第16話〈意外な相談〉

文字数 4,679文字

純一が部屋に戻り、脱いだままにしていた衣服を片付けていると、携帯が受信を報せた、見ると沢見結香からのメールだった。
携帯mail:「純一さん、その後どうしておられますか、無理を承知でメールをさせて頂きました。年末でお忙しいとは思いますが相談に乗って頂けないでしょうか。
宜しかったら、連絡をお待ちしています。わたしは何時でも大丈夫ですので。
おやすみなさい。」

クリスマスを前にして、小林美紀、沢見結香、吉田弓子の三人の女性から誘いを受けた純一は、「人生にはこんなこともあるんだ」と独り言を口にしながら、机の上から手帳を取り上げ、ペンを手にすると、翌日の23日の枠にPM:SAWAMIと書き込み、25日にYUMIKOと書き込む。
手帳とペンを置くと、携帯電話を取り上げて沢見結香にメールを打った。

携帯Mail:「お久し振りです、レストランの野沢さんが年末で忙しいのは分かりますが、それで結香さんが暇になっているとしたら、ちょっと心配してしまいますね。
僕に相談とはちょっと考えてしまうけど、依頼の件は了解です。
丁度、頼んでいた本を取りに行くので、明日の二時半に大丸の四条通側の出口前でどうですか。よければ返信は結構です。それじゃ。」

携帯を閉じると、純一はパソコンに向かって弓子宛にメールを打った。
Mail:「久し振り、論文は終わったの?、弓子さんからの誘いとは驚いたな、喜んで時間を空けるよ。明日は予定があるし、24日は出勤、土曜日の午後なら大丈夫。
夜は、僕が食事に招待するよ、そのつもりで来て下さい。それで良かったら、待ち合わせ場所と時間は任せるので、携帯でも、このアドレスでもいいから返信を下さい。遅く帰ったので、こんな時間になったけど、じゃぁ、おやすみ。 純一 」

治美が階下から、風呂場が空いたと二階に声を掛ける。
純一が、パジャマと中綿入りのロングベストを抱えて廊下に出ると、幸一が部屋から顔を出す。
「帰っていたのか?、美紀ちゃんから連絡があっただろ?、イブの夜はどうだ?」
「うん、メールで断っておいた、もう出勤日も少ないし挨拶回りとかで遅くなりそうだから、宜しく伝えておいてよ」
「そうか、じゃぁ仕方が無いな、分かった」
幸一はそう言うと、首を引っ込めてドアを閉めた。

純一は書店に頼んで探して貰っていた、ギタリストのデレク.ベイリーが音楽の各分野の即興演奏家と対談して纏めた著書、〈インプロヴィゼーション〉を受け取る。
書店を出たのは午後二時を少し回った頃だった。
結香が、書店の全面ガラスの自動ドアの横手に立って待っていた。
「やぁ、結香さん、寒いのに、店の中に入っていれば良かったのに」
「こんにちわ、無理を言ってすみません、少し前に来た処ですから」
「そう、じゃぁ何処に行くかな?」
「純一さん、スィーツは?」
「いいですよ、何処か近くにある?」
「わたしの知人の店ですけど、案内します、直ぐですから」
賑わう四条通の歩道から、路地に逸れて20メートルほど歩くと、スモークガラス張りのショーウインドウが目立つ、狭い間口のケーキ専門店が在った。
ショーケースの横の自動ドアが開くと、奥は喫茶コーナーになっていた。
若い男性と女性が迎えてくれる、女性が笑顔で言った。
「結香さん、いらっしゃい、奥の席をリザーブしておいたから、案内するわ」
結香は男性に会釈だけすると、女性に従って行くように純一を促す。
純一は結香を先に立たせて奥の席に進む、店内の席はほとんどが若い女性だ。
結香と同じ、コーヒーとケーキのセットを注文すると、お互いにコートを脱ぐ。
純一は結香のコートを受け取ると、隣の椅子に自分のコートに重ねて置いた。
席に落ち着くと、結香が言った。
「優しいんですね、純一さんとお付き合いをすれば良かったかも知れないわ……」
「コートを預かったくらいで優しいと思うなんて、この程度なら誰だっていいってことになるよ……」
結香は黙っていた。
「野沢さんはレストランの御曹司だから、その辺りは抜かりが無いんじゃないの?」
結香は笑顔では無かった。純一は気遣うように言う。
「レストランは書き入れ時だから、会えなくて、ちょっと不満なのかな?」
女性がコーヒーとケーキを持って来る、結香の気配を感じ取ったのか、「ごゆっくり」とだけ言って、笑顔を残して戻って行った。
純一がブラックだだからと言って、シュガーポットを結香の方に押しやる。結香はシュガーポットから、軽く二匙のシュガーを自分のカップに入れ、ゆっくりとスプーンで混ぜてから、フレッシュミルクを注いだ。
純一は結香の動作を見ながら、考え事をしている様子を感じ取った。
「いいコーヒーだなぁ……」ひと口すすって純一が言った。
結香は、長いと思われるほどゆっくり、スプーンでコーヒーがフレッシュミルクで濁りきるまで混ぜていた。
ふと、我に返り、純一を見てから、そっとスプーンをカップの淵から上げてソーサーに置いた。
「純一さん、田巻の伯父さんから、何か聞いていますか?」
「結香さんのこと?、特には……」
「そうですか……、それじゃぁ相談を聞いて貰えますか?」
「いいですよ、僕が乗れる相談なら……」
「ええ、突然なんですけど、純一さんのバンドに入れて頂けませんか?」
「はぁ?、コーチャンズにヴィオラは、ちょっと合わないと思うけど?」
「わたし、ヴァイオリンとヴィオラで、ずっとクラシックをやって来ましたけど、もっと自由に音楽をやりたいと思っていたんです、この前、純一さんのバンドの演奏を聴いて決心したんです」
「結香さんは僕と話すと決心する癖があるのかな、野沢さんとのこともそうだったけど……」
「わたし、高校時代から両親には内緒でジャズを習っているんです、弦楽器じゃなくて、ヴォーカルは要りませんか?」
「ヴォーカル?……、結香さん、これから結婚すれば、そんな時間は無いんじゃないかなぁ、うちのメンバーも仕事や結婚適齢期で曲がり角に来ている年齢だから、結婚をしたらバンド活動をどうするかって、よく話題になるよ、一昨日の忘年会でも、リーダーが仕事に専念するからと言って、バンドから抜けることが決まった処なんだけど……」
「弦楽カルテットの活動も終わったでしょ、とにかく環境を変えたいんです」
「結婚は、凄い環境変化だと思うけど?」
結香は俯いて黙った。
「何かあったの、結香さん?……、バンドに参加したいと云うのは、相談じゃなくてお願いだと思うけど……」
結香は俯いたままで、自分の膝元に置いた手を見ていたが、ゆっくりと顔を起こすと純一を見た。
「野沢さんとのこと、お断りしたんです……」
純一は、直ぐには何も言わず、言葉を理解するように肯づいた。
「彼は音楽に関心が無いひとでした、わたしには考えられません、それとレストランのことで頭が一杯のひとでした、デートをしていても慌ただしくて……。破談にすると決心して、周りの者に話したら色々と言われました、でも、たくみ堂で育ったわたしには無理です、忙しさや生活のリズムが違うんです……」
「確かに、それはあるかも知れないね、僕が、少し結香さんを煽り過ぎたのかも知れない、申し訳ないな、謝るよ」
「いいえ、純一さんと話した頃は迷っていたけど、嫌じゃなかったんです、背も高くてスマートだし、ダークスーツ姿でいるときは素敵なひとでした、でも、もういいんです、誰か素敵なひとを探します、条件は音楽を一緒に楽しめるひとです」
「そう……。こんな言い方は良くないけど、結婚する前で良かったのかも知れないね、結香さんなら大丈夫だと思うよ……」
「そうですか……、そう言う訳ですから、クラシックから離れてみようと思っているんです、もっと自由に音楽をやりたい、そう思えて来たんです」
「うちのバンドと共演をしたのがきっかけ?」
「そうです、あの、ベースの桜井さんは結婚しておられるんですか?」
「いや、独身だけど……、待って、彼が原因じゃないよね?」
結香の顔が少し綻んだように見えた。
「少しはあるかも知れません、でも、ジャズヴォーカルをやりたいのは本気なんです」
「自信はあるんだ?」
「柴野さんに聴いて貰ったことがあるんです、褒めて頂きました」
「そう、全然イメージできないな、演奏のときの、白のブラウスと黒のロングスカートならイメージできるけど、意外性があり過ぎるよ」
「そう云えば、柴野さんも、純一さんのバンドに参加されるって聞いたんですけど、本当なんですか?」
「うん、リーダーが抜けるからね、キーボードを柴野さんに頼んだら、親戚の女性のひとを紹介されて、ついでに柴野さん本人もテナーサックスで入れて貰えないかと、それから、僕の知人のクラリネットの女性も加わることで、三名の参加は全員の了解が取れているんだけど……」
「是非、わたしも加えて頂けませんか?」
「メンバー次第だけど、みんな結香さんには会っているし、意外と思うだろうけど、多分、了解はすると思うけど……」
「香田さんが抜けられたら、誰がリーダーになられるんですか、正式にお願いに伺ってもいいんですけど」
「凄い覚悟なんだね……
、実は、リーダーは居なくて、僕がマネージャーと言うことになっているんだけど」
「そうなんですか、駄目ですか?」
「いや、僕は好いと思うけど」
「皆さんにお願いして頂けませんか?」
「結香さん、ヴァイオリンでジャズを演奏したことは?」
「人前ではありませんけど、自分ではよく弾きます、ステファン.グラッペリのスターダストは、よく聴くCDなんです、この前呼んで貰ったとき、グリーンスリーブスを演奏したでしょ、ジャジィな演奏になりそうで困ったんですよ」
「そうか……、じゃぁ、演奏も行けるってことだ?」
「他のみなさんと演奏したことはありませんけど、大丈夫だと思います、条件になりますか?」
「いや、僕には、今、新しいバンドのイメージが膨らんで来ているけど……」
「お願いします、家では強気で居ますけど、落ち込んでいるんです、立ち直るには、純一さんのバンドしかないんです」
「そんな、責任重大だな、僕は好いと思うからメンバーに話してみて上げるよ」
「ありがとうございます、此の頃は何もする気にならなくて……、楽器にも触れていないし、歌も出てこないんです」
「見た目にはわからないけど、大変だったんだ……」
「でも、お話しして、楽器に触れられそうな気がします……、歌えそうです……」
「結香さんが立ち直るのに役に立てるのなら、メンバーも何も言わないと思うけど……、結香さんの心境を、少しメンバーに話してもいいかな?」
「いいです、これから仲良くお付き合いをして貰いたいですから、隠しごとはしたくありません……」
「訊いていい?、結納はまだだったの?」
「差し迫っていましたけど、その前に野沢さんに伝えました、彼も納得してくれて、仲人さんを説得してくれたのは彼なんです、レストランは、たくみ堂のような古い商売とは違うでしょ、わたしなんかより、もっとレストランの仕事に理解のある女性の方が、彼にとってもお店の方達にとっても好い筈ですから……」
「まあ、それは……」
結香は、やや前かがみになっていた姿勢を正すと、ぬるくなったコーヒーを多めに口に含んで飲んだ。
純一は、黙って見ていたが、何も言わずにフォークを手にすると、ケーキを切って口に運ぶ、生クリームが絶妙な出来栄えだった。
店を出るとき、純一はショーケースに並べてあった、小ぶりのクリスマスケーキを買って結香に手渡した。結香は遠慮せずに喜んで受け取った。
結香の友人の店の女性が、意味ありげな笑顔で純一を見ていた。
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