第3話〈弦楽カルテット〉

文字数 4,482文字

女子大の同期生、小林律子と沢見結香と三沢杏子は、個人的な練習は夫々がやっていたが、週に一度はチェロの山口慎也を加えて、柏木音楽堂のビルに在るスタジオで弦楽四重奏の練習をしている。
律子は、勤めている書店の時差勤務で、通常は午後六時過ぎまで勤務する、たまに退社が遅くなることもあり、退社時刻は変動する。
全員での四重奏練習日は、家事を手伝っている結香と、家業の果物店を手伝う杏子が、律子の勤務状況に合わせ、チェロの山口も調整をして参加していた。
この日は、律子も七時前には柏木楽器堂に顔を出していた。
母校の大学の音楽部顧問をしている石垣達弥が練習に立ち会い、午後七時から二時間、招待を受けた学園祭で演奏を予定している一曲、ボロディンの弦楽四重奏曲2番ニ長調を、全員が集中して練習した。
練習後、石垣達弥と山口慎也は一緒に帰り、女性三人は繁華街のケーキショップに寄る事にした。
杏子が乗って来ていた『三沢フルーツ』のロゴとフルーツの絵が描かれたボックスカーを、ケーキショップの近所のコインパーキングに入れると、夫々が大事そうに楽器ケースを持って、ショップに入る。
三人は、同じ、当日お勧めのケーキセットを注文する。
第二ヴァイオリンの三沢杏子が、スプーンを紅茶カップの中で回しながら言った。
「ねぇ結香さん、お勤めをしてはる律子さんや山口さんの方が、凄く練習をしてはるなって、今日の練習で思っちゃった」
沢見結香が頷きながら言った。
「そうね、今日の山口さんと律子さんのノットゥルノは凄く良かったわ、石垣先生も褒めてはったくらいやから、わたし達も、もっと練習をしなあかんな……」
律子が言った。
「あれはみんなが良かった思うわ、でも、わたしは山口さんのチェロの主題につられたって感じやったから、山口さんのお蔭やと思うてる。柏木先生に山口さんを紹介して貰って、良かったと思わへん?」
結香が言った。
「そうね、山口さんから教わることは多いわ、流石に芸大出身のひとには敵わへんとこあるなぁ」
律子が言った。
「でも、柏木先生は、君達はよく頑張っているって……。石垣先生も、山口さんが加わってから、君達の演奏は格調が高くなって来たって言うてはったやろ?」
「それは言えるかもね、律子さんは子供の頃から柏木先生に教わってはったやろ、わたしと杏子さんは、違うヴァイオリン教室やったけど、わたし達の先生は芸大で柏木先生の先輩になるひとやから、よお柏木先生をご存知なんやわ、律子さんのことは高校時代から聞いてたから、大学で一緒になったときに他人じゃないみたいやった、演奏テクニックに驚いたのを憶えてるわ、それが最近は、それこそ格調の高さを感じるんよ」
「そんなオーバーなこと、わたしは二人のヴァイオリンを聴いていて、何て優雅に弾かはるんやろって、思ってたんよ、テクニック以外に素晴らしい感性を持ってはるのが分かるんよ、だから、しっかり練習をしなあかんなって、ずっと思って来たんよ」
杏子が言った。
「とにかく、律子さんや山口さんに負けないように練習をしないと駄目やね、自分の家の仕事を手伝っていると、ついつい時間にもルーズになって、練習機会を少なくしてるんやわ」
結香が言った。
「そうね、父や母からは、お勤めもしてへんのやから練習時間は幾らでもあるのに、練習もせんと演奏会はないでしょって、直ぐそう言われるんや」
「でも、演奏をすることに反対やないんやから、いいじゃないの?」
「それはね、ずっと続けていることやし、それに、最初に習いに行かせはったのは母やから……」
律子が肩を落とすような仕草で言った。
「ええやないの、わたしの家は、わたしがヴァイオリンを習いたい言うて、行かせて貰ったから、家族で音楽好きは妹とわたしだけやし、羨ましいわ」
結香が言った。
「お兄さんは音楽が嫌いなん?」
「そんなには好きやないみたい、囲碁が趣味のひとやから、静かな方が好きなんやって。なのに、親友の玉木さん言うひとは、大学の交響楽団でトランペットを吹いてはったひとで、今はジャズトラッペットなんよ、弟さんはクラリネットで、妹の中学の先輩なの、時々、中学に教えに見えるって、妹が話してたわ」
結香が言った。
「ねぇ、お兄さんに恋人は?、もう、いい歳なんやろ?」
「弁護士事務所に勤めて、まだ一人前やないから、いてへんと思うけど……」
「じゃぁ、律子さんの方が先に結婚するって訳ね?」
「どうして?、結香さんこそ、もしかして、お話があるの?」
「うん、まだ具体的な話では無いけど、母が色々と動いているみたいなんや、兄が結婚する前に、家を出て行かないと駄目みたいな雰囲気なのよ……」
律子が杏子に言った。
「杏子さんはひとり娘やろ、お婿さんってことになるのかしら」
「まあ、そうなるわね」
「果物屋さんを継いでくれるひとじゃないと駄目なの?」
「ううん、それは気にせんでええって、言ってくれてるんやけど……」
「あのお店を閉めてしまうの?」
「いずれはね、果物屋は閉めて、フルーツパーラーみたいにしようかって、母はそう思ってはるみたいなんや、父も、それもええんやないかって言ってるわ」
結香が言った。
「いいわね、わたしみたいに、家を出て行かなくてもええってことやろ?」
「それはね、わたしは独りだもの、結香さんにはお兄さんが居てはるから……」
「まあね、律子さんのお兄さんと同い年なのよね、わたしの相手もやけど、兄の相手探しも大変みたい……」
律子が言った。
「お兄さんに恋人は?」
「そんな時間は無いと思う、焼き物の勉強で必死みたいやから」
「家の兄も、法律書とか判例の勉強とかで大変みたい、きちっとした男性はみんな大変なのかも知れへんなぁ……」
紅茶を飲み終えた三人が、通りに出たのは十時少し前だった。
杏子は律子と結香を、沢見フルーツのボックスカーで夫々の家に送り届けた。

玉木純一は、自社の新しい88鍵盤ステージピアノ発売の事前PRで、柏木音楽堂に来ていた。
仕入れ担当者との話し合いを終えると、次週に控えている、市内の高校の吹奏楽部の定期演奏会の楽器搬入を手伝うと申し出て、店とガラス窓で仕切られた奥の事務所で、カップコーヒーを手に談笑をしていた。
純一が椅子から立ち上がり、店のフロアに出て行く。
店内には女性店員が居たが、店内に入って来た女性に近寄りながら、純一が冗談めかして言った。
「いらっしゃいませ、何がお入り用ですか?」
「あら、誰かと思ったら純一さん、お仕事ですか?」
「うん、もう商談は終わり、今日は何を?」
「リードを……」
「そう、何を使っていたかな?」
「リコのロイヤルです、純一さんは何を使っているんですか?」
「僕はバンドレンのトラディショナルだけど、最近はリコのグランドコンサートセレクト.トラディショナルも使っているよ」
「社会人になられてから、楽しそうに演奏していますよね?」
「何時も聞きに来てくれるの、弓子さんくらいだよな?、感謝しているよ」
「わたしも卒業したら、仲間に入れて貰えませんか?」
「ほんとに?、そうだ、その前に就職は決まったの?」
「社長さんの紹介もあって、個人会社ですけど、造園資材の会社に決まりました」
「祖父が、弓子さんの就職斡旋をしたのかな?……。そう、とにかく良かったね、これから予定は?」
「リードを買ったら帰りますけど」
「よし、就職祝いをしてあげるよ」
「お仕事は、いいんですか?」
「もう終わり、五時だろ、会社に直帰の連絡を入れるから大丈夫」
吉田弓子は、店の女性からリードとコルクグリスの入った包装袋を受け取ると、純一の傍に来た。
「ほんとにいいんですか?」
「いいよ、それより、家の人に連絡しておいた方がいいよ」
「純一さんと一緒だと言ってもいいですか?」
「いいよ、その方が安心されるのなら」

吉田弓子の父は吉田造園の専務、吉田省吾である。
吉田造園の社長杉山辰治郎は、純一の母、静香の父で、純一の祖父である。
杉山辰次郎と、省吾の父の吉田重雄は、同じ日本建築を専門にする建築会社に勤めていた。
本格的な日本建築の注文が激減し、会社が傾きかけたとき、敏腕の営業担当者だった吉田重雄が、庭師として名の知れていた同僚の杉山辰治郎を誘った。
重雄と辰治郎が共同経営者として、重雄の父親が細々とやっていた吉田造園を引き継いだのは、省吾が大学の農学部に在学中の頃だった。
省吾が大学を卒業する前の年に、重雄が肝臓を癌に侵されていると分かり、重雄は辰次郎に吉田造園の経営を託すと、その二年後に他界した。
大学を卒業した省吾は、金沢の庭園業者の元で五年間の修行をし、戻ってくると、学生時代から付き合っていた女性と遠距離恋愛を実らせて結婚した。
その年、辰次郎は、行く行くは社長にと決めていた省吾を専務にする。
省吾は、辰次郎を父のように慕うと同時に、社長であり、造園士の師匠として尊敬していた。
辰治郎の孫である純一より六歳下の弓子は、辰治郎の孫の中でも、特に純一に懐き、中学入学と同時に、純一と同じクラリネットを選んで吹奏楽部に入り、高校大学も吹奏楽部に席を置いた。
中学を卒業するまで、「純一兄ちゃん」、「弓ちゃん」と呼び合い、純一も妹の治美より四歳下の弓子を、末っ子の妹のように可愛がっていた。
弓子が高校に進学すると、暫く会うこともなくなり、たまに会えば、弓子は嬉しそうに、純一と吹奏楽の話をしていた。
弓子は純一が通った大学に進学し、吹奏楽部OBの純一と会う機会が復活した。

柏木音楽堂を出ると、純一は弓子の好きな寿司を食べさせてやろうと、家族がよく利用する寿司屋に連れて行く。

「就職内定おめでとう、乾杯」
「ありがとうございます、頂きます」
「何でも頼んでいいよ、遠慮しないでいいから……」
「純一さんと一緒に食事なんて、初めてですよね?」
「そうかな?、確か、一度小父さん達と行ったことがあるよ、シャブシャブだったかな、兄貴が食べ過ぎて、店で寝てしまったことがあった……。そうか、僕が中学生の頃だから、弓子さんは小学校の……、三年か四年の頃だ」
「そんな昔でしょ、大人になってからのことですよ」
「それは無いね、待てよ、OBと現役の合同演奏会のとき、二次会の後で、一緒に帰ったことがあるよ」
「でも、お食事じゃないから……」
「そうか、そう云えば、弓子さんが高校入学のとき、今日みたいにお祝いをしたよね?」
「ええ、イタリアンのレストランで、スパゲティを食べて、腕時計をプレゼントして貰ったわ」
「そうだった、僕はアルバイトをしていたから、お袋から少し援助して貰って……」
「とても嬉しかった、これ、バンドは換えたけど……」
弓子はブラウスの袖を少し上げて、銀色の円い腕時計を純一に見せる。
「ほんとに!、まだ使っているの?、ちょっと子供っぽいな、似合わないね、よし、僕が就職祝いにプレゼントしてあげよう、日曜日に時間が取れる?」
「いいのかしら、そんなにして貰って?」
「いいじゃない、それをプレゼントしたときは受け取ってくれたんだから、同じ気持ちで?」
「じゃぁ、お言葉に甘えて……」
弓子はこの日一番の笑顔を純一に見せた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み