第12話 変移
文字数 3,279文字
寄せては返す波のような地震の揺れとは異なり、まるで砂地に染み込んでゆく水のように静かな収束だった。
咄嗟に入ったテーブルの下から体を出した田町は、立ち上がって窓へと向かう。
「これは……」
危機管理室のある七階から見下ろす景色は、先程までのものとは明らかに変わっていた。
赤い大地と茜色の空であることを除いて――。
見馴れ始めていた、どこまでも続く平坦な地が描く地平線とは打って変わり、ごつごつとした岩山が眼前に連なっている。
どうやら今度は山の中腹のような場所へ移動させられたらしい。
やはり樹木の影は見えない。が、あれはひょっとして……
無意識のうちにシャツの上から腕をさすりながら、田町は部屋を後にした。
局長クラスに集まるよう指示を出してから数分。最初に顔を出したのは、やはり光岡だった。
「まさか、またこんなことが起きるとは……」
部屋に入るなり、さすがに疲れた表情を見せてつぶやく。
「明らかに、元の場所とは違いますからね。地続きということも考えられますが、仮にそうだったとしても、相当離れた距離であることは間違いないでしょう」
田町は椅子から立ち上がると、ゆっくりと窓に近づき指をさした。
「あれを見てください」
光岡も窓に近づき、田町がさす方に目を向ける。
「あの山肌に白く光っている所、分かりますか?」
そこには赤い岩肌を覆うように何かが薄く広がっていた。
「あっ! あれは――」
何かに気付いた光岡の言葉を遮り、田町の静かな声が響く。
「ここから見る限り、雪か氷のように見えますよね」
「ええ。それじゃ……」
「この地へ飛ばされたことで、わずかながら水への希望 が出てきました」
*
サクラに手を貸して抱き起した。立ち上がった彼女の様子を見ると、幸い怪我もなさそうなのでほっと一息つく。
もう一度深呼吸をしてから辺りを見回した。
一階のホールは倒れるような書棚などもないため、タイからやってきたサクラのグループを含め、みんな無事のようだ。ただ、誰もの表情から不安の色がうかがえる。
今度は一体どこに……。
言葉に出さなくても、胸に浮かぶ思いはみんな同じなのだろう。
あの時と同じようなことが起きた。
ならば、また見知らぬ地に来たはず。
確信と言える思いをこの目で確かめたくて、エントランスへと小走りで向かった。
二日前にここから赤い大地へ降りた時には、俺の視界を遮るものはなかった。
しかし、今は大きな岩のような山々が目の前に迫り、地平線などどこにもない。
「参ったな……」
予想していたとはいえ、目に映るものがあまりにも異なっていて戸惑いを覚えた。
それに――寒い。
明らかに、さっきまでいた場所とは違い、かなり気温が低くなっている。
山の上だからなのか、それとも全く異なる空間だからなのか。
「ที่รัก《ティラ》」
親戚たちに声を掛けていたサクラも外へ出てきた。
「みんなは大丈夫?」
「はい、だいじょうぶです。みんな、けが、ないです」
囲んでいる岩山をぐるっと見渡している。
「また、ちがう。ここ、さむいでしょ?」
「そうだね。また違う所に飛ばされたみたいだよ。今までと違って、その服じゃ少し寒いでしょう」
グレーのTシャツの上にピンクが入ったチェックのネルシャツを着て、デニムパンツといったアクティブな印象の彼女が、また腰に手を当て胸を反らせたお得意のポーズをとった。
「サクラ、はしればさむくないです」
そう言ってニコッとしたかと思うと、いきなり走り出す。
「あっ! ちょっと待って!」
慌てて彼女の後ろを追いかけた。
負けず嫌いというか、自分は強いから大丈夫ということを誇示しようとする彼女は、きっと脆い一面があるんだろうな。それを隠そうとして強がっているように見える。
走るのは苦手なんだよと思いながら、サクラの背中から目を離さずにいた。どうやら、岩山へは行かずに庁舎の廻りを走るつもりらしい。
無茶をしないことが分かったので、彼女の後をゆっくりとついていきながらあらためて庁舎を眺める。半数ほどの窓でガラスが割れてはいるものの、外見は損傷もなく以前と同じように静かに真っ直ぐ建っている。
なぜ、この建物だったんだろう。
不意にそんな思いが浮かんだ。
他の建物でもこんなことが起きたのだろうか。
今頃、札幌はどうなっているんだろう。
佐藤係長が言っていたように、もっと大変な事態が日本では起きていて、俺たちは見えない力で逃がされたのか。
あるいは……。
ずっと引っ掛かっていたけれど考えないようにしてきた。まずは、この地で生き残ることが何よりも大切なはずだから。
戻れるとしたら――その方法を考えるのはその後でいい、そう思っていたけれど、再び俺たちは飛ばされてきた。もう、残された時間も少ない。
なぜ、こんな不可思議なことが起きたのか?
状況の変移、起こった事象から謎に対する推論を組み立てて議論していた、あの時のミス研の仲間たちの顔が浮かぶ。
よし、俺なりの答えを出してやる!
きっと正解なんてない。それでも、ただ時間が過ぎるのを待つだけなんて……。
「ที่รัก《ティラ》! どうしました?」
いつの間にか立ち止まって考えていたらしい。俺がついてこないので、サクラが戻ってきた。
「ごめん、何でもないよ。ちょっと考え事を――あー、なんて説明すればいいんだろう」
意味が通じず小首をかしげる彼女に、身振りで伝える。
「あぁ、あのひとたち。きっと、だいじょうぶです」
俺が河本さんたちのことを考えていたと、彼女は思ったようだ。
確かに、あの人たちは大丈夫なんだろうか。こんなことになるとは予測していなかったから、また戻ってくる、また会えるという思いも微かに持っていた。
でも、もう会うことは――待てよ、ひょっとするとこれも……。
「加瀬君!」
今度は大きな声で呼ばれた。そちらへ顔を向けると佐藤係長が小走りで近付いてくる。
「やっぱり外に出てたのか」
「よく分かりましたね」
「おそらくタイの彼女の所だと思って行ったら、外の方を指さして教えてくれたから」
係長がサクラへ会釈しながら、話を続ける。
「すぐに戻ってくれ。庁舎が倒壊する危険があるらしい」
「えっ!?」
驚いてすぐ隣を見上げる。
「今すぐ、ということではないらしいが、二度の転移と昨日の地震で思った以上にダメージを受けているそうだ。六階から九階の柱に深刻なひび割れを確認したとの報告があって、下層階への移動準備を始めている。加瀬君も誘導を手伝うように」
「また、大きな地震が来たら危ない、ということですか?」
俺たちの話を聞いて、何となく危ないということを理解したサクラも一緒に、エントランスへ向かって歩き始めた。
「そのようだね。でも、なんで中途半端な階が壊れそうなんだろう」
「力学的には分かる気もします」
「そうなのかい?」
「長い棒を持って左右に揺らしたら、大きく振れるのは棒の先端ですが、折れるとしたら棒の中間あたりじゃないですか。根元から折れることも、まず無いし。それと同じですよ」
「あぁ、なるほどね。さすが、理系は違うな」
「単に大学を出て間もないだけです。それにしても……」
もう一度、庁舎を見上げた。
「この庁舎……崩れてしまうんでしょうか……」
係長も立ち止まって見上げる。
「分からない。ただ、あんなことが二度あったのだから、また大きな地震が来ても不思議ではないからな」
茜色の空を壁面に映しながら、庁舎は静かに建っていた。
*
新たな負傷者はなかったが、調査に出ていた五名を自転車と共に残してきてしまったため、庁舎内にいる二百八十六名が下層階へと避難を始めた。
彼らに残されているのは――五十時間。
咄嗟に入ったテーブルの下から体を出した田町は、立ち上がって窓へと向かう。
「これは……」
危機管理室のある七階から見下ろす景色は、先程までのものとは明らかに変わっていた。
赤い大地と茜色の空であることを除いて――。
見馴れ始めていた、どこまでも続く平坦な地が描く地平線とは打って変わり、ごつごつとした岩山が眼前に連なっている。
どうやら今度は山の中腹のような場所へ移動させられたらしい。
やはり樹木の影は見えない。が、あれはひょっとして……
無意識のうちにシャツの上から腕をさすりながら、田町は部屋を後にした。
局長クラスに集まるよう指示を出してから数分。最初に顔を出したのは、やはり光岡だった。
「まさか、またこんなことが起きるとは……」
部屋に入るなり、さすがに疲れた表情を見せてつぶやく。
「明らかに、元の場所とは違いますからね。地続きということも考えられますが、仮にそうだったとしても、相当離れた距離であることは間違いないでしょう」
田町は椅子から立ち上がると、ゆっくりと窓に近づき指をさした。
「あれを見てください」
光岡も窓に近づき、田町がさす方に目を向ける。
「あの山肌に白く光っている所、分かりますか?」
そこには赤い岩肌を覆うように何かが薄く広がっていた。
「あっ! あれは――」
何かに気付いた光岡の言葉を遮り、田町の静かな声が響く。
「ここから見る限り、雪か氷のように見えますよね」
「ええ。それじゃ……」
「この地へ飛ばされたことで、わずかながら水への
*
サクラに手を貸して抱き起した。立ち上がった彼女の様子を見ると、幸い怪我もなさそうなのでほっと一息つく。
もう一度深呼吸をしてから辺りを見回した。
一階のホールは倒れるような書棚などもないため、タイからやってきたサクラのグループを含め、みんな無事のようだ。ただ、誰もの表情から不安の色がうかがえる。
今度は一体どこに……。
言葉に出さなくても、胸に浮かぶ思いはみんな同じなのだろう。
あの時と同じようなことが起きた。
ならば、また見知らぬ地に来たはず。
確信と言える思いをこの目で確かめたくて、エントランスへと小走りで向かった。
二日前にここから赤い大地へ降りた時には、俺の視界を遮るものはなかった。
しかし、今は大きな岩のような山々が目の前に迫り、地平線などどこにもない。
「参ったな……」
予想していたとはいえ、目に映るものがあまりにも異なっていて戸惑いを覚えた。
それに――寒い。
明らかに、さっきまでいた場所とは違い、かなり気温が低くなっている。
山の上だからなのか、それとも全く異なる空間だからなのか。
「ที่รัก《ティラ》」
親戚たちに声を掛けていたサクラも外へ出てきた。
「みんなは大丈夫?」
「はい、だいじょうぶです。みんな、けが、ないです」
囲んでいる岩山をぐるっと見渡している。
「また、ちがう。ここ、さむいでしょ?」
「そうだね。また違う所に飛ばされたみたいだよ。今までと違って、その服じゃ少し寒いでしょう」
グレーのTシャツの上にピンクが入ったチェックのネルシャツを着て、デニムパンツといったアクティブな印象の彼女が、また腰に手を当て胸を反らせたお得意のポーズをとった。
「サクラ、はしればさむくないです」
そう言ってニコッとしたかと思うと、いきなり走り出す。
「あっ! ちょっと待って!」
慌てて彼女の後ろを追いかけた。
負けず嫌いというか、自分は強いから大丈夫ということを誇示しようとする彼女は、きっと脆い一面があるんだろうな。それを隠そうとして強がっているように見える。
走るのは苦手なんだよと思いながら、サクラの背中から目を離さずにいた。どうやら、岩山へは行かずに庁舎の廻りを走るつもりらしい。
無茶をしないことが分かったので、彼女の後をゆっくりとついていきながらあらためて庁舎を眺める。半数ほどの窓でガラスが割れてはいるものの、外見は損傷もなく以前と同じように静かに真っ直ぐ建っている。
なぜ、この建物だったんだろう。
不意にそんな思いが浮かんだ。
他の建物でもこんなことが起きたのだろうか。
今頃、札幌はどうなっているんだろう。
佐藤係長が言っていたように、もっと大変な事態が日本では起きていて、俺たちは見えない力で逃がされたのか。
あるいは……。
ずっと引っ掛かっていたけれど考えないようにしてきた。まずは、この地で生き残ることが何よりも大切なはずだから。
戻れるとしたら――その方法を考えるのはその後でいい、そう思っていたけれど、再び俺たちは飛ばされてきた。もう、残された時間も少ない。
なぜ、こんな不可思議なことが起きたのか?
状況の変移、起こった事象から謎に対する推論を組み立てて議論していた、あの時のミス研の仲間たちの顔が浮かぶ。
よし、俺なりの答えを出してやる!
きっと正解なんてない。それでも、ただ時間が過ぎるのを待つだけなんて……。
「ที่รัก《ティラ》! どうしました?」
いつの間にか立ち止まって考えていたらしい。俺がついてこないので、サクラが戻ってきた。
「ごめん、何でもないよ。ちょっと考え事を――あー、なんて説明すればいいんだろう」
意味が通じず小首をかしげる彼女に、身振りで伝える。
「あぁ、あのひとたち。きっと、だいじょうぶです」
俺が河本さんたちのことを考えていたと、彼女は思ったようだ。
確かに、あの人たちは大丈夫なんだろうか。こんなことになるとは予測していなかったから、また戻ってくる、また会えるという思いも微かに持っていた。
でも、もう会うことは――待てよ、ひょっとするとこれも……。
「加瀬君!」
今度は大きな声で呼ばれた。そちらへ顔を向けると佐藤係長が小走りで近付いてくる。
「やっぱり外に出てたのか」
「よく分かりましたね」
「おそらくタイの彼女の所だと思って行ったら、外の方を指さして教えてくれたから」
係長がサクラへ会釈しながら、話を続ける。
「すぐに戻ってくれ。庁舎が倒壊する危険があるらしい」
「えっ!?」
驚いてすぐ隣を見上げる。
「今すぐ、ということではないらしいが、二度の転移と昨日の地震で思った以上にダメージを受けているそうだ。六階から九階の柱に深刻なひび割れを確認したとの報告があって、下層階への移動準備を始めている。加瀬君も誘導を手伝うように」
「また、大きな地震が来たら危ない、ということですか?」
俺たちの話を聞いて、何となく危ないということを理解したサクラも一緒に、エントランスへ向かって歩き始めた。
「そのようだね。でも、なんで中途半端な階が壊れそうなんだろう」
「力学的には分かる気もします」
「そうなのかい?」
「長い棒を持って左右に揺らしたら、大きく振れるのは棒の先端ですが、折れるとしたら棒の中間あたりじゃないですか。根元から折れることも、まず無いし。それと同じですよ」
「あぁ、なるほどね。さすが、理系は違うな」
「単に大学を出て間もないだけです。それにしても……」
もう一度、庁舎を見上げた。
「この庁舎……崩れてしまうんでしょうか……」
係長も立ち止まって見上げる。
「分からない。ただ、あんなことが二度あったのだから、また大きな地震が来ても不思議ではないからな」
茜色の空を壁面に映しながら、庁舎は静かに建っていた。
*
新たな負傷者はなかったが、調査に出ていた五名を自転車と共に残してきてしまったため、庁舎内にいる二百八十六名が下層階へと避難を始めた。
彼らに残されているのは――五十時間。