第1話 始まりの日
文字数 2,629文字
その時、加瀬大地は職場である札幌市役所にいた。
両親は「北の国から」に憧れて富良野へやってきて、そこで出会ったそうだ。俺の名前を決めたのも、好きだった松山千春の「大空と大地の中で」からもらったらしい。言うまでもなく、もう一つの候補は「大空」だった。
大地のように逞しくしっかりと、と言う訳にはいかなかったけれど、争いごとが苦手で優しい性格というのは自他ともに認めるところ。困っている人を放っておけない、誰かの役に立ちたい、という思いで札幌市職員を目指した。
無事に就職が決まった時は、こっちが恥ずかしくなるくらい両親も喜んでくれた。化学科という就職に適さない学科だったから、安心もあって思いは一入だったのかもしれない。もし東京に就職していたら顔を見る機会も減っていただろうし、二時間半もあれば車で帰ることが出来る札幌ならば、一人息子としては親孝行にもなるはずだ。
札幌市役所は札幌の中心部である大通公園に面し、テレビ塔の北西に位置している。北一条雁来通りを挟んで、目の前には時計台があり、札幌オリンピック開催を機としてその前年に建てられた庁舎からは、屋上にある展望回廊にてこれらの観光名所が見渡せる。
十一月のこの時期は観光としてはオフシーズンだが、それでも平日の昼間にもかかわらず海外からの観光客が市役所を訪れ、一階の市民ホールは賑わいを見せていた。
この日は二階でカウンター業務を行っていた。市民部・戸籍住民課に配属されて半年が過ぎ、すっかり慣れて余裕も出てきている。
「今日はいい天気ですね」
「あぁ。雲一つない、まさに秋晴れと言った感じだな」
午後二時を過ぎて窓口に来る人が途切れ、一息つきながら先輩の小泉さんと言葉を交わす。
「加瀬君は、何かスポーツやるの?」
「いやぁ、全く。大学では超常現象研究会というオタク系に所属してましたから」
「身長も百八十くらいあるだろ? なんかもったいない感じだなぁ」
「休日は家でネットゲームばかりしています。彼女もいないし」
「やっぱり、もったいないな。もし今日が休みだったら、こんなにいい天気なんだし、どこか知らない所へのんびりと行ってみたくならないかい?」
「小泉さんなら、どこに行きますか?」
先輩に聞いておいて、自分が行くならばどこがいいだろうと考えていたら……。
初めは、遠くで女の子が甲高い声で叫んでいるような、そんな音が聞こえた気がする。
「あれっ? 何か聞こえませんでしたか?」
「うん、何だ? この音は」
徐々に高くなっていき、圧を感じるようになる。
まるで飛行機に乗った時のように、耳に違和感が生じてきた。
みんな業務の手を止め、顔を上げた――その時。
音にならない音を衝撃波として体が感じた。
同時に、窓ガラスが次々と割れていく音がする。
音の方を見ようにも、押しつぶされるような力が加わって体の自由が利かない。
カウンターを両手で掴み、とっさに下へもぐりこむ。
と、今度は急降下するような感覚に襲われた。
垂直落下式の遊具にでも乗ったかのように、ふわりと浮く感覚。
それが、どこまでも、どこまでも落ちていくかのように続いた。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
ほんの数秒かもしれないし、数分続いたのかもしれない。
やっと止まった。
そう感じてカウンター下から立ち上がると、そこは先ほどまで業務をしていた職場とは思えない光景だった。
「――小泉さんっ!」
先輩は書架の下敷きになり、ありえない角度に首を曲げて倒れていた。
「そんな……」
あらためて辺りを見回すと、呆然と立ち尽くす人、けがをして呻いている人、電話を掛ける人……一体、何が起きたんだ?
「誰か来てくださいっ!」
佐伯さんの声が聞こえた。
「課長が……」
彼女の声がする方へ行くと、水野課長が頭から血を流して倒れている。佐伯さんが呼び掛けても反応がない。
「佐伯さん、エレベーターホールにあるAEDを取ってきてくれますか!」
先週に受けたばかりの救命士講習が、こんなにも早く役立つなんて……。
「課長! 聞こえますかっ! 聞こえますかっ!」
両手で心臓マッサージをしながら、声を掛ける。
「一体、どうなってるんだっ!」
佐藤係長の怒声が響いた。
「消防や警察に通報しようにも、電話が通じないなんて……」
「災害用の衛星電話を使えば――」
「とっくに使ってるさ! 衛星電話も通じないんだ!」
AEDをセットしながら、言いようのない不安が沸き上がってきた。
『電気ショックが必要です。充電を行います』AEDから音声が流れる。
「外が……。外が……」
佐伯さんがうわ言のように呟いている。
『体から離れて下さい。点滅ボタンをしっかりと押してください』
一階の市民フロアも騒がしい。
もちろん、けが人も多いのだろうけれど、何か異様な雰囲気が伝わってくる。
『胸骨圧迫と人工呼吸を続けて下さい』
「加瀬君、ちょっと一階を見てくる。課長は任せたぞ」
佐藤係長が走っていった。
『心電図が変化したので、電気ショックを中止します』
今できる水野課長への手当ては済んだ。あとは出血が止まってくれればいいのだけれど。
顔を挙げ、はじめて窓の外に目を移した。
ガラスのない窓越しの景色は――。
俺は展望回廊に向かうため、階段へと駆け出した。
*
札幌の地下鉄・大通駅を中心とした半径約五キロの謎の陥没を、マスコミは〈大空落〉と呼んだ。まるでそこだけ空が落ちたかのように。
穴はどこまで深いのか、穴の底はどうなっているのか、犠牲者は? 救助方法は?
何もかもが「分からない」ということだけが明確にされていた。
通信も途絶え、ヘリコプターも気流が乱れていて降下できず、ドローンを飛ばしても操作限界距離を超えてしまう。
ただただ、深く暗い穴がどこまでも続いているかのようだった。
*
無我夢中で一気に階段を駆け上がり、息を切らしながら展望回廊へたどり着く。
目の前には――何もなかった。
ここから見えるはずの大通公園も、テレビ塔も、時計台も、何もかも。
見渡す限り、赤茶色の荒れ地が続いていた。
空も一面が雲に覆われ、茜色に染まっている。
「俺は……どこにいるんだ?」
両親は「北の国から」に憧れて富良野へやってきて、そこで出会ったそうだ。俺の名前を決めたのも、好きだった松山千春の「大空と大地の中で」からもらったらしい。言うまでもなく、もう一つの候補は「大空」だった。
大地のように逞しくしっかりと、と言う訳にはいかなかったけれど、争いごとが苦手で優しい性格というのは自他ともに認めるところ。困っている人を放っておけない、誰かの役に立ちたい、という思いで札幌市職員を目指した。
無事に就職が決まった時は、こっちが恥ずかしくなるくらい両親も喜んでくれた。化学科という就職に適さない学科だったから、安心もあって思いは一入だったのかもしれない。もし東京に就職していたら顔を見る機会も減っていただろうし、二時間半もあれば車で帰ることが出来る札幌ならば、一人息子としては親孝行にもなるはずだ。
札幌市役所は札幌の中心部である大通公園に面し、テレビ塔の北西に位置している。北一条雁来通りを挟んで、目の前には時計台があり、札幌オリンピック開催を機としてその前年に建てられた庁舎からは、屋上にある展望回廊にてこれらの観光名所が見渡せる。
十一月のこの時期は観光としてはオフシーズンだが、それでも平日の昼間にもかかわらず海外からの観光客が市役所を訪れ、一階の市民ホールは賑わいを見せていた。
この日は二階でカウンター業務を行っていた。市民部・戸籍住民課に配属されて半年が過ぎ、すっかり慣れて余裕も出てきている。
「今日はいい天気ですね」
「あぁ。雲一つない、まさに秋晴れと言った感じだな」
午後二時を過ぎて窓口に来る人が途切れ、一息つきながら先輩の小泉さんと言葉を交わす。
「加瀬君は、何かスポーツやるの?」
「いやぁ、全く。大学では超常現象研究会というオタク系に所属してましたから」
「身長も百八十くらいあるだろ? なんかもったいない感じだなぁ」
「休日は家でネットゲームばかりしています。彼女もいないし」
「やっぱり、もったいないな。もし今日が休みだったら、こんなにいい天気なんだし、どこか知らない所へのんびりと行ってみたくならないかい?」
「小泉さんなら、どこに行きますか?」
先輩に聞いておいて、自分が行くならばどこがいいだろうと考えていたら……。
初めは、遠くで女の子が甲高い声で叫んでいるような、そんな音が聞こえた気がする。
「あれっ? 何か聞こえませんでしたか?」
「うん、何だ? この音は」
徐々に高くなっていき、圧を感じるようになる。
まるで飛行機に乗った時のように、耳に違和感が生じてきた。
みんな業務の手を止め、顔を上げた――その時。
音にならない音を衝撃波として体が感じた。
同時に、窓ガラスが次々と割れていく音がする。
音の方を見ようにも、押しつぶされるような力が加わって体の自由が利かない。
カウンターを両手で掴み、とっさに下へもぐりこむ。
と、今度は急降下するような感覚に襲われた。
垂直落下式の遊具にでも乗ったかのように、ふわりと浮く感覚。
それが、どこまでも、どこまでも落ちていくかのように続いた。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
ほんの数秒かもしれないし、数分続いたのかもしれない。
やっと止まった。
そう感じてカウンター下から立ち上がると、そこは先ほどまで業務をしていた職場とは思えない光景だった。
「――小泉さんっ!」
先輩は書架の下敷きになり、ありえない角度に首を曲げて倒れていた。
「そんな……」
あらためて辺りを見回すと、呆然と立ち尽くす人、けがをして呻いている人、電話を掛ける人……一体、何が起きたんだ?
「誰か来てくださいっ!」
佐伯さんの声が聞こえた。
「課長が……」
彼女の声がする方へ行くと、水野課長が頭から血を流して倒れている。佐伯さんが呼び掛けても反応がない。
「佐伯さん、エレベーターホールにあるAEDを取ってきてくれますか!」
先週に受けたばかりの救命士講習が、こんなにも早く役立つなんて……。
「課長! 聞こえますかっ! 聞こえますかっ!」
両手で心臓マッサージをしながら、声を掛ける。
「一体、どうなってるんだっ!」
佐藤係長の怒声が響いた。
「消防や警察に通報しようにも、電話が通じないなんて……」
「災害用の衛星電話を使えば――」
「とっくに使ってるさ! 衛星電話も通じないんだ!」
AEDをセットしながら、言いようのない不安が沸き上がってきた。
『電気ショックが必要です。充電を行います』AEDから音声が流れる。
「外が……。外が……」
佐伯さんがうわ言のように呟いている。
『体から離れて下さい。点滅ボタンをしっかりと押してください』
一階の市民フロアも騒がしい。
もちろん、けが人も多いのだろうけれど、何か異様な雰囲気が伝わってくる。
『胸骨圧迫と人工呼吸を続けて下さい』
「加瀬君、ちょっと一階を見てくる。課長は任せたぞ」
佐藤係長が走っていった。
『心電図が変化したので、電気ショックを中止します』
今できる水野課長への手当ては済んだ。あとは出血が止まってくれればいいのだけれど。
顔を挙げ、はじめて窓の外に目を移した。
ガラスのない窓越しの景色は――。
俺は展望回廊に向かうため、階段へと駆け出した。
*
札幌の地下鉄・大通駅を中心とした半径約五キロの謎の陥没を、マスコミは〈大空落〉と呼んだ。まるでそこだけ空が落ちたかのように。
穴はどこまで深いのか、穴の底はどうなっているのか、犠牲者は? 救助方法は?
何もかもが「分からない」ということだけが明確にされていた。
通信も途絶え、ヘリコプターも気流が乱れていて降下できず、ドローンを飛ばしても操作限界距離を超えてしまう。
ただただ、深く暗い穴がどこまでも続いているかのようだった。
*
無我夢中で一気に階段を駆け上がり、息を切らしながら展望回廊へたどり着く。
目の前には――何もなかった。
ここから見えるはずの大通公園も、テレビ塔も、時計台も、何もかも。
見渡す限り、赤茶色の荒れ地が続いていた。
空も一面が雲に覆われ、茜色に染まっている。
「俺は……どこにいるんだ?」