第12話〈家族への報告〉

文字数 5,477文字

玉木良雄は、夕餉の時刻が過ぎても作業場で石頭や石鑿を使い、黙々と石材加工に取り組んでいた。
終わったのは九時前だった。自宅に戻り、冷えた身体を温めようと、直ぐに風呂場に直行する。
普段から入浴時間の短い良雄も、この日は普段の倍の時間は浴槽に浸かっていた。
風呂から上がり、静香が準備していた着物の上から綿入れの半纏を羽織ると、食堂の間に姿を見せと、遅く帰った長男の幸一が食事をしていた。
「お父さん、遅かったんだね?」
「お前も遅いやないか、塾も追い込みなんやろ?」
「もう少しの間だよ」
静香が焼酎をビンからカップに注ぎながら言った。
「お疲れでしたなぁ、きりが付いたんですか?」
「ああ、ちいと気に入らんとこがあってなぁ……、純一と治美は?」
「純一は部屋です、治美は夜勤を替わってあげはって、夕方、出て行きましたえ」
「そうか、もうすぐ辞めるから、職場の仲間にお返しをしとるんかな?」
「そうです、せんせと看護師の恋ですやろ、色々と言わはるひともあるさかい、あの子も、気ぃ遣こうてるんと違いますやろか」
静香が焼酎のお湯割を作って良雄の前に置いた。良雄は小さな陶器壷から梅干しをひとつ取り出すと、焼酎のカップに入れて箸で混ぜる。
「作業場も寒うなって来た、ガスヒーターが要るなぁ……」
「早よう出してはったんやから、使こたら宜しいのに、何で使わらへんのですか?」
「石頭やトンカチ使こうてるときは汗が出るやろ、そのときは暑いんや、作業中は要らへんがな、終わって帰る途中が寒いんや、作業が終わって直ぐ帰るときはええけどな、ちょっと書類でも見てると、汗が冷えるんや」
「事務所のエアコンをつけてましたやろ?」
「あれは、芯から温まらへんがな……、心配せんかてええ、こうして風呂に浸かって一杯飲めば済むことや……」
「そうですなあ、むかしのことやけど、デートする度に、お父さん汗臭そうて往生しましたえ」
「仕方無いやろ、石像彫刻は制作に時間がかかるんやから……、僕だけや無かったやろ?」
「柏木さんや田さんは、そないに、汗の臭いはせぇへんかったように思うてましたけど……」
「そりゃ、ヴァイオリンと日本画だからやないか、彼らのは健康に悪い芸術や思わへんか?」
「まぁ、おかしな理屈ですなぁ、聞いたら怒らはりますえ」
食事の済んだ幸一が席を立ち、自分でコーヒーの準備を始める。
「お母さんも飲む?」
「そやなぁ、貰おうか、純一も呼んでやったらどうえ?」
「いや、ちょっと、お父さんとお母さんに話しがあるから、純一には後で話すし」
「そうか」
そう言いながら、良雄と静香は顔を見合わせた。

コーヒーをカップに注ぎ終わると、真剣な表情で幸一が口を開いた。
「センター試験が終わったら塾を辞めることにしたから、それを伝えておこうと思って……、相談しなくて悪かったけど、よく考えたことなんだ」
静香は、てっきり律子との事だと思っていた。
「センター試験は年明けやろ?、それから先は、どないすんの?」
「実はね、山沖敏夫司法書士事務所から声を掛けて貰って、この前、話しに行って来たんだ、先輩のひと達の推薦もあったらしくて、是非にと頼まれた」
良雄が言った。
「山沖敏夫さんと云えば、あの立派な屋敷がある?」
「そう、本人は身体を壊しておられて、身内に後継者はおられない。面倒を見てこられた会社や関係先がかなりの数あるんだ、先先代から築き上げた折角の関係を絶ちたくないし迷惑を掛けたくないから、先生自身が元気な間に引き継いで欲しいと頼まれたんだ……」
「そらまたどえらいお仕事やないの、あんたに、でけますのんか?」
「お母さん、大丈夫だよ、僕も必死でやるから、将来のこともあるしね、もう、勉強も始めているんだ、だからバンドも引退することにした、憲ちゃんにも相談したんだ、いい話しだと言ってくれているんだ」
良雄が言った。
「そうやな、折角司法書士の資格があるんや、弁護士の夢を変更して塾の講師でもないやろ、ええんと違うか、わしは賛成や、周りの皆さんの期待を裏切らんように、しっかりやりぃや」
「ありがとう、そう言ってくれると思っていたんだ、お母さんも賛成してくれるんだろ?」
「もう、決めて来はったんやろ、今更、反対でもあれへんやないの、応援しますさかい、せいだいおきばり……」
「幸一、あの屋敷の庭はな、辰治郎さんが手掛けてはんのや、知ってるか?」
「そうなの、知らなかった、少しは縁があるんだ……、話しには出なかったな」
「当たり前やろ、何も知らんひとに、玉木幸一が杉山辰治郎の孫やなんて分かる筈ないやろ?」
「それもそうだね、玉木辰治郎なら無いこともないけど、お母さんの里だもんね」
「そうか、幸一も、おんなじせんせでも、これからはちいと格が違うんやな……」
「自分本来の道に戻ったと云う感じだよ、実は、ほっとしているんだ」
「そうやろな、憲司くんは目標どおりの弁護士になったんやから、負けた思うてたんやろ?」
「それは無いよ、自分で方向を変えたんだから」
「ほんならええけどて……、他には何もないのんか?」
そのとき廊下から声がした。
「お父さんお帰り、何時、帰ったの、兄さんも遅いね?」
「純一、コーヒーポットにひとり分くらいあるぞ」
「うん、貰うよ、兄さんが淹れたの?」
「駄目か?」
「兄さんのコーヒーは、何時も蒸らしが少ないんだよ、コーヒー豆の実力が出てないんだなぁ……、けど、貰うよ」
「純一、何を屁理屈言うてんの、飲んでみなさい、美味しいよって」
「貰うけど、お母さん、ほんとに僕が淹れるのと同じだと思う?」
「おんなじや、なんやの、子供みたいに張り合うて」
「いや、そんなんじゃないけど……、頂戴しますよー」
「純一、お兄ちゃん、塾を辞めるんやて」
「そう、決めたんだ、良かったね」
「なんやの、あんた、知ってたん?」
「香ちゃんから電話があったんだ」
幸一が言った。
「純一、お前、最初から知っていたのか?」
「うん、香ちゃんの不動産会社だけど、昔から山沖先生の事務所にお世話になっているらしくて、兄さんがスカウトされている話しを聞いていたんだよ」
「そうか、黙っていたんだな?」
「まぁね、兄さんにとっては大事だからね……、そうか、それをお父さんたちに話していたんだ、それじゃぁ彼女のことも?」
「おい、それはまだだ……」
幸一は咄嗟に良雄と静香の顔を交互に見る。
静香は知らない振りをした、良雄はきょとんとした表情で幸一と純一を見る。
「兄さん、ごめん、僕がとちったみたいだね?」
「いや、いいよ、どうせ話すつもりだったんだ、ちょっと早くなっただけだ」

幸一の口から、親友の憲司の妹が恋人だと聞かされ、良雄はほっとした。
「お母さん、あんたは知ってたんか?」
「いいえ、はっきりとは知らしまへん」
「純一は?」
「僕は最初から知っていたけど、兄さんの問題だから……」
良雄が純一に訊いた。
「どうして気付いたんだ?」
「最初は、美紀ちゃんから駅のカフェで会いたいと言って来たんだ、其処で、お姉ちゃんが辛そうだからって、でも、あまり進展しないから、だから、今回、クリスマスの応援を両方に頼んだんだよ……」
幸一が言う。
「そう云う事か、心配を掛けたって訳だな?」
「そうでもないよ、クリスマスの演奏については丁度良かったんだ、うちのバンドでディナータイムは無理があるし、ダンスミュージックじゃ金管が少ないからね」
良雄が幸一を見る。
「幸一、どないな事になってるんや、話してくれるんやろ?」
「うん、山沖先生の処で二年か三年の間、必死でやる、律子さんにはそれまで待って貰う事にした、律子さんは何年でも待つと言ってくれたよ」
静香が訊く。
「そうやったの、憲司くんは知ってはんの?」
「まだ知らないと思う、転職の相談しかしていないから……、でも、律子さんが家族に話すと言っていたから……、律子さんと付き合うことは、近いうちに小父さんと小母さんに話しに行くつもりなんだ」
「兄さん、ふたりの間では約束をしたんだろ?、待って貰って、その後に結婚するんだったら、きちっと申し込んだ方が良くないかな?」
「そうやなぁ、純一の言うように、お付き合いをしますやのうて、結婚を前提に待って下さい、そう言うた方が安心しはんのと違うやろか?」
「お母さん、簡単に言うね?、他人事じゃないんだよ、僕の結婚だよ……」
「そやかて、そうなんやろ?、律子さんも望んではんのやったら、ええやないの?」
「純一、お母さん、おかしいよな?」
「いや、兄さん、うちの両親はそんな夫婦だよ、ふたりとも慣習より感性で生きているひと達だから……」
「付いて行けないよ、僕も憲ちゃんも感情や感性より、前例や判例を基準に生きて行くタイプなんだ……」
「上手いこと言うなあ兄さん……、でも、中っているよ、兄さんのペースで行けば?」
「お前も簡単に言うなぁ……、言い難いぞ、十年以上出入りしていて半分家族みたいにして貰っているんだからな、突然、改まって、律子さんと結婚の約束をしたいのですが、なんて、簡単に言えるか?」
「確かに言い難いかも知れないね、でも、言うんだよ兄さん、言わないと、又、律子さんが家で過ごし辛いだろ、兄さんが憲司さんを訪ねて行ったとき、律子さんはどんな態度を取ればいいんだい?、それに、美紀ちゃんだってそうだよ……」
良雄が言った。
「なんやら忙しい年末になりそうやなぁ、治美のこともやけど、お母さん、紋付袴を出して見とかなあかんな?」
「そんな阿保なこと、まだまだ先のことですやろ」
「ほいでもな、結婚の約束をする言うことは婚約やろ?、それなりの事はしなあかんやろ?」
純一が言った。
「お父さんは今までどおりでいいんだよ、本当に必要なときに出て行けばね、職人で芸術家なんだ、人様と同じでなくても、誰も何も言わないよ、とっくに変わり者で通っているんだから……」
「純一、それは褒め言葉か?」
「そうだよ、自由で独創的なのがお父さんの作品だろ、僕も兄さんも治美も同じだよ、自由にさせて貰っているし、真面目だけど変わり者だよ」
静香が言った。
「お母さんは、変わりもんやないやろ?」
「一緒だよ、お父さんを好きになったんだから……」
「純一、冗談ばっかり言うたらあかんえ?」
「本気だから、でも、体調を崩したひとが関係して治美も兄さんも幸せをつかむって、背景は同じだね?、兄妹なんだな……」
「純一、そないな言い方は無いんと違う、ほんまにお母さん怒りますえ」
「どうして?、二人とも、そのひと達のために役立っているんだから、いい話しだと思っているんだよ」
「あんたはそんなんやから、いい人がでけへんのや、心配なことやわ……」
「心配は要らないって、三人兄妹の真ん中で、適当に上手く生きて行く知恵が備わっているから、お母さん達も何時もそう言っているじゃないか、なのに見合いの真似事なんかさせるんだから、兄さんもそうだよ……」
「純一、それ以上言うなよ、立場が無いよ」
「分かっているよ、兄さんの優しい性格がさせた事だと思っているよ」
「あのときは、意気地が無かったと思って悔やんでいるんだから」
「結果オーライだよ……、そうか、二年かあ……、それまでには僕も決めないとな、律子さんが小姑と一緒ってことになるから、まあ、兄さん、その事は心配しないでいいから」
「お前、誰か好いひとがいるのか?」
「いない訳がないだろ、こんなに明るくて優しい男だよ」
静香が言った。
「純一、あんたも、好きなひとがいてんの?」
「大丈夫だよ、お母さんもお父さんも気に入る女性を、そのうちに紹介するから……」
少し酔った眼差しで良雄が言った。
「純一、無理をせんでも、のんびり探せばええ、そのうち物好きな娘さんが出てくるやろ」
「よく言うなぁ……、お父さん、今の台詞を憶えておいてくれよ、物好きだなんて、失礼だよなぁ、これでも社内外の女性に人気があるんだから」
「勝手に思うてたらええけど、自分からは言わん方がええぞ、みんな上手を言うてはるだけかも知れへんのやから……」
「どうして信用ないかなぁ、田巻の小父さんも進藤の女将さんも、純一はんは、よお気ぃがつかはって、ええ男はんにならはったって、言ってくれたのに……」
静香が言った。
「そないに僻むことあれへんけど、お年寄りに人気があんのと、若い娘さんとは違うやろ、若いのに気ぃが回り過ぎるのも、どうかと思うえ」
「何なんだよ、僕だけが攻められている感じだな、おかしいよ」
「あんただけが暢気なことを言うてるからやろ、治美も幸一も一生懸命やってるやないの?」
「そんな、僕だってきちっとやっているよ、いいよ、近いうちに紹介するから……」
幸一が言った。
「純一、無理しないでもいいよ、ゆっくりやれ?」
「もう……、無理なんかしてないって、まあ、今夜はここまでにしておくよ、それより兄さんの方は、まだ越えないといけないハードルがあるんだろ?」
「ああ、でも、今はどうと云うことは無いよ、律子さんの気持ちが分かっているんだ」
「そうだよね、美紀ちゃんが心配しているから、宜しく頼むよ?」
「ああ、美紀ちゃんに何て言ったらいいか……、それも困ったな」
「ありがとうでいいだろ、彼女が引き金を引いてくれたんから」
「そうだな、お祖父ちゃんには、言いそびれて済みませんでしたと謝るよ、お前のことがあったから叱られそうだけど……」
「お祖父さんは喜ばれると思うよ、だって、兄さんを気に入っていたから、律子さんを弟の僕にどうかって、そう云う話しだったんだろ?」
「だから、それを言うなよ」
良雄と静香は、何の事かと云う様に、互いに顔を見合わせて首を傾げていた。
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