第9話 試練
文字数 2,849文字
「おはようございます、佐伯さん」
佐伯さんの姿を見たのは丸一日ぶりだろうか。ずいぶんと会っていなかった気がする。
「おはようございます。係長は?」
声の感じでは、思っていたよりも元気そうだ。少し気持ちも落ち着いたのかもしれない。
「私と交代して食事に行ってます。佐伯さんもどうぞ」
「もう、そんな時間?」
二人とも壁の時計に目をやる。
「九時を過ぎてますね」
「一日中、同じような天気だから時間の感覚がなくなっちゃう」
佐伯さんの言う通り、この日も空は茜色の雲に覆われたまま。
照明が使えないので明るいのはありがたいけれど、赤み掛かった薄明りの下でずっと過ごしていると何となく落ち着かない。
「少しは眠れましたか?」
「うん、眠れた。こんな時でも、疲れたら眠れるのね」
「こんな時だからこそ、眠れるときに眠っておいたほうがいいと思いますよ」
「加瀬君は元気だね。見習わなきゃ」
そう言って、佐伯さんは弱々しい笑みを浮かべた。
俺だって泣き言を言いたくても無理してるんですよ、とは言えない。あの笑みを見てしまったら――。
遅い朝食から戻った佐伯さんと、係長を加えた三人で紙薪づくりを始めた。
コピー用紙を思いっきり捻って細く棒状にし,机の上に積み上げていく。
「これ、ストレス発散にいいですね」
「でしょ? なんで私がこんな目に合わなくちゃ、な・ら・な・いん、だっ!」
自分で掛け声を掛けながら、佐伯さんは紙を捻りつぶしている。
係長から何か言われたのかもしれない。今朝よりもかなり明るい表情を見せている。
「こんなに作ったけれど、他の部署でも作ってるんだよね。使う時が来るのかしら……」
「ずっと暖かい日が続いているけれど、いつ寒くなるとも限らないからな。備えあれば患いなし、だよ」
係長が落ち着いた声で答えた。
いつからだろう。
この見知らぬ地に来て間もない頃は係長から苛立ちも感じられたのに、今は――そう、達観しているというか、流れに身を委ねているかのようだ。
「もう十一時になるんですね。だいぶ溜まったから、段ボール箱にでも入れておきましょうか?」
箱を探しに立ち上がった、その時――。
「あれっ?」
始めは立ちくらみかと思った。
体が揺れている。
一瞬、あの時と同じことが起きるのかと身構えたが、少し様子が違う。
「これは……」
下から突き上げるような感覚と共に低い大きな音が体に響いた。
と同時に、揺れが大きくなっていく。
「地震ですよっ! かなり大きい!」
佐伯さんに向かって叫んだあと、立っているのも容易ではなくなってきたため慌てて机の下に入る。
既に係長も佐伯さんも机の下に入り、両手で机の脚を掴んでいた。この辺りの対応の早さは日頃の訓練で鍛えられている市職員ならでは、という感じだ。
「うぉっ! 凄い揺れっ!」
机がガタガタと音を立てる。こんな大きな地震、体験したことがない。
「きゃっ!」
目の前の机が佐伯さんごと跳ねるように動いて、彼女の小さな叫び声が聞こえた。
「大丈夫か?」係長の声に、「だ、大丈夫です」と佐伯さんが答える。
書類ラックだろうか、どこかで何かが倒れる音がした。
大きな揺れが続いているので顔を上げられず、音と気配だけが伝わってくる。
やがて揺れも少しずつ収まっていった。
「もう大丈夫そうだな」
係長の声を合図に、三人が机の下から顔を出した。
「みんな、怪我はないか? 佐伯さんは大丈夫だった?」
「はい。机ごと動いたので、ちょっとびっくりしちゃって……」
ファイルや作ったばかりの紙薪が、床の上に散乱している。
揺れは大きかったものの、この階では他の部署でも怪我人はいないようだ。
それにしても――。
あの訳が分からない現象でこの地に送り込まれたことといい、この大きな地震といい、一体何が起こっているんだ。
これじゃ、サバイバルSLG でプレイヤーに次々と課せられる試練のようじゃないか。
俺たちは――いや、俺は試されているのか?
まるで……。
まさか、そんな馬鹿げた話がある訳ない。考え過ぎだ。
段ボールの空き箱を見つけ、散らばった紙薪を入れていく。
片付けながら、ふいにサクラのことが頭に浮かんだ。
今の地震、大丈夫だったのかな。
いったん気になり始めると、作業も手につかない。
「すいませんっ、私の机の廻りは後で片づけるので、このままにしておいて下さいっ。ちょっと一階を見てきます!」
早口で係長へそう告げると、返事を待たずに階段へと走って行った。
「あっ、ที่รัก !」
やはり見に来てよかった。サクラだけでなく、他の人たちも不安げな表情を浮かべている。
「あー、じしん、こわいです」
いつもの勝気な笑顔もなく、本当に怖がっているみたい。
「大丈夫ですか? さっきの地震はかなり大きかったから、また揺れるかもしれません」
怪我はなかったか、みんなに声を掛けて回る。言葉は通じなくとも、心配ないよというこちらの気持ちは伝わるものだ。
「また、じしん、ありますか? タイ、おおきなじしん、ないです。とてもこわい」
タイは地震が少ないのか。
地震国と言われる日本にいたって、あんな揺れは初めて経験したけれど。
「分かりません。日本だと余震と言って、大きな地震の後には同じくらい揺れることが多いんです。
なおも不安そうなサクラに笑顔を向けた。
「大丈夫。この建物が壊れたりすることはないから」
それは、俺自身を安心させる言葉でもあった。
*
既に時計の針は十六時になろうとしている。
幸いなことに、あの地震による被害は崩れ落ちたファイルに当たって怪我をした数人のみと思われていた。しかし、たった今、谷の調査中に一名が落下したとの報告が危機管理対策室へもたらされた。
「これで、亡くなった方は三名ですか……」
田町は椅子に深く腰掛け、天井を見上げながら思わずため息をつく。
部屋を満たす重苦しい空気には、もう一つの理由があった。
調査の結果、水の痕跡はもちろんのこと、谷の終わりさえも確認出来なかったのだ。昨日、谷を発見した場所から調査班が左右へ二手に分かれ、自転車で二十キロほど進んでも谷は延々と続いていた。
そこが境界線 であるかのように。
集まっていた局長たちの顔にも焦りの表情が浮かんでいた。
水がなくなれば、この地で生きていくことすらできない。
もう打つ手はないのか……。
みんなが思案に暮れる中、突然、職員が入ってきた。
「大変ですっ! 地下の食堂で……!」
「今度は何だって言うんだ!?」
冷静にふるまっていた田町も声を荒げ、問い質す。
彼らに残されているのは――七十時間。
佐伯さんの姿を見たのは丸一日ぶりだろうか。ずいぶんと会っていなかった気がする。
「おはようございます。係長は?」
声の感じでは、思っていたよりも元気そうだ。少し気持ちも落ち着いたのかもしれない。
「私と交代して食事に行ってます。佐伯さんもどうぞ」
「もう、そんな時間?」
二人とも壁の時計に目をやる。
「九時を過ぎてますね」
「一日中、同じような天気だから時間の感覚がなくなっちゃう」
佐伯さんの言う通り、この日も空は茜色の雲に覆われたまま。
照明が使えないので明るいのはありがたいけれど、赤み掛かった薄明りの下でずっと過ごしていると何となく落ち着かない。
「少しは眠れましたか?」
「うん、眠れた。こんな時でも、疲れたら眠れるのね」
「こんな時だからこそ、眠れるときに眠っておいたほうがいいと思いますよ」
「加瀬君は元気だね。見習わなきゃ」
そう言って、佐伯さんは弱々しい笑みを浮かべた。
俺だって泣き言を言いたくても無理してるんですよ、とは言えない。あの笑みを見てしまったら――。
遅い朝食から戻った佐伯さんと、係長を加えた三人で紙薪づくりを始めた。
コピー用紙を思いっきり捻って細く棒状にし,机の上に積み上げていく。
「これ、ストレス発散にいいですね」
「でしょ? なんで私がこんな目に合わなくちゃ、な・ら・な・いん、だっ!」
自分で掛け声を掛けながら、佐伯さんは紙を捻りつぶしている。
係長から何か言われたのかもしれない。今朝よりもかなり明るい表情を見せている。
「こんなに作ったけれど、他の部署でも作ってるんだよね。使う時が来るのかしら……」
「ずっと暖かい日が続いているけれど、いつ寒くなるとも限らないからな。備えあれば患いなし、だよ」
係長が落ち着いた声で答えた。
いつからだろう。
この見知らぬ地に来て間もない頃は係長から苛立ちも感じられたのに、今は――そう、達観しているというか、流れに身を委ねているかのようだ。
「もう十一時になるんですね。だいぶ溜まったから、段ボール箱にでも入れておきましょうか?」
箱を探しに立ち上がった、その時――。
「あれっ?」
始めは立ちくらみかと思った。
体が揺れている。
一瞬、あの時と同じことが起きるのかと身構えたが、少し様子が違う。
「これは……」
下から突き上げるような感覚と共に低い大きな音が体に響いた。
と同時に、揺れが大きくなっていく。
「地震ですよっ! かなり大きい!」
佐伯さんに向かって叫んだあと、立っているのも容易ではなくなってきたため慌てて机の下に入る。
既に係長も佐伯さんも机の下に入り、両手で机の脚を掴んでいた。この辺りの対応の早さは日頃の訓練で鍛えられている市職員ならでは、という感じだ。
「うぉっ! 凄い揺れっ!」
机がガタガタと音を立てる。こんな大きな地震、体験したことがない。
「きゃっ!」
目の前の机が佐伯さんごと跳ねるように動いて、彼女の小さな叫び声が聞こえた。
「大丈夫か?」係長の声に、「だ、大丈夫です」と佐伯さんが答える。
書類ラックだろうか、どこかで何かが倒れる音がした。
大きな揺れが続いているので顔を上げられず、音と気配だけが伝わってくる。
やがて揺れも少しずつ収まっていった。
「もう大丈夫そうだな」
係長の声を合図に、三人が机の下から顔を出した。
「みんな、怪我はないか? 佐伯さんは大丈夫だった?」
「はい。机ごと動いたので、ちょっとびっくりしちゃって……」
ファイルや作ったばかりの紙薪が、床の上に散乱している。
揺れは大きかったものの、この階では他の部署でも怪我人はいないようだ。
それにしても――。
あの訳が分からない現象でこの地に送り込まれたことといい、この大きな地震といい、一体何が起こっているんだ。
これじゃ、サバイバル
俺たちは――いや、俺は試されているのか?
まるで……。
まさか、そんな馬鹿げた話がある訳ない。考え過ぎだ。
段ボールの空き箱を見つけ、散らばった紙薪を入れていく。
片付けながら、ふいにサクラのことが頭に浮かんだ。
今の地震、大丈夫だったのかな。
いったん気になり始めると、作業も手につかない。
「すいませんっ、私の机の廻りは後で片づけるので、このままにしておいて下さいっ。ちょっと一階を見てきます!」
早口で係長へそう告げると、返事を待たずに階段へと走って行った。
「あっ、
やはり見に来てよかった。サクラだけでなく、他の人たちも不安げな表情を浮かべている。
「あー、じしん、こわいです」
いつもの勝気な笑顔もなく、本当に怖がっているみたい。
「大丈夫ですか? さっきの地震はかなり大きかったから、また揺れるかもしれません」
怪我はなかったか、みんなに声を掛けて回る。言葉は通じなくとも、心配ないよというこちらの気持ちは伝わるものだ。
「また、じしん、ありますか? タイ、おおきなじしん、ないです。とてもこわい」
タイは地震が少ないのか。
地震国と言われる日本にいたって、あんな揺れは初めて経験したけれど。
「分かりません。日本だと余震と言って、大きな地震の後には同じくらい揺れることが多いんです。
ここ
はどうなのか……」なおも不安そうなサクラに笑顔を向けた。
「大丈夫。この建物が壊れたりすることはないから」
それは、俺自身を安心させる言葉でもあった。
*
既に時計の針は十六時になろうとしている。
幸いなことに、あの地震による被害は崩れ落ちたファイルに当たって怪我をした数人のみと思われていた。しかし、たった今、谷の調査中に一名が落下したとの報告が危機管理対策室へもたらされた。
「これで、亡くなった方は三名ですか……」
田町は椅子に深く腰掛け、天井を見上げながら思わずため息をつく。
部屋を満たす重苦しい空気には、もう一つの理由があった。
調査の結果、水の痕跡はもちろんのこと、谷の終わりさえも確認出来なかったのだ。昨日、谷を発見した場所から調査班が左右へ二手に分かれ、自転車で二十キロほど進んでも谷は延々と続いていた。
そこが
集まっていた局長たちの顔にも焦りの表情が浮かんでいた。
水がなくなれば、この地で生きていくことすらできない。
もう打つ手はないのか……。
みんなが思案に暮れる中、突然、職員が入ってきた。
「大変ですっ! 地下の食堂で……!」
「今度は何だって言うんだ!?」
冷静にふるまっていた田町も声を荒げ、問い質す。
彼らに残されているのは――七十時間。