第4話 沈まぬ太陽
文字数 2,976文字
「加瀬君は一階を手伝ってあげて」
あれから、かなり時間が経っている。とりあえず、ペットボトルの飲料水一本と一食分の非常用ビスケットを手分けして配布することになった。佐藤係長に指示され、段ボール箱を抱えながら階段を使って一階へ降りる。エレベーターが使えないので、主に低層階の部署が一階の観光客への配布を行っていた。
さっき声を掛けた、アジア系のグループの元へ向かってみよう。
あの小柄な女性を探していると、黒髪ストレートの後ろ姿を見つけた。
「こんにちは。お水、もらいましたか?」
「ハイ、なんですか?」
「みなさんにお水を渡しています。もらいましたか?」
ペットボトルを見せながら聞いてみる。
「いえ、ないです」
彼女にも手伝ってもらい、水とビスケットを配った。
「あの……みなさんは、どちらの国の方ですか?」
「タイです」
そうか、タイだったのかぁ。
「観光ですか?」
「?」
「あー、旅行――travel?」
「ハイ、そうです」
「日本語、上手ですね」
「少し。サクラは、トーキョーで、しごと、してます。レストラン」
彼女の名前はサクラ。一年前から日本に来ていて、東京のタイレストランで働いているそうだ。親戚グループが北海道旅行に来たので、一緒に遊びに来てこの状況に巻き込まれてしまった。
「私は加瀬と言います。二階にいるので、何か困ったことがあったら言ってください」
「ขอบคุณ ค่ะ 」
「え?」
「ありがと、ございます」
「あぁ。いえ、こんなことくらいしか出来なくて」
「みんな、たすかる」
両手を合わせている彼女の表情から、助かって欲しいと願っているのだと思った。
「そうですね」
そんな風に返すしか、今の俺にはできない。
配り終わって、腕時計を見ると午後十時を過ぎていた。
そのまま市民ホールを抜けて外へ出てみる。
時間の進み方が元の世界と同じならば、この地へ来てから既に八時間が経っていることになる。既に日も落ちて辺りは暗く――いや、ずっと明るいままなのだ。
暮れない空のために時間の感覚がずれていて、さっきも思わず「こんにちは」と声を掛けてしまった。
この地へ来た時に見上げた茜色に染まった雲が、今も空一面を覆っている。
ほとんど風も感じない。
「時間が止まっているのかな……」
視界を遮るもののない大地を見つめながら、エントランス前の階段を下りる。赤茶色の荒れ地へと足を踏み出そうとしたとき、一瞬ためらう気持ちがあったが前に進んだ。
赤砂ではなく、見た目よりも固い感じで、赤土というより岩盤に近い。手で触れてみると、表面は砂のようなざらつきがあるものの、やはり岩を触っているような感覚だ。持っていたボールペンで試しに削ってみようとしたら、思いのほか脆く、簡単に欠片を取ることが出来た。
「………」
左手にとって眺めていた時に、ふと思いついたことがあり、そのままポケットへと入れる。
二階の課に戻ると、すぐに佐伯さんが歩み寄ってきた。
「加瀬くん、外に出てたでしょう?」
怒っているのか、少し詰問調だ。
「あ、はい。外のことが気になって……」
「そこから見てたら、平気で出ていくんだもん。どんな状況か分からないんだから、危険でしょ!」
「すいません。でも、分からないからこそ、少しでも調べてみないと……」
「放射能で汚染されているかもしれないじゃない。そのまま入ってきたら、他の人にも影響が――」
「まぁまぁ、佐伯君もちょっと落ち着いて」
二人の様子を見ていたのか、佐藤係長が割って入ってくれた。
「外が放射能で汚染されているなら、窓ガラスも割れてるこの部屋にいたって影響があるのは分かるでしょう。それに、もし汚染されていたとしても……」
(体に変調が現れるまで、俺たちが生きていられるか分からないしな)
きっと係長も同じことを考えていたのだろう。その後に言葉が続くことはなかった。
「そうですね……。すいませんでした」
係長のおかげで、佐伯さんのトーンも少し下がったようだ。
「その放射能のことなんですが」二人に向かって、ポケットから欠片を取り出す。
「確か放射線を帯びているものは磁気を帯びている、って大学で習った記憶があるんですよ。磁気を帯びているからって、放射線を帯びているとは限らないんですけどね。これって、磁気を帯びていなければ放射線を帯びていない、ということですよね?」
「採用試験の論理的思考かい? 簡単すぎる問題じゃないか」
係長が笑いながら答えた。
「加瀬くんの言う通りだと思うけど」
佐伯さんも興味深そうにしている。
「で、この欠片で確認してみようと思って――」
そう言いながら、壁に掛かっていたホワイトボードへ近づけてみると――くっつく気配がない。
吸い寄せられる感じもないから、磁気は帯びていない、ということだ。
「これで、放射能については一件落着かな」
係長の言を受けて、佐伯さんが欠片に手を伸ばす。
「触った感じだと岩の一部みたいね。赤い岩といえば卒業旅行で行った、オーストラリアのエアーズロックを思い出すなぁ」
「あれは山みたいな大きい一枚岩でしょ? これは岩盤みたいな感じで、堅いけれど脆いですよ」
「三月だったから夏で、気温が四十度くらいあって。ハエも多くて大変だったなぁ」
「だから、あんな感じじゃ――」
言い掛けて、気付いた。
佐伯さんの目が潤んでいるように見える。少しでも現実と結びつけて考えたいんだな。それからしばらく、卒業旅行の思い出話を係長と一緒に聞いた。
*
十四階の会議室を離れ、田町は七階の危機管理対策室を本部とした。エレベーターが使えない状況で、上下階への連絡を考慮すれば適切な判断とも言えるが、本来であればもっと早く移動すべきであった。
「冷静に対処しているつもりだったけれど、やはり頭の中では混乱していたんですかね」
自嘲気味に話す田町へ、光岡は穏やかに微笑みながら答えた。
「仕方ないんじゃないですか。私なんか、今でも整理がついてないですよ」
「そう言ってもらえると、少しは気が楽になります。こんな状況の中、光岡さんには積極的に動いてもらって感謝しています。ありがとう」
「まぁ開き直りみたいなもんですよ。やれるだけのことはやって、足掻いてやるぞっ! という思いです」
二人が話す部屋にも茜色の光が射し込んでいる。
「私たちにとって幸運だったのは、この天候です」
窓へ目を見やりながら話す田町へ、光岡は怪訝そうな表情を浮かべた。
「電気が使えない今、この白夜のような空はありがたい。もし暗闇だったなら、みんなの不安も高まりパニック状態に陥ってたでしょう。それにとても穏やかな陽気で暖かいのも助かる。十一月だというのに窓ガラスが割れていても寒く感じないんですから」
「――確かにそうですね」
光岡の瞳に、再び強い意志が宿る。
「沈まない太陽が、私たちの希望の象徴にも思えてきました。いま出来ることをやってみましょう!」
対策室の壁に掛けられた時計は、ちょうど零時を指そうとしていた。
彼らに残されているのは――百十時間。
あれから、かなり時間が経っている。とりあえず、ペットボトルの飲料水一本と一食分の非常用ビスケットを手分けして配布することになった。佐藤係長に指示され、段ボール箱を抱えながら階段を使って一階へ降りる。エレベーターが使えないので、主に低層階の部署が一階の観光客への配布を行っていた。
さっき声を掛けた、アジア系のグループの元へ向かってみよう。
あの小柄な女性を探していると、黒髪ストレートの後ろ姿を見つけた。
「こんにちは。お水、もらいましたか?」
「ハイ、なんですか?」
「みなさんにお水を渡しています。もらいましたか?」
ペットボトルを見せながら聞いてみる。
「いえ、ないです」
彼女にも手伝ってもらい、水とビスケットを配った。
「あの……みなさんは、どちらの国の方ですか?」
「タイです」
そうか、タイだったのかぁ。
「観光ですか?」
「?」
「あー、旅行――travel?」
「ハイ、そうです」
「日本語、上手ですね」
「少し。サクラは、トーキョーで、しごと、してます。レストラン」
彼女の名前はサクラ。一年前から日本に来ていて、東京のタイレストランで働いているそうだ。親戚グループが北海道旅行に来たので、一緒に遊びに来てこの状況に巻き込まれてしまった。
「私は加瀬と言います。二階にいるので、何か困ったことがあったら言ってください」
「
「え?」
「ありがと、ございます」
「あぁ。いえ、こんなことくらいしか出来なくて」
「みんな、たすかる」
両手を合わせている彼女の表情から、助かって欲しいと願っているのだと思った。
「そうですね」
そんな風に返すしか、今の俺にはできない。
配り終わって、腕時計を見ると午後十時を過ぎていた。
そのまま市民ホールを抜けて外へ出てみる。
時間の進み方が元の世界と同じならば、この地へ来てから既に八時間が経っていることになる。既に日も落ちて辺りは暗く――いや、ずっと明るいままなのだ。
暮れない空のために時間の感覚がずれていて、さっきも思わず「こんにちは」と声を掛けてしまった。
この地へ来た時に見上げた茜色に染まった雲が、今も空一面を覆っている。
ほとんど風も感じない。
「時間が止まっているのかな……」
視界を遮るもののない大地を見つめながら、エントランス前の階段を下りる。赤茶色の荒れ地へと足を踏み出そうとしたとき、一瞬ためらう気持ちがあったが前に進んだ。
赤砂ではなく、見た目よりも固い感じで、赤土というより岩盤に近い。手で触れてみると、表面は砂のようなざらつきがあるものの、やはり岩を触っているような感覚だ。持っていたボールペンで試しに削ってみようとしたら、思いのほか脆く、簡単に欠片を取ることが出来た。
「………」
左手にとって眺めていた時に、ふと思いついたことがあり、そのままポケットへと入れる。
二階の課に戻ると、すぐに佐伯さんが歩み寄ってきた。
「加瀬くん、外に出てたでしょう?」
怒っているのか、少し詰問調だ。
「あ、はい。外のことが気になって……」
「そこから見てたら、平気で出ていくんだもん。どんな状況か分からないんだから、危険でしょ!」
「すいません。でも、分からないからこそ、少しでも調べてみないと……」
「放射能で汚染されているかもしれないじゃない。そのまま入ってきたら、他の人にも影響が――」
「まぁまぁ、佐伯君もちょっと落ち着いて」
二人の様子を見ていたのか、佐藤係長が割って入ってくれた。
「外が放射能で汚染されているなら、窓ガラスも割れてるこの部屋にいたって影響があるのは分かるでしょう。それに、もし汚染されていたとしても……」
(体に変調が現れるまで、俺たちが生きていられるか分からないしな)
きっと係長も同じことを考えていたのだろう。その後に言葉が続くことはなかった。
「そうですね……。すいませんでした」
係長のおかげで、佐伯さんのトーンも少し下がったようだ。
「その放射能のことなんですが」二人に向かって、ポケットから欠片を取り出す。
「確か放射線を帯びているものは磁気を帯びている、って大学で習った記憶があるんですよ。磁気を帯びているからって、放射線を帯びているとは限らないんですけどね。これって、磁気を帯びていなければ放射線を帯びていない、ということですよね?」
「採用試験の論理的思考かい? 簡単すぎる問題じゃないか」
係長が笑いながら答えた。
「加瀬くんの言う通りだと思うけど」
佐伯さんも興味深そうにしている。
「で、この欠片で確認してみようと思って――」
そう言いながら、壁に掛かっていたホワイトボードへ近づけてみると――くっつく気配がない。
吸い寄せられる感じもないから、磁気は帯びていない、ということだ。
「これで、放射能については一件落着かな」
係長の言を受けて、佐伯さんが欠片に手を伸ばす。
「触った感じだと岩の一部みたいね。赤い岩といえば卒業旅行で行った、オーストラリアのエアーズロックを思い出すなぁ」
「あれは山みたいな大きい一枚岩でしょ? これは岩盤みたいな感じで、堅いけれど脆いですよ」
「三月だったから夏で、気温が四十度くらいあって。ハエも多くて大変だったなぁ」
「だから、あんな感じじゃ――」
言い掛けて、気付いた。
佐伯さんの目が潤んでいるように見える。少しでも現実と結びつけて考えたいんだな。それからしばらく、卒業旅行の思い出話を係長と一緒に聞いた。
*
十四階の会議室を離れ、田町は七階の危機管理対策室を本部とした。エレベーターが使えない状況で、上下階への連絡を考慮すれば適切な判断とも言えるが、本来であればもっと早く移動すべきであった。
「冷静に対処しているつもりだったけれど、やはり頭の中では混乱していたんですかね」
自嘲気味に話す田町へ、光岡は穏やかに微笑みながら答えた。
「仕方ないんじゃないですか。私なんか、今でも整理がついてないですよ」
「そう言ってもらえると、少しは気が楽になります。こんな状況の中、光岡さんには積極的に動いてもらって感謝しています。ありがとう」
「まぁ開き直りみたいなもんですよ。やれるだけのことはやって、足掻いてやるぞっ! という思いです」
二人が話す部屋にも茜色の光が射し込んでいる。
「私たちにとって幸運だったのは、この天候です」
窓へ目を見やりながら話す田町へ、光岡は怪訝そうな表情を浮かべた。
「電気が使えない今、この白夜のような空はありがたい。もし暗闇だったなら、みんなの不安も高まりパニック状態に陥ってたでしょう。それにとても穏やかな陽気で暖かいのも助かる。十一月だというのに窓ガラスが割れていても寒く感じないんですから」
「――確かにそうですね」
光岡の瞳に、再び強い意志が宿る。
「沈まない太陽が、私たちの希望の象徴にも思えてきました。いま出来ることをやってみましょう!」
対策室の壁に掛けられた時計は、ちょうど零時を指そうとしていた。
彼らに残されているのは――百十時間。