第18話〈先輩の喫茶店オバード〉

文字数 5,132文字

この日、弓子は純一に告白しようと決めていた。大学を卒業したらひとりの女性として見て欲しいと……。
純一は、弓子を家に連れて帰り、それとなくふたりの付き合いを両親と弓子本人に察知して貰おうと考えていた。
純一と弓子が、それぞれに思い描いていた告白のシチュエーションは、突然、思いがけない形で訪れ、予想していなかった形で互いの気持を確認することとなった。

混雑する南座の前を避け、川端通に出てから四条大橋に向かい、四条通に出た。
純一が行こうとしている場所には川端通を三条大橋に向かうこともできるが、クリスマスの賑やかな雰囲気も捨て難く、四条大橋を渡り、四条河原町交差点まで行くと右折して河原町通を北に向かう。
河原町通の歩道にかかるアーケードに商戦に拍車を掛けるようにクリスマスソングが賑やかに反響し、店頭の立つ、サンタクロース姿の販売員が目に付く。
ケーキを売る店の前では、クリスマスケーキを売り切ってしまおうと、行き交うひとに必死に声を掛けている販売員の姿が、楽しい気分を現実に引き戻す。
混雑するアーケード下の歩道を、弓子は純一から逸れまいとして、純一の腕をしっかりとつかんで歩く。
途中、河原町通を右折して、高瀬川沿いの木屋町通を三条通まで歩き、三条大橋を渡る。
地下を走る京阪電車の三条駅から出てくるひと達で、川端通との交差点周辺も混雑していた。
ふたりは三条通を東に歩き、暫くして左折すると路地に入る。
河原町通りの喧騒が嘘のように、住宅が並ぶ小路は静かだった。
不思議そうに周りを見ている弓子に、純一が話しかけた。
「大学の先輩がやっている喫茶店なんだ、〈むべ〉と同じように、顔見知りの常連さんだけが来る店だから……」
「どんな店なの?」
「ジャズからクラシックに転向したひとでね、大学の二十年くらい前の大先輩なんだ」
「大学時代はバンド活動を?」
「そうだったみたい……、アグレッシブでアバンギャルドなプレイをするひとだったらしいよ」
「それじゃぁ大転換なのね、クラシックからジャズに移るひとは聞くけど、珍しいわね」
「うん、人生は色々だよね、何があったのかは聞いていないけど……、そうだ、話しておくよ」
「なに?」
「コーチャンズの件だけど、弓ちゃんと柴野さん以外に、クラシックからジャズを歌いたいっていう女性がコーチャンズに加わることになると思う、弦楽カルテットでヴィオラを弾いていた女性なんだ、沢見結香さんと言うひと」
「そのひと、たくみ堂の沢見さんの?」
「あれ! 、知っているの?」
「だって、お父さんの造園会社、沢見さんからよくお仕事を紹介して貰っているから……」
「そうだよ、その縁で見合いをさせられたことがあってね、結香さんには好きなひとがいたんだけど、ついこの前、婚約を破棄して、気分一新のために個人的に習っていたジャズを歌いたいって……」
「それでコーチャンズに?、コーチャンズも今までとは変わるってことね?」
「うん、彼女はクラシックからジャズに転向、コーチャンズは専属シンガーと弦楽器が一本加わってイメージチェンジってことになるかな……」

路地に入り、三、四分進むと、三階建て家屋の煉瓦壁に、ささやかなクリスマスデコレーションが見えた。
半地下の駐車場には、マスターの話しだと1970年代頃に走っていたと云う、ボンネットの前に〈DATSUN〉の文字が目立つ、真っ赤なフェアレディーが、少し埃を被って駐車してある。
「あそこだよ、分かり難い場所だけど、あのスポーツカーが店の目印なんだ……」
「ほんとね、お店は〈オバード〉って言うの?」
「うん、聞き慣れないけど、セレナードが夕べの音楽、オバードは朝の音楽の意味だよ」
「寛ぐのなら、夕べの方がいいのに、どうして朝なのかしら?」
「マスターは夜が苦手なひとなんだ、現役プレーヤーの頃は、夜の仕事が多かったから反動なんじゃないかな、だから、此処は五時半で閉店、まるでサラリーマンみたい……」
「どんなひとが、お店のお客さんなの?」
「大学の同窓生で隠居をしているひととか、近所のクラシック好きの小母さんとか、のんびりとクラシックを聞きながら、本を読みに来る学生も結構いるらしいよ」
「純ちゃんも、よく来るの?」
「まあね、のんびりとクラシックを聴きたいときもあるだろ?、それに、先輩ご夫婦が好いひとなんだ、奥さんはピアノの先生でね……」

オバードの店内には弦楽四重奏が流れていた、客は誰もおらず、マスターはカウンター外のチェアに腰掛けて、コーヒーカップを前にパイプを燻らせながら曲を聴いていた。
「おう、いらっしゃい、珍しいね、クリスマス休日にこんな処に来るなんて?」
「今年は最後になりますから、年末のご挨拶も兼ねて寄せて貰いました。今年も色々とお世話になりました」
「そんな堅ぐるしい……、それで、お連れさんは?」
「祖父の造園会社の、吉田さんの処の弓子さんです」
弓子は、笑顔でマスターに会釈をする。
マスターも笑顔で応えてから、純一に言った。
「だから……、名前は承ったよ、それで?」
「それでですか……、参ったな、恋人です」
マスターは破顔して言った。
「そうかい、やっと決めたんだな、君から何時それを聞けるかと、家内がやきもきしていたぞ……」
「すいません、心配をお掛けして」
「待てよ、それにしても、いいタイミングで来たものだな?」
「はっ、なんですか?」
「この曲だよ、間もなく第四楽章だ……、いいね、聴いて帰って調べてみたらいい」
「クラシックは全く分かりません、誰の曲ですか?」
「ベートーヴェン、弦楽四重奏曲第十六番へ長調だよ」
マスターはそう言うと、パイプの火を消した。
「一応、店内は禁煙だからね、クリスマスになんか誰も来ないと思って寛いでいたんだ。そうだ、家内が焼いたクッキーとクリマスケーキがあるから、わたし達夫婦から恋人達にプレゼントだ、食べてやってくれ、コーヒーでいいかな?」
「はい、今日のコーヒーは?」
「いいよ、特別な日なんだろ……、ブルマンの最高級を挽いてあげよう」
「ありがとうございます、ママさんは?」
「居るよ、君のファンだからな、声が聞こえていたら出てくるだろ」
曲が終わった。マスターはブルーマウンテンの缶をカウンターに置く。
「イ.ムジチのクリスマス協奏曲集でもかけようか?、それともポップなクリスマスソングがいいかな……」
「マスター、今の演奏は?」
「ああ、スメタナ四重奏団だ」
マスターはそう答えながらCDを差し替えた、弦楽曲が流れ始める。
渡されたCDケースは、イ.ムジチ合奏団のクリスマス協奏曲集とある。
「そう言えば、柏木さんの処でやっていた弦楽カルテットは解散らしいね?」
「ご存知だったんですか?」
「ああ、家内と演奏会に寄せて貰っていたんだ、残念だね」
「ヴィオラの沢見結香さんが、今度コーチャンズに加わることになりそうなんです」
「ほぅ!、ジャンルが違うんじゃないのかい?」
「彼女、ジャズヴォーカルを習っていたらしくて、歌わせて欲しいと……」
「そうか、僕はジャズからクラシックに移ったから、そんなこともあるだろうね、家内も芸大の専攻はクラシックだ、今もピアノを教えているが趣味ではジャズを弾いているからね、あのカルテットの出身女子大で、音楽部を見ている石垣達弥くんは家内の同級なんだ」
「それで彼女たちのカルテットをご存知なんですね?」
「そうなんだ、僕としては、手軽に生の弦楽カルテットが聴けて重宝していたんだが……、ところで、弓子さんは、何か音楽に接しておられるのかな?」
「軽音楽同好会でクラリネットを……、今度、純一さんのバンドに入れて貰うことに」
「そう、じゃぁ純一くんと一緒なんだ?」
「僕はアルトサックスに替える予定です、柴野さんにもテナーサックスで加わって貰うことになりました、キーボードは柴野さんの姪の方に代わります」
「柴ちゃんがコーチャンズに?、ほう、バンドのレベルが上がりそうだね?」
いい香りのするコーヒーが出て来た、同時にママがクッキーとカットしたケーキを大きなプレートに載せて、店に顔を出した。
「いらっしゃい、若いカップルなのに、クリスマスの午後に、こんな、むさ苦しい店にしか行く処が無かったの?」
「お邪魔しています、市内の店は何処も満員ですよ、ママさん、紹介します、吉田弓子さんです」
「聞こえていたわ、弓子さんの名前は、何度か貴方の口から耳にしていたから、そうじゃないかと思っていたのよ、良かったわね」
「カップルに成り立てなんです、マスターとママさんが、二番目に伝えるひとなんですよ、さっき〈むべ〉と言う店のママさんに知られましたから」
「榎木友里恵さんね?、あの方は、クラシックからジャズに転向された先輩よ……・」
「えっ、ほんとですか?、ご存知なんですか?」
弓子も驚いた表情でママを見た。
「マスターがよく知っているのよ、あの方は東京の芸大だけどね、東京では、お若い頃にクラブでジャズを歌っていらしたのよ、ねぇ、貴方?」
「ああ、今は和服姿が多いが、当時はドレス姿が素敵でね、バンド仲間の注目を集めておられた」
「そうなんですか?、綺麗なひとですもんね、ずっと独身なんですか?」
「純一くん、何で店の名を〈むべ〉と付けたか知っているかい?」
「いえ、弓ちゃん、知ってる?」
「いいえ、どうしてですか?」
「家が造園業に関わる君たちなら知っているだろ、むべの木の特徴が何か?」
純一が答えた。
「アケビの仲間で、花は綺麗で実もなるけど、普通のアケビみたいに割れないから常盤アケビとも呼ばれる、雌雄同花で自家不和合性、実は甘くて美味しいけど、ニホンサルが好んで食べるくらいであまりひとは食べない……、吉田造園にも植栽してありますけど」
「そうなんだ、常緑樹で内側が綺麗な赤紫色の結構綺麗な花が咲く、純一くんの言うように、実も甘くて美味しい、なのに、意外と誰も手を出さない、むべには滋賀の大津に都があった頃、天智天皇にまつわる話が残っている植物でね、男の子八人を持つ老夫婦の長寿の元になっていたとされる果実で、天智天皇がその老夫婦からむべの効能を聞いて、『いかにも、もっともなことだ』、つまり、『むべなるかな』、の語源になったとされている……、結婚もせず、子供の無い友里恵さんの、皮肉な洒落だと思っているんだけどな」
「そうなんですか……、でも、偶然だなぁ、三人とも僕たちと関係のあるひとだなんて……、ママさん、実は、まだ、僕たちの関係を両親には話していないんです」
「あら、そうなの?」
「今夜、家の両親と食事をすることにしているんですが、弓子さんを連れて行くだけで、察して欲しいと思っているんですけどね」
「そうなの、純一くんにそろそろ好い人が現れたらいいなって、ずっと心配していたから、わたしも安心だわ、素敵なお嬢さんだから、喜ばれるんじゃない?」
「弓子さんは、来春、大学を卒業するんです、ですから結婚はまだ……、それに妹が急に結婚が決まって、兄にも婚約者ができたものですから」
「そうだったね、兄さんがまだだった……、そう、それは良かった、幸一くんは暫く顔を見せていないが、何処のお嬢さんと?」
「兄の相手は弦楽カルテットの第一ヴァイオリの小林律子さんです、兄の親友の妹さんなんです」
「へぇ、それは意外だな、僕たちが知らないひとじゃないんだ、そうか、それでカルテットを解散なのか……」
「ほんとに、お目出度いお話しね、それじゃぁ、純一くんにしたら年下のお義姉さんになるのね?」
「そうか、気が付かなかった、これからは馴れ馴れしく律子さんとは呼べなくなるなぁ」
「妹さんもなら、ご両親は大変じゃないの?」
「いえ、格式の無い家ですし、両親は僕たち子供には自由にすればいいって言ってくれていますから、兄もそれなりにやると思います」
「妹さんはそうは行かないでしょ?、お相手があることですよ?」
「妹の婚約者は勤務先の病院の先生で、市内にある実家の開業医を継ぐひとですから、結婚前から看護師として彼の家に住むことに……」
「あら、どうして?」
「お父さんの先生が病気で、来院者の診察が出来なくなって来ているらしくて……」
「そうなの……。でも、純一くんの彼女居ない暦は長かったわね?」
「そうだな、卒業してから五、六年になるだろ?、君、さっきベートーヴェンの弦楽四重奏を聴いていただろ、十六番のちょうど四楽章の始まる前に純一くんが見えたからね、独りで笑ってしまったよ」
「そうですね、意味は同じとは言えないけど、面白いわ……、さぁ、召し上がれ?」
純一も弓子も、夫婦の会話の意味が分からなかった。
『ベートーヴェン、弦楽四重奏曲第16番へ長調、第四楽章』が気になった純一は調べてみようと思った。
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