第2話〈第一ヴァイオリン〉

文字数 4,005文字

玉木幸一は久し振りに親友の小林憲司の自宅を訪ねる。
ふたりは高校時代からの親友で、大学も同じ法学部に進んだ。
憲司は祖父の意思を継いで弁護士になった。
幸一は憲司と志を同じくして弁護士を目指していたが、弁護士への道を諦めた。憲司は幸一を咎めることはなく、大学卒業後に予備校の講師になった幸一とは、以前にも増して仲良く付き合っている。
幸一は中学時代にブラスバンド部に在籍し、トランペットを吹いていた。
憲司とふたりで法律家を目指すと決め、高校時代は勉学に集中し、暇があれば独りでトランペットを吹いたり、ジャズを聴いたりして気分転換をした。
ふたりに時間があれば碁盤に向かい、必ずどちらかが二連勝するまでやった。
幸一が司法試験を受けなかったのは、弟の純一に誘われて行った日野晧正のステージを見たからだった。幸一はジャズ.トランペットにのめり込んだのだ。
当時、幸一から「司法試験を諦めるが、法律の勉強は続けたい」と聞かされた憲司は、「それもいいかも知れないな」とだけ言った。
幸一は憲司と同じように、今までどおり司法試験に向けての勉強を続けた。憲司が司法試験に合格することを、心から願ってのことだった。

小林家に行くと、歳の離れた次女の美紀が出迎えてくれた。
「玉木さんいらっしゃい、兄はまだ帰ってないんですけど……、どうぞ上がって下さい、お祖父ちゃんが楽しみにしてますから」
「今日は、練習は無かったの?」
「してきましたよ、でも試験が近いので練習時間は短縮なんです、純一先輩はお元気ですか?」
「うん、これからは演奏会が多くなるだろ、手伝いで忙しいって、こぼしていたよ」
「大変ですよね、楽器店のお手伝いでしょ?」
「そうらしいね、美紀ちゃんの中学にも行っているのかな?」
「はい、練習も見に来られますし、演奏会のときには楽器運搬を手伝いに来られることもあります、教えて貰うこともあるんですよ」
「だって、純一はクラリネットだよ、美紀ちゃんはフルートじゃなかった?」
「そうですけど、教え方が上手なんです、部活の先生もそう仰ってました」
「ふーん、じゃぁ、お祖父ちゃんと一局、何時もの部屋だね?」
「はい、後でお茶を持って行きます」
「おっと、美紀ちゃん、お土産、これ、シュークリーム」
「これ、お姉ちゃんが好きなんですよね……」
憲司には四歳年下の律子と、十四歳下の美紀のふたりの妹がいる。
律子は市内の大型書店に勤務しながら、子供の頃から続けているヴァイオリンを今でも先生に付いており、仲間と弦楽四重奏をやっている。
美紀は、幸一の弟、純一の出身中学校の後輩で、吹奏楽部の後輩でもある。部活ではフルートを吹いていた。
美紀は、一回りは歳の差がある純一のことを、兄の親友の弟でもあり、親切な先輩として、慕っていた。
憲司の祖父は元判事で、女ばかりの子供は誰も法律関係には進まず、孫の憲司が意思を継いで弁護士になった。
憲司の父親の由二は紙器メーカーの技術部長で、母の千里とは社内恋愛で婿養子として小林家に入った。
千里は夫の由二より十センチは背が高かったが、腰の低い優しい女性で、由二も柔和な印象を与える、好ましい上司と言った感じの紳士である。

土蔵の白壁が見える座敷に行くと、憲司の祖父の武治が笑顔で幸一を迎えてくれた。
碁盤と碁石は既に準備してあり、座布団も敷いてある。
「お元気ですか?」
「ああ、いらっしゃい、幸一くんと打つのが楽しみなんだ、我が家の男連中は弱くてなぁ、相手にならんのだよ」
「そうですか、憲司くんとは五分五分なんですけどね」
「まさか……、憲司が、わたしに手を抜いているなんてことは無いよな?」
「いや、威圧されるんじゃないですか、対局相手が家長ですから」
「そうとは思えん、下手な手を打ってくるんだ……。さぁ、憲司が戻る前に、決着が付けばいいがね?」

盤上は五分の形勢を保っていた、美紀が部屋に来た。
「お茶をどうぞ?」
「ありがとう、お祖父ちゃんなぁ、今、苦戦をしているんだ……」
「ありがとう美紀ちゃん、そんなことは無いよ、こっちの方が形勢不利なんだ……」
「玉木さん、お母さんが買い物から帰ってきたんだけど、夕飯を食べて行って下さいって、いいでしょ?」
「悪いなぁ、憲ちゃんは何時ごろになるのかな?」
「もう事務所は出ていると思いますよ、自分がやっている仕事は一段落したって、昨日そう言っていましたから」
「そう……、拙ったかなぁ……、美紀ちゃん、今日はお祖父ちゃんに負けそうだよ」
結局、石を途中まで埋めた処で、武治が「わたしの負けだね」と言った。
碁石を仕舞いながら、武治が言った。
「幸一くんには、誰か好きな女性がいるのかな?」
「はっ!…まぁ、いないこともありませんが……」
「そうかい、弟さんも音楽をやっておられたね?」
「はい、美紀ちゃんの中学の先輩で、大学でも軽音楽でクラリネットを……」
「お勤めは楽器メーカーと聞いておるが、柏木楽器にも出入りをしておられるのかな?」
「ええ、市内では大きな楽器店ですから」
「律子が、柏木さんにヴァイオリンを習っておるんだ。弦楽カルテットで色々と演奏会に呼ばれているらしいが、純一くんは律子に会ったことがあるのかな?」
「いや、知っていれば、わたしに話すと思いますが、何も聞いていません」
「どうだろう、一度、会わせてやってみてくれないかな?」
「はっ、どう云うことですか?」
「深い意味はないんだ、美紀はとてもいい先輩だと話しているし、幸一くんの弟さんなら、と思ってね」
「そう云うことですか、どうか分かりませんが、話してみましょうか?」
「無理にとは言わんよ、差しさわりが無ければと云うことでいいんだがね」
「分かりました」

小林律子は女子大に在学中、学内の交響楽団に所属してヴァイオリンを弾いていた。
芸大卒業後、同じ楽団員だったヴァイオリン奏者の三沢杏子と、ヴィオラ奏者の沢見結香に加え、楽器店の社長で、小学校の頃からヴァイオリンを教わっていた柏木太郎から紹介をされた、チェロ奏者の山口慎也と弦楽四重奏団を組み、ボランティアで施設訪問をしたり、デパートやホテル、レストラン等の催しに招かれて演奏をしていた。
演奏の場は、柏木太郎が何処からか引いて来てセッティングをしていた。
律子はクラシックが専門だが、ジャズにも興味を持っており、幸一が憲司を訪ねてやって来ると、たまにはジャズ談義をする。そんなとき、何時も妹の美紀が加わって、興味深そうにふたりの話しを聴いていた。

憲司が帰宅し、幸一は夕食をご馳走になることにした。
主人の由二と律子の帰宅は遅くなると、母親の千里が伝える。
和やかに食事をしながら憲司が言った。
「幸ちゃん、今日は早かったらしいね、お祖父ちゃんは碁の相手が出来て喜んでいるみたいだけど、授業はやっているのか?」
「ああ、もう山場は済んでいるよ、あとは生徒が、何処まで自力を発揮するかだ」
「合格率は給料に影響するんだろ?」
「憲ちゃん、心配するなよ、講師としては割と優秀な方なんだ」
「そうか、じゃぁ給料も、そこそこってことだな?」
「まあな」
「次は嫁さんだな?」
「それか……、お袋には言われているよ」
美紀が言った。
「玉木さんには恋人はいないんですか?」
千里が言った。
「美紀ちゃん、貴女が心配しなくてもいいのよ」
「幸ちゃん、どうなんだ?」
「まぁ、居ないとも居るとも言えないな、まだ深く付き合っている訳じゃないから」
「そうか、まぁ、僕よりは早いよな、僕の給料じゃ、まだ食べて行けないから」
「そんなの直ぐだよ、自分で事務所を構えれば、幾らでも花嫁候補は出てくるさ」
祖父の武治が言った。
「憲司、幸一くんの弟さんの純一くんは、律子と会ったことはないのか?」
「さぁどうだったかな、律子は、此の頃忙しそうだし、話すこともないから、よく分からないけど、幸ちゃん、どうかな?」
「そうだな、会う機会があるとすれば柏木音楽堂くらいかな、律子さんは、あそこで練習をしているんだろ、純一も営業で、よく顔を出すらしいし、柏木音楽堂で演奏会の楽器搬送の手伝いもしているからな」
「お兄ちゃん、わたしは演奏会で純一先輩とは、よく会うわよ」
「そうか、美紀の中学の吹奏楽部の、ずっと前の先輩だもんな、純一先輩って呼んでいるのか?」
「うん、先生が純一って呼ぶから、とても部員に人気があるのよ、教え方が上手だし、優しいから」
武治が訊いた。
「美紀、どんなひとなんだ?」
「うん、玉木さんより背が高くて、柔らかい表情のひとよ、みんなとも気楽に話してくれるし、音楽の理解の仕方なんかも教えてくれるの…」
「美紀ちゃん、柔らかい表情って、それじゃぁ僕はどんな感じなの?」
「玉木さんは、お祖父ちゃんやお兄ちゃんと一緒、何か、目つきが険しい感じがするときがあるわ、本当は優しいけどね……」
「お祖父ちゃんは美紀には優しい筈だがな、そんな顔をしているか?」
「お祖父ちゃんが、独りで碁盤の前に座っているときは怖いもん……」
武治は笑った。
千春が武治に言った。
「お父さんは、どうして幸一さんの弟さんのことが気になるの?」
「いやな、幸一くんには話したんだが、律子と純一くんはどうかと思ってな」
「まぁ、そんなこと、思うようには行きませんよ、それに美紀が言うように感じの好いひとなら、きっと好い人がいらっしゃいますよ、ねぇ幸一さん?」
「どうですかね、僕に気を遣ってなのか、家では女性のことを聞いたことはありませんから」
「玉木さん、ほんとうに純一先輩には恋人はいないんですか?」
「どうしたの、美紀ちゃん、そんなに真剣な顔で?」
「いえ、別にいいんですけど……」
黙って笑顔で聴いていた祖母の美津が言った。
「美紀ちゃんの憧れの先輩なのよ、ね……」
「お祖母ちゃん、そんなの言わないでよ、恥ずかしいじゃない」
千里が言った。
「いいじゃないの、素敵なひとに憧れるのは悪いことじゃないわ」
美紀は頬を赤らめて、急にご飯を食べ始めた。
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