第10話 分岐点
文字数 2,271文字
余震のこと、建物は安全なことをサクラから廻りの人たちへ説明してもらい、みんなが落ち着いたところで二階へ戻ろうと階段室へ入ると、何やら地下から大きな声が聞こえてきた。
気になって降りていくと――
「いいから、早く出せ!」
「そんなことは出来ませんっ!」
食堂のカウンター前で、白い調理服を着た初老の男性をスーツ姿の年配の男性が怒鳴りつけている。
あの高圧的な態度からも、かなり上の役職なのだろう。
庁内で顔を見たことはあるけれど名前は憶えていない。彼の後ろには二十人程の職員の他、調理師らしき人の姿も見えた。
一方、カウンター内の調理師さんたちは、どうしていいものか困惑した様子だ。
いったい何を揉めているのか……。
「つべこべ言わずに、そこにある食料を出せと言ってるんだ!」
「ご存知の通り、残りの食料は貴重なものです。理由も分からずお渡しすることは出来ません!」
「何なら、力づくで持って行ってもいいんだぞ!」
興奮しているのか、顔を赤くしてまくしたてているが、それはいくら何でもまずいだろう。
「ちょっと待ってください」
カウンターへ近づき、落ち着かせようとわざと大きな声でゆっくり話しかけた。
「何だ、君は」
調理師さんからこちらへ向き直りながら、威圧的な視線を隠そうともしない。これだからお偉いさんは、と舌打ちしたくなるのを抑えて一礼をする。
「戸籍住民課の加瀬と言います。何かトラブルでも?」
「君には関係ない」
「でも食料の件で――」
「関係ないと言ってるだろっ!」
いきなり怒声を浴びさせてひるませようとしたのかもしれないが、俺には逆効果なんだよなぁ。上下関係が絶対の体育会系が嫌で、サークルもオタク系を選んだくらいだから。
こちらも戦闘モードに入って、強い口調で切り返す。
「いいえ、関係があります。食料は、ここにいるみんなのものです。当然、私の分も含まれているので、食料については無関係ではありません!」
「その通りだ」
えっ!? いきなり肯定された……?
気勢をそがれて動揺している俺に構うことなく、お偉いさんは話を続ける。
「加瀬君、と言ったね。君の言う通りだ。
食料はみんなのもの、私の分やここにいる彼らの分も含まれている。だから、それを渡せと言っているんだ」
後ろに従う職員たちも相槌を打っている。
「いきなりそんなことを言われても……。はい、どうぞとお出しすることは出来ません」
さっきまで対峙していた調理師さんが、俺に向かって懇願するように話しかけてきた。お偉いさんの話を聞いて、対決しようとしていた気持ちが一気に萎えるとともに、この調理師さんが抱いているであろう疑問が浮かんでくる。
「食料を取り出して、どうするんですか?」
返答は一言だった。
「ここを出る」
「河本さん、これは何の騒ぎですか?」
ちょうどそこへ後ろから声が掛けられた。
振り向くと、田町副市長が肩で息をしながら立っている。この件を聞きつけて、七階の危機管理対策室から大急ぎで駆け付けたのだろう。
声の主を見るなり、露骨に嫌な顔をして話をしようとしないお偉いさん――河本さんに代わって、俺が経緯を副市長へ説明した。
「河本さん、会計局長だからと言って勝手な振る舞いをされては困ります。食料をもってここを出て、どうするおつもりなんですか?」
非難めいた副市長からの問いかけに、河本さんがやっと口を開いた。
「それじゃ聞くが、ここにいてどうなるというんだ?」
「ここで待っていれば、助けが来るのか?
ここにいれば、雨でも降ってくるっていうのか?
危険があるからと言って限られた人数で廻りを探索したって、食べ物どころか、水さえ見つからない。
おまけに、こんな大地震さえ起きる。もう、ここに留まる意味なんてないじゃないか!」
一気に思いを吐き出したからか、河本さんは大きく息を吸い込んだ。
あの人の中でずっと溜め込んでいたものが、さっきの地震をきっかけとして内に留めておくことが出来なくなったんだろう。
そう言われてみると、河本さんの意見に反論することは俺には出来ない。果たして何が正解なのか、きっと誰にも分からない。
正解があるのかすらも……。
「この後はどうするおつもりなんですか?」
しばらく黙っていた副市長が、あらためて静かに尋ねる。
「野宿しながら行けるところまで行ってみる。谷の方は行き止まりらしいから、どこか他の方角を選んでな。
どうせ――いや、いい。
好きなようにやらせてもらいたい」
そう言って河本さんがゆっくりと頭を下げた。
「……分かりました。もし水が見つかったら、私たちにも知らせてくださいね」
副市長の言葉に河本さんは頭を上げて初めて笑顔を見せ、がっちりと握手をした。
その後、副市長の指示で、河本さんの趣旨に賛同する者を募って送り出すことになった。サクラにも確認しに行ったら「ที่รัก《ティラ》は?」と聞かれたので、留まることを伝えると、彼女たちも残ると言う。
結局、六十二人も希望者が集まった。
職員のみならず旅行者や調理師も数名いるそうで、食料だけでなく調理器具や工具なども分け、夕食が終わった二十一時過ぎに彼らは谷と反対の方向を目指し、出発していった。
*
これで、庁舎内に残っているのは重傷者二十三名を含めた二百九十一名となった。
彼らに残されているのは――六十五時間。
気になって降りていくと――
「いいから、早く出せ!」
「そんなことは出来ませんっ!」
食堂のカウンター前で、白い調理服を着た初老の男性をスーツ姿の年配の男性が怒鳴りつけている。
あの高圧的な態度からも、かなり上の役職なのだろう。
庁内で顔を見たことはあるけれど名前は憶えていない。彼の後ろには二十人程の職員の他、調理師らしき人の姿も見えた。
一方、カウンター内の調理師さんたちは、どうしていいものか困惑した様子だ。
いったい何を揉めているのか……。
「つべこべ言わずに、そこにある食料を出せと言ってるんだ!」
「ご存知の通り、残りの食料は貴重なものです。理由も分からずお渡しすることは出来ません!」
「何なら、力づくで持って行ってもいいんだぞ!」
興奮しているのか、顔を赤くしてまくしたてているが、それはいくら何でもまずいだろう。
「ちょっと待ってください」
カウンターへ近づき、落ち着かせようとわざと大きな声でゆっくり話しかけた。
「何だ、君は」
調理師さんからこちらへ向き直りながら、威圧的な視線を隠そうともしない。これだからお偉いさんは、と舌打ちしたくなるのを抑えて一礼をする。
「戸籍住民課の加瀬と言います。何かトラブルでも?」
「君には関係ない」
「でも食料の件で――」
「関係ないと言ってるだろっ!」
いきなり怒声を浴びさせてひるませようとしたのかもしれないが、俺には逆効果なんだよなぁ。上下関係が絶対の体育会系が嫌で、サークルもオタク系を選んだくらいだから。
こちらも戦闘モードに入って、強い口調で切り返す。
「いいえ、関係があります。食料は、ここにいるみんなのものです。当然、私の分も含まれているので、食料については無関係ではありません!」
「その通りだ」
えっ!? いきなり肯定された……?
気勢をそがれて動揺している俺に構うことなく、お偉いさんは話を続ける。
「加瀬君、と言ったね。君の言う通りだ。
食料はみんなのもの、私の分やここにいる彼らの分も含まれている。だから、それを渡せと言っているんだ」
後ろに従う職員たちも相槌を打っている。
「いきなりそんなことを言われても……。はい、どうぞとお出しすることは出来ません」
さっきまで対峙していた調理師さんが、俺に向かって懇願するように話しかけてきた。お偉いさんの話を聞いて、対決しようとしていた気持ちが一気に萎えるとともに、この調理師さんが抱いているであろう疑問が浮かんでくる。
「食料を取り出して、どうするんですか?」
返答は一言だった。
「ここを出る」
「河本さん、これは何の騒ぎですか?」
ちょうどそこへ後ろから声が掛けられた。
振り向くと、田町副市長が肩で息をしながら立っている。この件を聞きつけて、七階の危機管理対策室から大急ぎで駆け付けたのだろう。
声の主を見るなり、露骨に嫌な顔をして話をしようとしないお偉いさん――河本さんに代わって、俺が経緯を副市長へ説明した。
「河本さん、会計局長だからと言って勝手な振る舞いをされては困ります。食料をもってここを出て、どうするおつもりなんですか?」
非難めいた副市長からの問いかけに、河本さんがやっと口を開いた。
「それじゃ聞くが、ここにいてどうなるというんだ?」
「ここで待っていれば、助けが来るのか?
ここにいれば、雨でも降ってくるっていうのか?
危険があるからと言って限られた人数で廻りを探索したって、食べ物どころか、水さえ見つからない。
おまけに、こんな大地震さえ起きる。もう、ここに留まる意味なんてないじゃないか!」
一気に思いを吐き出したからか、河本さんは大きく息を吸い込んだ。
あの人の中でずっと溜め込んでいたものが、さっきの地震をきっかけとして内に留めておくことが出来なくなったんだろう。
そう言われてみると、河本さんの意見に反論することは俺には出来ない。果たして何が正解なのか、きっと誰にも分からない。
正解があるのかすらも……。
「この後はどうするおつもりなんですか?」
しばらく黙っていた副市長が、あらためて静かに尋ねる。
「野宿しながら行けるところまで行ってみる。谷の方は行き止まりらしいから、どこか他の方角を選んでな。
どうせ――いや、いい。
好きなようにやらせてもらいたい」
そう言って河本さんがゆっくりと頭を下げた。
「……分かりました。もし水が見つかったら、私たちにも知らせてくださいね」
副市長の言葉に河本さんは頭を上げて初めて笑顔を見せ、がっちりと握手をした。
その後、副市長の指示で、河本さんの趣旨に賛同する者を募って送り出すことになった。サクラにも確認しに行ったら「ที่รัก《ティラ》は?」と聞かれたので、留まることを伝えると、彼女たちも残ると言う。
結局、六十二人も希望者が集まった。
職員のみならず旅行者や調理師も数名いるそうで、食料だけでなく調理器具や工具なども分け、夕食が終わった二十一時過ぎに彼らは谷と反対の方向を目指し、出発していった。
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これで、庁舎内に残っているのは重傷者二十三名を含めた二百九十一名となった。
彼らに残されているのは――六十五時間。