的に脆い面も。

     「でしょ? なんで私がこんな目に合わなくちゃ、な・ら・な・いん、だっ!」

サクラ:タイ人。東京のレストランで働いていたが、親戚と一緒に札幌へ旅行に来て……。

    「ที่รักもおなじでしょう? だれもわからないね……だれもわるくない」

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み