第10話〈愛するひとのため〉

文字数 4,514文字

土曜日の午後、幸一も純一も家を留守にしていた。
夏目昭信が玉木家を訪れたとき、良雄と静香が応対をした。
中肉中背の髭の濃いがっしりとした体躯の夏目昭信は、笑うと両の頬に笑窪が出る。
初対面の良雄と静香は、治美から話しに聞いていただけで、自分たちの予想を裏切った昭信の容貌よりも、人懐こい性格と優しい眼差しに魅入られたのだった。

コーチャンズ.12(トゥエルブ)の練習場に、弦楽カルテットの山口慎也の姿があった。
自分たちの弦楽カルテット演奏会が迫っていた慎也は、依頼された演奏会終了後から練習を始めるクリスマス.パーティーの曲目打ち合わせに来ていた。
バンドリーダーでアレンジも手掛ける香田優作と山口慎也は、互いに持ち寄った曲目について話し合う。
弦楽カルテットに、ディナータイムとダンスパーティーの両方の演奏は負担が多いということになり、弦楽カルテットにはディナータイムだけを受け持って貰う事にした。
慎也は〈グリーンスリーブス〉や〈家路〉〈旅愁〉など、ポップな感じの曲をクラシック音楽に混ぜて選定して来ていた。
「山口さん、流石に営業マンだけあって、客のことをよく考えてくれていますね?」
「いえ、カルテットの演奏会の後ですから、僕たちも楽しませて貰おうと思っているだけですよ、でも、香田さんのバンドは集まりがいいですね?」
「まぁね、間もなく集まらなくなりますよ」
「どうしてですか?」
「メンバーはほとんどが三十前後の独身者ばかりだから、ばたばたっと結婚ラッシュが来るような気がしているんだけど、山口さんのカルテットはどうなの?」
「状況は同じです、女性は二十五、六ですし、みんなそれぞれに恋人が出来たみたいですしね」
「山口さんは?」
「ちょっと言いにくいんですけど、第二ヴァイオリンの女性と……」
「へぇ、三人の中から選べるなんて幸せだな……」
「違いますよ、他のふたりにはそれぞれにいますから、そう言えば、うちの第一ヴァイオリンの相手は、ここのメンバーの玉木さんのお兄さんだそうですよ」
「幸一さんが?、その、第一ヴァイオリンの女性と付き合っているの?」
「まだ、お互いに意思表示はしていないみたいですけどね、間違いないですよ」
「そう、幸一さんには、今回トランペットで応援に来てもらうんですよ、一緒に練習できなくて残念だな、何かのきっかけになったかも知れないのに……」
「まぁ、周りが何もしなくても、そのうちに目出度い話しになると見ていますけど」
「カルテットはどうなるの?」
「まぁ、解散でしょうね、もともと僕は柏木大先輩の紹介で加わりましたから」
「山口さんも芸大ですか?」
「まぁ……、出版社勤務は変でしょ?」
「どうして今の仕事に?」
「芸術家の人生と云うか、芸術活動の実態や裏側に目を向けた出版物を手掛けたいと思ったんです、芸術に生きることと、社会人としての生活、つまり、芸術に没頭すると食べて行くことに直結しない場合が多いでしょ、芸術家が自分の創作活動を、社会生活を営む上で、どう位置づけているのか、それを知りたいのと、一般のひと達に芸術家の生き様を紹介したいのもあって、そんなことで……」
「そう、ゆっくりと話してみたいな、でも今日は止めとこう……。どうも時間を取って貰ってありがとう、こっちも貴重な時間なんで、これからダンス的ミュージックの練習ですよ」
「ダンス的ですか?」
「そうなんです、自分たちのバンドでダンスなんか考えたことが無かったから」
「昭和時代のビッグバンドなら、ジャズもダンスミュージックも得意だったんですよね?」
「ぼく等は違いますから、いい勉強になるし、マスターすれば演奏機会が増えるかもしれないと思っているんですよ、芸術活動じゃなくて趣味ですから、気楽に……」
「その辺は、僕も香田さんの話しを聴きたいですよ、それじゃ、これで進めさせて貰います、宜しくお願いします」
「いや、こちらこそ、助かります、宜しく」

依頼されたパーティーの参加者には、年配者が多いと聞いていた。
コーチャンズ.12バンドは、馴染みの歌謡曲の中からアップテンポとスローテンポに編曲がし易い六曲を選び、次に、最初からワルツの名の付く三曲を選んだ。
時間調整は、手持ちのジャズ.レパートリーの中で対応することにした。
この日はレパートリーの中の曲を、ひと通り練習して解散となった。
リーダーの優作が純一に声を掛けた。
「純ちゃん、歩きで来ているんだろ?」
「何かあるの?」
「楽譜を頼みに行くんだけど、その後、付き合ってくれるか?」
優作は右手で猪口を口にする振りをした。
「いいね、行こう、そうだ、僕が案内するよ」
「いいね、何処か馴染みの店でもあるの?」
「蛸薬師通にあるんだ、進藤と関係がある店……」
「進藤って高級料亭だろ?」
「進藤の次男がやっているんだよ、家の兄貴と高校時代の同級生なんだ、サラリーマン向けの気楽な店だから」
「それにしても進藤とはなあ、心安い関係なのか?」
「女将さんが親父と同じ芸大出身で、お袋も幼馴染なんだよ」
「そうか、いいね、其処にしよう、楽譜は掘り込むだけだから」

互いに酌を交わしながら優作が言った。
「今日さ、山口さんが来ていただろ、彼、面白いね?」
「そうだね、僕も柏木さんの店で会ったことがあるけど、ちょっとクラシック畑の人間らしくなくて、根っからの営業マンみたいな処もあるし、僕は、同じ匂いを感じるなぁ」
「営業マンとしてか?」
「まぁ、でも出版社の営業だから、僕とはちょっと違うな、インテリだよ」
「そう言えば、山口くんのカルテットの第一ヴァイオリン、小林さんと言ったな、幸一さんの恋人らしいって話していたけど、そうなのか?」
「ああ、小林律子さんと言うんだ、まだ、お互いに確認はしていないみたいだけど、律子さんは兄貴の親友の妹さんなんだよ、兄貴は鈍いから、この前、僕は律子さんとミニ合コンみたいな場所に呼び出されたんだ」
「へぇ、幸一さんらしいけど、ペット吹きらしくないなぁ?」
「そうなんだよ、変わっているよ、法律を勉強していながら弁護士を諦めて、司法書士の資格を取って、それで塾の講師でペット吹き、そんなアンバランスな奴いないよなぁ」
「おい、純ちゃん、酔ったのか?」
「酔ってないけど、見ていていイライラするんだよ、それに彼女が可哀想だろ……」
「この前な、事務所が面倒を見て貰っている司法書士の息子さんから聞いたんだけど、幸一さんから何か聞いていないか?」
「別に何も、あまり家では話さないし……」
「山沖さんと言う司法書士の先生だけどな、体調が悪いらしいんだ、息子は府庁に勤めているし、跡取りがいない状態らしい、息子としては、代々からの客も付いているし、今なら親父さんと引き継ぎが出来るから跡を継いでくれる司法書士を探しているって、そう話して帰ったんだ、その話しの中でな、同級生に玉木と言う優秀なのがいて、今は法学部の進学塾で講師をしているから、その彼を引き抜こうかと思っているって、俺は横で聞いていたんだけどな……」
「いや、そんな話しは……、お袋達は聞いているのかな?」
「その話しがほんとなら、塾の講師よりは将来的にも良いと思うけどな、山沖さんの処は、今の先生が二代目なんだ、確かに古くから付き合っている商店や企業も多いしな、先生が生きている間に顔を作ればいいんだから……」
「だよなぁ、兄貴は黙っているけど、考えているのかも知れないな、もしかすると、それで律子さんに告白するのを伸ばしているのかも……」
「幸一さん、あれで真面目だからな、自分に自信が持てないと行動しないタイプだろ、彼女のためを考えて迷っているのかも知れないぞ?」
「そうかも知れないな、僕も悪い話しじゃないと思う」
「純ちゃんが後を押して上げたらどうだ、山沖先生も良いひとだから、幸一さんが来てくれれば親切に教えてくれるよ、息子さんが言うように、幸一さんが優秀なら先生もほっとするんじゃないかな、古くからの事務所員もいるから、引き継いでくれれば事務所は潰さないで済む、ひと助けにもなるよ」
「香ちゃんは、それを僕に伝えたくて誘ったのか」
「それだけじゃないんだ、俺の処も、お祖父さんの体調が良くなくてなぁ、他人事じゃないんだ」
「どう云う事?」
「伯父さんが亡くなってから、甥の俺が今の不動産会社を手伝うようになっただろ、お祖父さんが引退すれば俺が継ぐことになる、のんびりとバンドをやっている訳には行かなくなって来るってことだよ」
「そうか、周りから見れば、バンドは道楽みたいに見えているだろうからな……」
「そうじゃないよ、山口くんが言っていたけど、芸術活動と社会生活の捉え方の問題だ、単に忙しくなっているってことだよ、メンバーも多かれ少なかれ、結成時から考えれば忙しくなっている筈だし、特に口にしていないけど、結婚だって間近な奴もいる筈だぞ、要は続けようと思えば十二人に拘らずに続ければいいんだよ、俺も諦める訳じゃない、ストレスが溜まればキーボードの前に座ることもあるだろうし、みんなとセッションだってやりたいよ」
「そうだな、何時までも同じ状態が続くことは無いし、続くことが必ずしも好い事ではないかも知れないな、楽譜にも転調や移調で趣を変えることだってあるし、僕らも、ベースは変えないでインプロヴィゼーションを楽しんでいるんだから、人生も同じかもな……」
「面白いことを言うなぁ、確かに何でもが、ずっと変わらずに進むことは無いよな、俺の会社もそうだ、景気の動向や開発計画で、同じ土地の価格がとんでもない変化をする、変化に対応するのに躊躇してはいけない、インプロヴィゼーションも同じだ、躊躇するとコードを外したりフレーズを間違ったりするし、他の奏者に影響を及ぼす、全体を考えながら速やかに対処することが大切だと思うよ」
「クリスマスの演奏が、ひと区切りになりそうなのか?」
「ああ、純ちゃん以外にはまだ話していないけど、景気も良くないし、ちょっと手が取れなくなりそうなんだ」
「分かったよ、形は変えても、何時でもメンバーが出入り出来るように考えるよ、楽器を扱う僕の会社でも考えないといけない問題なんだ、リタイアしたひと達が、もう一度楽器を持つという傾向があるけど、出来れば現役時代からずっと楽器を演奏出来るのが理想だよ、ひとりで演奏するのとバンドでやるのとでは違うから……」
「でも、それじゃぁ楽器は売れなくなるんじゃないか?」
「上手くなれば、良い楽器が欲しくなる、そう思っているから大丈夫だよ」

純一は優作と別れ、独りで歩きながら、幸一や優作が色々な面で考えている事を知り、幸一を鈍くさいと母に言ったことを反省して、自嘲気味に独り言を口にした。
「やっぱり、兄貴は僕より年上だ……」
優作の言ったことが気になった。暫くゆっくりと歩いていたが、突然、手にしたクラリネットのケースを目の前に上げると呟いた。
「よーし、アルトサックスが届いたら、絶対にモノにするぞ……」
純一は優作の気持ちを汲んで、コーチャンズ.12バンドを、十二人でなくてもいいから引き継ごうと心に決め、クラリネットと兼ねていたアルトサックスをメインにしようと決心した。
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