第8話〈告げるべきこと〉

文字数 4,473文字

純一は、兄と妹に恋人がいることを母の静香に伝えだが、兄の相手が律子だとは言わなかった。

弦楽カルテットは、勤労感謝の日の演奏会に向けて練習に集中していた。
柏木音楽堂のスタジオで練習を終えたカルテットのメンバーは、河原町通に面したホテルのロビーで打ち合わせをするため、チェロの山口慎也のボックスカーに乗り込んだ。
チェロを積み込むと、第二ヴァイオリンの三沢杏子が助手席に座り、後部座席に律子と結香が乗り込む。
十分ほどでホテル近くの駐車場に着き、慎也以外は、ヴァイオリンとヴィオラのケースを抱えてホテルに入った。
飲み物を頼むと、杏子が話し始めた。
「あの、律子さんと結香さんに、伝えておかないといけないことがあるの、いいかしら?」
律子が言った。
「何、改まって?」
「うん、話しておいた方がいいかな、と思って」
そのとき結香が言った。
「あの、わたしも、みんなに話しておくこがあるから、杏子さんからどうぞ?」
律子がふたりを見ながら言った。
「どうしたの、ふたりとも、なぁに?」
杏子が慎也の顔をちらっと見たのを、律子は見逃さなかった。
「杏子さん、もしかして?」
「やっぱり僕が話すよ、何時までも黙っているのは悪いから……、実は、年が明けたら杏子さんと婚約をすることになったので、みんなに知っておいて貰おうと思って…」
律子は本当に知らなかった。
「ほんとに?、全然分からなかったわ、でも、おめでとう、そうだったの……」
杏子が言った。
「ごめんなさい、はっきりするまではと思っていたら、此処まで来てしまったの、もっと早く話すつもりだったのよ」
「いいわよ、今年最高のサプライズね?」
結香が言った。
「山口さんも杏子さんもおめでとう……、あのね、実はわたしも、婚約じゃないけど結婚を前提に付き合っているひとがいるの、レストランの跡継ぎのひと、また紹介するけど、一応みんなには伝えておくわね……」
律子が言った。
「ほんとなの、凄―い、カルテットの三人が一度に?、参っちゃうなぁ……」
杏子が律子に言った。
「ごめんね、一緒にやっているメンバーに恋をしてしまって」
「そんなのいいわよ、でも、わたしだけ取り残されたみたいで、寂しいな……」
結香が言った。
「律子さんにも好きなひとがいるんでしょ?、黙って見ていてあげる」
「えっ、結香さん、なんのこと?」
「いいのよ、柏木音楽堂に来られる玉木さんを知っているでしょ?」
「ええ、兄の親友の弟さんだけど、この前一度会っただけで、特別に親しい訳じゃないわ」
杏子が言った。
「そのひとなの?」
結香が言った。
「違うのよ、ねぇ律子さん?」
「この前は訊かなかったけど、結香さんは玉木さんとどういう関係なの?」
「母の知り合いの勧めでお見合いみたいなことをしたの、でも、お互いにその気はなくて、その日、夕食をご馳走になったから、先日お返しに招待したのよ、そのときに、今回の演奏の依頼と一緒に律子さんのことを少し聞いちゃったの、でも、わたしは何も言わないわ、温かい目で見ていて上げる」
杏子が興味深そうに訊いた。
「律子さん、その話しはほんとなの?」
「ほんとって訊かれても、片思いかもしれないし、よく分からないわ……」
「ねぇ、どんなひと?」
結香が言った。
「杏子さん、間もなく会えるかもしれないわよ」
「身近なひとなの?」
「律子さんにとってはね……。クリスマスの演奏依頼の話だけど、わたし達の演奏会が終わったら一緒に練習をするって話したでしょ、その練習で会えるかもしれないわよ」
律子は不思議そうに結香を見た。
「どういうこと?」
「コーチャンズが柴野専務さんにテナーサックスをお願いして、他にもトランペットが足りないから応援をお願いしているんだって……」
律子は真剣に訊ねた。
「それ、ほんとに、玉木さんが言われたの?」
「純一さんは律子さんのことを分かっているのよ。訊いていい?」
「なぁに?」
「律子さんも、純一さんとお見合いみたいなことをしたんでしょ?」
律子は少し躊躇った。
「まあ、兄に連れていかれて……、黙っていてごめんね……、最初は兄たちと食事に行くだけだと思っていたから……」
慎也が言った。
「それって、相手のひとは柏木音楽堂に来ている玉木さんのお兄さん?、律子さんは親友の妹ってこと?」
杏子が言った。
「そうなのね?」
「だからね、片想いかもしれないでしょ?」
結香が言った。
「大丈夫よ、純一さんはいいひとだから、律子さんが望んでいるように、お兄さんとのことを進めてくれると思うわよ……」
「知らなかったわ、もう、お兄さんに話されたのかしら?」
「それはないと思うわよ、律子さんもお兄さんも子供じゃないし、勿論、純一さんも大人でしょ……、わたしね、純一さんと仲良しになったから、今、話した彼のこともアドバイスして貰って、それで決心したのよ」
慎也が言った。
「そういうひとか、今度は一緒に演奏できるから、友達になれるな」
結香が言った。
「純一さんはほんとに好いひとなのよ、律子さんの相手は純一さんのお兄さんでしょ、だからきっと好いひとよ、ねぇ?」
「まだ、何も始まってないのよ、何も言えないわ……」
「純一さんは、律子さんやお兄さん達と一緒に飲み会に行ったとき、律子さんの気持が分かったのよ、純一さんのお兄さんも本当は分かっていた筈だってこともね……。お兄さん、律子さんを自分の弟の純一さんに紹介するのは辛かったんじゃないのかしら…」
慎也が言った。
「幾ら親友でも、君の妹が好きだとは素直に言えないかも知れないな、高校生くらいの頃ならともかく、結婚適齢期となれば、なお更だよ……」
律子が言った。
「どうしたの、みんな?、わたしの話で暗くなったじゃない、三人のメンバーの良いお話しだったのに……」
結香が言った。
「三人じゃないわよ、律子さんも大丈夫だから、カルテットのみんなの良い話しってことよ……」
「そうなるといいけど、でも、ありがとう」

家の近くで、慎也と杏子におやすみを言って別れた律子は、路地を歩きながら、純一が、幸一に対する自分の気持を察してくれていたことが無性に嬉しかった。
自分からは幸一に言い出せない想いを、純一に託そうと心に決めた。

純一と幸一の部屋は、家の敷地の奥にあった土蔵を壊した跡に建てた二階建ての離れになる。
内部は洋風だが、外壁は白壁に近い窯業系サイディングで、景観に合わせて切妻屋根は日本瓦で葺いてある。
純一より遅く帰宅した幸一が階段を上がってくる音がした。
純一は自室のドアを開けて声を掛けた。
「お帰り、兄さん、後でちょっといいかな?」
「ああ、ただいま、直ぐでもいいぞ」
「じゃぁ、そっちへ行くよ」
幸一は手にしたハーフコートを洋服ダンスに入れ、ジャケットを脱ぎながら言った。
「どうした?」
「こないだの件だけど、来られそうかな?」
「ああ、いいぞ、曲は決まったのか?」
「うん、香ちゃんが選んでいるよ、ダンスは特に考えなくていいらしいよ、ワルツ系と、後はフォービートのテンポのいい奴と、少しスローな奴、それとエイトビートの曲が少し、要はダンスと言っても、リズムに乗って身体が動くような曲でいいってことらしいから」
「そうだろうな、こっちも、パーカッションの本田くんが楽器持ちで応援に行ってもいいって電話をして来たぞ」
「そう、助かるよ、ドラムとベースだろ、バリサックスもいるけどリズム弱いからね、本田さんが来てくれると大いに助かるよ、それに兄さんと柴野さんが入ってくれれば完璧に近いな」
幸一はセーターに着替えると椅子に腰掛けた。
「応援にも交通費が出るってほんとか?」
「あの会社は儲かっているらしいよ、全員でも十万円くらいだろ、食事を入れても安い厚生費だよ」
「純一、お前のバンドメンバーは十二人だろ、僕と本田くんと柴野さんだったら十五人じゃないのか?」
「第一部のディナータイムに弦楽カルテットが入るんだ、勿論、二部にも合流して貰うことになっているけど」
「そういうことか?、その話しなのか?」
「違うよ、憲司さんの処の美紀ちゃんから相談があって、この前、彼女の学校帰りに合わせて京都駅の大階段の横のカフェで会ったんだ」
「美紀ちゃんが?、進学相談か?」
「何を呆けているんだよ、兄さんも憲司さんも駄目なんだから……、律子さんのことだよ、憲司さんから何も聞いてない?」
「暫く会ってないよ……、律子さんのこと?」
「そうだよ、無神経なことを企てるから律子さんが困っているんだよ、美紀ちゃんは憲司さんに文句を言ったらしいよ……」
「何で美紀ちゃんが?」
「聞いたまま言うよ、お姉ちゃんが困って落ち込んでいるって、憲司さんに話したらしいよ、何とかして欲しいけど、お兄ちゃんは鈍くさいから、僕に何とかして欲しいって、そう言って来たんだよ」
「そうか……」
「そうかじゃないよ、親友の妹だろうが何だろうが、好きなら好きって宣言すればいいんだよ、分かっているんだろ、律子さんの気持ち?」
「分かってるよ……」
「じゃぁ何で僕と律子さんをわざわざ会わせたんだよ、可哀想じゃないか、僕はあのとき会って直ぐに気付いたよ、律子さんは兄さんのことが好きなんだって……、憲司さんは親友だろ、どうして遠慮するかなぁ……」
「タイミングだよ、普段の話しの途中で言えることじゃないだろ、チャンスが無かったんだ」
「お母さんには少し話したけど、ここから先、僕は何もしないよ、でも、言っておかないと、律子さんの弦楽カルテットにも応援を頼んでいるんだ、何度か一緒に練習することになるから、それだけ伝えておこうと思って……」
「そうなのか……、お母さんは何か言っていたか?」
「今までと一緒だよ、僕らに任せているんだ、ついでに伝えておくよ、治美の彼氏は夏目医院の跡継ぎだよ、今は治美と同じ内科の先生、多分、近いうちにお父さん達に話すと思うよ」
「お前は、何で知っているんだ?」
「見たんだ、ふたりが夏目医院の自宅の方の玄関に、揃って入って行くのを……、好い感じの夫婦みたいだったよ、彼氏は治美を庇うようにしていたから……、これは治美には話してないから……」
「そうか、一応、ありがとうって言っておくよ、ずっと考えてはいたんだ」
「兄さんは考えるのが長いんだよ」
「本当はな、言おうと思っていたときに、憲ちゃんのお祖父さんから、律子さんにお前はどうかって言われたんだ、急に言われたから、何て断っていいか困ってしまって……」
「どうして、僕に言ってくれなかったんだよ」
「しいていえば、格好悪いからだ」
「格好を気にしていたら彼女が離れて行ってしまうよ、カルテットの仲間のヴィオラのひとも恋人がいるし、刺激されて焦ったらどうなる?」
「脅かすな、分かったよ、何とかするよ、憲ちゃんのお祖父さんにも話す」
「違うよ、最初は律子さんだろ、後はどうでもいいだろ……」
「そうか……」
「そうだよ、じゃぁ大変だと思うけど、応援の件も宜しく、それだけだよ」
「ああ、面目ないな、ありがとう……」
幸一は、部屋を出ていく純一の後姿が消えると、何故か浮かんでくる笑みを心地よく思いながら、椅子に背を凭せ掛けて伸びをした。
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