第5話〈灯台下暗し〉

文字数 4,732文字

憲司が帰宅した時には、家族の夕食は終わっていた。
母の給仕で夕食を済ませると、事務所から持ち帰った法律雑誌を自分の部屋で読んでいた。
ドアにノックがあった。
「お兄ちゃん、ちょっといい?」
「ああ、美紀か、入っていいぞ」
「お母さんが持って行きなさいって、これ、わたしの分もよ」
美紀は、皮を剥いてカットした梨が盛られたガラス器の載ったトレーを持っていた。
「ああ、ありがとう、美紀も此処で一緒に食べるのか?」
「うん」
美紀は憲司が差し出した踏み台の上にトレーを置くと、幸一のベッドの端に腰掛ける。
お互いにフルーツフォークで梨を突き刺すと口に運ぶ。
「美紀、家では今年初めての梨だな?」
「うん、お祖母ちゃんのお友達の息子さんから送って来たんだって」
「何処の?」
「お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは、ずっと前に山陰の方の裁判所に行っていたことがあるって言っていたでしょ、その頃のお祖母ちゃんのお友達だったひとの息子さんだって……」
「ふーん、そう言えば去年だったかなぁ、亡くなられて、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんが一緒に倉吉まで葬式に行ったことがあったな、憶えているよ、京都駅まで送って行ったから」
美紀がフルーツフォークを置いて憲司を直視する。
「それより、お兄ちゃん?」
「何だ、改まって?」
「お兄ちゃん、お姉ちゃんに何か言ったでしょ?」
「何のことだ?」
「お兄ちゃんは鈍いのよ」
「何が?、分かるように話してくれないと、理解できないだろ?」
「お兄ちゃんと玉木さんは、純一先輩とお姉ちゃんを会わせたでしょ?」
「ああ、そのことか、別にどうという事はないだろ?、食事をして、飲んだだけだよ」
「あるわよ、お兄ちゃん達は、純一先輩とお姉ちゃんが付き合えばいいと思っていたんでしょ?」
「どうしてそう思うんだ?、まぁ、そんな気持ちも無いことはなかったけどな」
「だから鈍いのよ、お姉ちゃんは玉木さんが好きなのに……」
「嘘!、美紀、それ、ほんとか?」
「ほんとだよ、お姉ちゃんは困っているみたいだよ、あの日、帰ってから機嫌が悪かったのよ、気が付かなかったでしょ?」
「参ったな、全然気が付かなかったよ、幸ちゃんも、気が付いていないんじゃないかなぁ……」
「もう……、ふたりとも駄目なんだから、自分の好きなことばっかりで、女性の気持ちなんか知ろうともしないでしょ、本を読んだり碁を打ったり、玉木さんはジャズとトランペットの話しばかりだし、ほんとに……」
「美紀、どうしたらいいんだ?」
「そんなの知らないわよ、玉木さんの家だって、純一先輩は次男だから、結婚するとしても玉木さんから順番でしょ?」
「そんな順番はないけど、ほんとか?」
「どうしてわたしがお兄ちゃんに嘘を言うのよ、それならお姉ちゃんに訊けばいいじゃない?」
「訊けないよ、美紀から今の話を聞いたら余計に訊けないだろ?」
「ほんとに気付いてなかったの?、玉木さんもお兄ちゃんも、そんなのだったら何時までも結婚なんて出来ないわよ」
「言うなぁ、お母さんは知っているのか?」
「馬鹿なんだから、お父さんもお母さんも、お祖母ちゃんも薄々知っているわよ、知らなかったのは、お祖父ちゃんとお兄ちゃんだけよ」
「そうか、でもなぁ、お兄ちゃんから幸ちゃんに話すのも難しいよなぁ……」
「知らないわよ、弁護士でしょ、上手く話を進めないと、お姉ちゃん可哀想だわよ」
「弁護士と言っても、お兄ちゃんは男女問題の調停は担当したことがないよ」
「じゃぁ、わたしが純一先輩に話してもいい?」
「純一くんに話して、どうするんだ?」
「玉木さんに伝えて貰うのよ、だって、お兄ちゃんかお姉ちゃんしか、玉木さんに本当のことは伝えられないでしょ、それができなかったら、純一先輩からお兄さんの玉木さんに話して貰うしかないじゃない……」
「それはそうだな、でも迂闊だったなぁ……、待てよ、美紀、ひょっとしたら、純一くんは分かっているかも知れないぞ、あの日、ふたりで結構話し込んでいたんだ、お兄ちゃんは、てっきり、いい線行っていると思っていたんだ」
「ほんとに駄目なんだからぁ……。じゃぁ訊くけど、玉木さんがお姉ちゃんのこと、どう思っているのか、お兄ちゃんは知らないのね?」
「いや、嫌いじゃない筈だけど……」
「待ってよ、お兄ちゃん、もしかしたら玉木さんにも悪いことをしたんじゃないの?、玉木さんはお兄ちゃんの親友だから、お祖父ちゃんからの頼みを断れなくて……」
「えーっ!、まさか?……」
「もう……、そんなので弁護士なんか務まらないわよ、勉強ばかりで世の中のことがわかってないんじゃない?」
「お母さんみたいに言うな、仕方無いだろ、気が付かなかったんだから……」
「お兄ちゃん、どうするか決めたらわたしに言ってね。お皿、台所に返しといてね」
「ああ、律子には言うなよ、ありがとうな」
「言わないわよ、そうだ、忘れていたわ、お母さんが、先にお兄ちゃんに風呂に入ってって」
憲司は読んでいた『判例評論』を閉じると、大きな溜め息をついた。

結香が純一と会った日の夜、結香は、帰宅するなり母の辰子から訊かれた。
帰りが遅くなった理由は、田巻康雄の屋敷で玉木純一と会い、夕食を誘われて、有名な料亭の『進藤』で季節の会席料理を食べた、とだけ答えた。
辰子は機嫌良さそうに「そうか、そら良かったやないの」と言っただけだった。
結香はそれ以上のことは話さなかった。

同じ日、純一の方は帰宅すると、真っ直ぐ父親の部屋に行った。
「ただいま、お父さん、三時過ぎに田巻の小父さんに届けたから」
「ああ、そうか、おおきに、遅かったやないか、田(でん)さんは何かしとったか?」
「うん、掛け軸の架け替えをしておられた、コーヒーをご馳走になったよ、お客さんが見えていて、帰りが一緒になったから、僕は楽器運びで腹が減っていたし、進藤の小母さんの処に食事を誘って、それで遅くなったんだ」
「そりゃあ高くついたな、そうかそうか、悪かったな」
純一は良雄が意味なく微笑んだのが気になったが、何となく理解できて、部屋を出ると自分も笑顔になっていた。
翌日の日曜日は、午後から弓子と待ち合わせて、高校時代の友人の実家の時計店に行くことになっていた。
ゆっくりと眠った純一が、何時もより二時間も遅くダイニングに顔を出すと、良雄と静香の夫婦が、のんびりと朝食を食べていた。
「おはよう、兄さんと治美は?」
静香が答えた。
「幸一は仲間と練習や言うて、出て行かはったえ、治美は部屋に居てると思うけど、出て行くらしいえ、そうそう、昨日の午後やったけど、吉田さんとこの弓子ちゃんから電話があったえ」
「そう、何て?」
「駅前やのうて、前の喫茶店にしますから、言うてはった、それだけやったけど、分かるん?」
「うん、了解、僕もトーストにするかな……」
静香は、立ち上がりながら訊いた。
「卵、どうすんの?」
「じゃぁ、スクランブルで、ハムを刻んで入れて欲しいな」
「はいはい、ほな、トーストは自分でやりなさい……」
「オーケー、お父さん、ポットのコーヒー、貰っていいのかな?」
「ああ、お父さんは、もう、ええから……」
「サラダはそれでよろしいか?、トマトは切ったげるけど……」
「うん、これでいいよ、チーズはあるの?」
「冷蔵庫の下の段やけど、出したげるさかい座っとり?」
「うん」
日常と変わらない両親の対応に、純一は結香から田巻家を訪ねることになった理由を聞かされたことを思い、自分から切り出そうかどうか、迷っていた。
純一が朝食を食べている間、良雄も静香もテーブルに付いていた。
良雄は新聞を広げ、静香が梨の皮を剥きながら言った。
「あんた、弓子ちゃんと何か約束してんのんか?」
「ああ、弓子ちゃん、就職が決まったって言うから、お祝いをして上げようと思ってるんだ」
「何で、あんたが弓子ちゃんの就職のこと知ってんの?」
「柏木さんの店で偶然会ったんだ、お母さんは憶えているかなぁ、弓子ちゃんの高校入学祝いに、少し、小遣いを助けて貰って、僕が腕時計をプレゼントしたの……」
「そうや、そないなこと、あったねぇ」
「弓子ちゃん、こないだ会ったら、今でもそれを使っていたんだよ、社会人になるだろ、今度は、少しきちっとしたのをプレゼントして上げようと思って……」
良雄が言った。
「お母さん、夕べ、美江子さんの処で散在したらしいから、少し出してやったらどうや、弓子ちゃんには、展示会で世話になったことやし」
「お父さん、散在なんかしていないよ、夜のお決まりコースだから、それに、酒はあまり飲んでないし、小母さんにはサービスして貰ったんだ」
「ほな、美江子さんに、お礼を言うとかなあきまへんなあ……、ほいで、沢見さんのお嬢さんとは、お話ししたんか?」
「うん、田巻の小父さんの処からずっと……、進藤でも色々と話したよ」
「どないやった?、いいお嬢さんやったやろ?」
「お父さんもお母さんも、情報収集が杜撰だよ、沢見結香さんには彼氏がいると思うよ、確定じゃないみたいだけど、友人の紹介だと言っていたから、いい線行くんじゃないかなぁ……」
「そうやったの……」
「最初から話してくれればいいのに、茶番だよ、彼女も両親から何も聞かされずに、田巻の小父さんの所に行ったらしいけど、全部承知していたよ」
「あら、じゃぁ、向こうさんのご両親も、娘さんのこと、分かってはらへんの?」
「そうだよ、家だってそうだよ?」
「どういうこと?」
「この前、憲司さんと兄貴に誘われて、律子さんと僕と飲みに行っただろ、あの二人も何も分かってないんだ、僕に律子さんを紹介するつもりだったみたいだけど、律子さんは兄貴のことが好きなんだよ、それを全然分かってないんだ」
「ほんまやの!、あんた、律子さんから直接聞いたんか?」
「そんなの本人が言うかよ、態度を見ていたら分かるし、僕と話していても、気持ちは兄貴に行っていたから……」
良雄が言った。
「そうかも知れへんなぁ、高校時代から、憲司くんの家に出入りしているんやから、そないなこともあるやろ、親友の妹と仲良うなる云うのは、よおあるパターンや」
「お父さん、何、暢気なことを言うてはりますの、幸一かて、ええ歳ですえ、ほんまの話しやったら、考えんとあきまへんやろ、律子さんは治美と歳が変わらしまへんのやで……、そやけど、その話、ほんまなんやろな?」
「ほんとだよ、兄貴に訊いたら?……、いや、兄貴は律子さんの気持ちに気付いてるのかなぁ?」
「気ぃがついてたら、あんたを紹介したりせぇへんやろ?」
「そうか……、でも、分からないよ、兄貴は以外と気が小さいんだから、憲司さんに頼まれたら、実は自分が律子さんを好きだなんて、言い出せないことだってあるだろ?」
「田さんが言うてたなぁ、幸一には、好いひとが居てるやろから、結香さんを純一にどうやろかて……、ほんまに幸一には居たんやなぁ……、お母さんも、気ぃ付かへんかったんか?」
静香は首を振った。
「ふたりとも仕事に打ち込んでいるから、僕らまで気が回らないんだよ…、まあ、僕はその方がいいと思っているけど……」
「そりゃぁ、あんた等、みんな成人やし、いちいち親が口を出すこともないやろ……、そない思てますがな……」
「そうだろ、それなら、内緒で田巻の小父さんの所へ僕を行かせたりしないで、話してくれればよかったんだよ」
「確かに、それはそうやな、お父さんが、飲んだ席で頼まれて来はったんや、お父さんもお母さんも、そない深刻には考えてえしまへんえ」
「それも寂しいな、みんな年頃と言えば年頃だよ、少しは考えておいた方がいいよ」
「ややこしいなぁ、どっちやの?」
「成り行きでいいってことじゃないのかなぁ……」
三人は同じタイミングで、夫々コーヒーカップと湯飲みに手を伸ばした。
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