第11話〈嬉しい離脱〉

文字数 4,935文字

小林律子達の弦楽カルテット演奏会があった日、玉木家の夕餉の時には、良雄と静香と純一の三人だけだった。
治美は、昭信と一緒に夏目家に行き、幸一からは連絡が無く、ふたりとも帰宅は何時になるか分からないと静香は言った。
「お母さん、兄さんは律子さんと一緒じゃないかな?」
「何で、あんたが知ってんの?」
「今夜は律子さんの弦楽カルテットの最後の演奏会なんだよ」
「そうやったの、ほな、憲司さんも一緒なんか?」
「いや、憲司さんは行かないらしいよ、小母さんと美紀ちゃんだけが行っていると思うけど……」
「あんたは、何でも、よお知ってるんやなぁ?」
「妹の美紀ちゃんからメールが来ていたから……」
「あんた、憲司さんの妹さんと付き合いがあんの?」
「中学の吹奏楽部の後輩だからね、憲司さんとは関係なしに知っているんだよ、一年後輩の大谷くんが教師になって吹奏楽部の担当をしているから、たまに顔を出しているんだ」
「大谷さんて、背ぇの高い、家で、よぉご飯食べて帰ってた、お寺さんとこの息子さんかいな?」
「そうだよ、本当は数学の教師なんだ、吹奏学部は、山岡先生が健在だから副顧問らしいけど……」
「中学にまで顔を出してんの?、あんたもまめなおひとやなぁ……」
「音楽好きもあるけど、多少は仕事とも関係があるから……、それより、兄さんから何か聞いた?」
話しを聞きながら湯割の焼酎を飲んでいた良雄が言った。
「何か大事なことか?」
「いや、それならいいよ、お父さんには兄さんが自分から話すと思うから」
「どないしたんや、大の男がもったいぶって、言うたらええがな?」
「いや、話はふたつあると思うんだけど簡単な問題じゃないからなぁ……、兄さんがどう考えているのか分からないし、僕がいい加減なことは言わない方がいいと思うよ」
「そこまで言うたら、気になるやないか……」
「じゃぁ、少しだけ、兄さんの結婚に関係していることだよ」
静香が言った。
「純一、あんたが、待ち、言うさかい、あれから幸一には訊いてへんのやけど、律子さんとのことが上手く行ってへんのんか?」
良雄が怪訝な表情で言った。
「何のことや?、治美の結婚やのうて、幸一の結婚ばなしかいな?」
「だから、僕が話すとややこしくなるだろ、お母さんにも、兄さんが言い出すまで黙っているようにって、そう話してあったんだよ、僕も兄さんと直接話した訳じゃないから」
「そう云う事か、そろそろ、そないな話しがあってもええ頃やからなぁ、お前の方はあかんことになってしもたしな?」
「僕の話は最初から無理があったんだよ、僕や結香さんに何も相談しないで、突然、田巻の小父さんの所へ行かせるんだから……、お父さん、これからも僕のことは心配しないでいいから……」
「心配はしてぇへんがな、田さんが、たくみ堂の女将はんから頼まれてたんや、飲んだ席やったから、あないな運びになってしもたんや、ほいでもまあ、悪かったなぁ」
「そやけど、あんた、あれから沢見さんの結香さんとは仲ようしてるんやろ?」
「うん、元々、柏木音楽堂のスタジオに出入りしていたからね、全く接点が無かった訳じゃないんだ、律子さんと同じカルテットのメンバーだと分かっていたし、それで付き合いがね……」
静香が言った。
「香田くんのお父さんの会社のクリスマスパーティーには、幸一も律子さん達も、行かはるんやろ、なんか進展があるかも知れへんなぁ?」
「あると思うよ、でも、兄さんにはその前に大きな問題があるみたいだよ、ここから先は直接兄さんから聞いてよ?」
「なんやねんな、ほんまに思わせぶりなんやから……」
「だって、ほんとに大事なことだと思うからだよ、お母さん、この前、僕は兄さんのことを鈍くさいって言ったけど訂正するよ、兄さんは真剣に考えているみたいだよ、我が家にとっても大事なことかも知れないんだ」
「そうか?、あんたが、そないに言うんやったら、待つしかないなぁ」
「そうだ、話して無かったけど、バンドのリーダーの香田くん、今の伯父さんの会社を本格的に継ぐらしいんだ、バンドを抜けるんだよ、景気が悪いから不動産業に専念するらしい……」
「ほな、バンドも解散なんか?」
「いや、一応、僕が世話役で続けることに決めた、メンバー共通の趣味だし、みんなの日頃の憂さを発散させる場でもあるから」
「そうか、そやけど、世話役て、あんたも仕事が忙しいんやないの?」
「いや、やるよ、結香さんや律子さんのカルテットも、クリスマスの演奏が終わったら正式に解散らしいし、兄さんも、今のグループから抜けることになるんじゃないかなぁ、結構、バンドを続けるのは大変なんだよ……」

貸し画廊のフロアを借りて、最後になる演奏会を無事に終えた弦楽カルテットのメンバーは、終了後、山口慎也の友人がやっているレストランでカルテットの解散パーティーを開いた。
レストランにはカルテットのメンバーの他に、スタジオで世話になった柏木音楽堂の柏木社長と、社長の甥の柴野専務、結香の恋人の野沢慎一、玉木幸一も居た。
出版社で営業をしている山口慎也がパーティーの挨拶をした。
楽しくやってきたお礼をメンバーに言い、世話になった柏木社長にも感謝を伝える。
「柏木さん、長い間、スタジオを使わせて頂いてありがとうございました、僕たちのカルテットが解散するのには訳がありますので、お話しさせて頂きます、僕と三沢杏子さんは、春に婚約することになりました、沢見結香さんは、此処に見えている野沢慎一さんと、小林律子さんは玉木幸一さんと、それぞれがカップルと云う事になりましたので、今後はプライベートで色々とありますので、練習もままなりません、みんなで話し合って解散をすることにしました、本当にありがとうございました」
柏木太郎が参加者の一番の年長者だった。
親友の玉木良雄の長男である幸一が、パーティーに姿を見せているのを不思議に思っていた。
「いやー、そう云うことだったの、それじゃぁ、お目出度い解散と言うことになるね、それは、それは、皆さんおめでとう……、そうだね、パーティーが始まったばかりで気が早いが、二次会はお祝いと言うことで、わたしがご招待させて貰いましょう、今夜は呼んで頂いてありがとう、解散は残念だと思うが、お目出度いことなら仕方がないね……、しかし、メンバーが同時に恋に落ちるとはねぇ、いや、わたしも何か嬉しいね、良かった、良かった……」
山口慎也と野沢慎一と玉木幸一は、互いに挨拶を交わし、これからも宜しくと言い合った。
柏木が、律子の向こう隣に座っている幸一に話し掛ける。
「幸一くん、ご家族には紹介済みなのかい?」
「いえ、まだです、律子さんは親友の妹ですから、家族も名前だけは知っていますが、紹介するには、もう少し時間を掛けてからと思っているんです、小父さんも両親には話さないでいてくれませんか?」
「ああ、いいよ、色々とあるだろうからね、承知したよ」
「済みません、宜しくお願いします」
律子も玉木に言った。
「我が侭を言って済みません、話せるようになれば幸一さんからお話ししますから、宜しくお願いします」
「いいよ、でも、ほんとに良かったね、幸一くんのお父さんとは学生時代からの付き合いだから、幸一くんは息子みたいに思えてね、小林さんなら何も言う事は無い、安心して見守らせて貰うよ……」
「ありがとうございます」

解散を決めた弦楽カルテットがクリスマスの演奏曲の練習を終えたのは、午後九時前だった。
柏木音楽堂の前には、幸一が自家用車で律子を迎えに来ていた。
杏子は慎也の自家用車に乗り、幸一の自家用車に律子と結香が乗り込んだ。
幸一は結香を送り届けると、律子と一緒に喫茶店に寄る。
サンドイッチを食べながら幸一が言った。
「決めて来たよ、二年、待ってくれるかな?」
「いいですよ、二年でも三年でも……」
「いや、そんなには待たせないよ、律ちゃんが二十八、僕が三十二、それ以上だと僕が格好つかない気がするから」
「でも、新しい仕事でしょ、引き継ぐのには二年じゃ短くない?」
「大丈夫だよ、先生は完全に仕事から離れる訳じゃないから、体調が悪くても相談には乗って貰えるし、指示を貰うこともできるから」
「将来は幸一さんが事務所を受け継ぐの?」
「そうなると思う、身内には後継者がいないからね、君以外に信頼できる司法書士を知らないからって……、ほんとに僕でいいのかって訊いたら、色々調べたけど、評判と、来て貰えそうな環境にあるのは君しかいなかったからって……」
「白羽の矢ってことでしょ?」
「先輩たちが推薦してくれたみたいだ、塾にも話して来た」
「ほんとにいいの?、わたしのために無理をしないでね?」
「無理じゃないよ、憲ちゃんとあまり離れたくないんだ、最初は一緒に弁護士を目指していたからね、法律は知識で持っているより活用することが大切だから、講師の仕事は僕の本意じゃないなって、少し気にしていたんだ、それと、山沖先生と事務所のひと達の役に立てるのなら、それもいいかなって思ったしね」
「喜んでいいのね?」
「ああ、憲ちゃんには相談していたんだ、だけど、律ちゃんの両親に話すのは、もう少し落ち着いてからの方がいいかなって……」
「いいわ、わたしが話してもいい?」
「そんな勇気があるのかな?」
「今までだったら無かったかも知れない、でも今はあるわ、お付き合いをしていることだけは話してもいいでしょ?」
「うん、僕も家の両親に話すよ、山沖先生の処が決まるまではと思っていたから」
「あの、結香さんからも聞いたけど、純一さんは、わたしの気持ちや幸一さんの気持を知っているんでしょ?」
「そうだと思う、でも、両親には話してないと思う、話していたら両親の方から僕に何か話があるだろ?」
「何も言われてないのね?」
「うん、今は治美のことで色々あるから」
「治美さんと同じように、幸一さんもお仕事を辞めるって聞かれたら、ご両親は驚かれるでしょうね?」
「今の仕事より安心すると思うけど……、僕自身がそう思っているから」
「治美さんも幸一さんも、しっかりしているんですね、兄とは大違いだわ」
「そんなことは無いよ、僕より憲ちゃんの方がしっかりしているよ」
「わたし、兄に嫉妬してしまいそうだわ」
律子は微笑を浮かべて、冗談めかして言った。
「待ってよ、憲ちゃんとはそんな仲じゃないから、確かに、女性との交友に関しては、ふたりともしっかりしているとは言えないけど……」
「知っているわ、学生の頃からずっと二人とも真面目だわ……」
「それより、僕と律ちゃんが将来結婚するかも知れないと知ったら、小父さんも小母さんも驚かれるだろうな」
「それは幸一さんの家も同じだと思うけど、結婚相手が身近な親友の妹だなんて……、家はお祖父ちゃんが一番驚くと思う……」
「お祖父ちゃんには悪いな、純一を紹介するって話していたから……」
「そうね、それは幸一さんも兄も鈍感だとしか云えない、純一さんに悪かったわ……、でも、純一さんは優しかった、わたしの気持に気付いているのに、最初は知らない振りをして、話し相手になってくれていたのよ」
「確かに、僕も憲ちゃんも鈍かったな、でも、あれがきっかけで美紀ちゃんが憲ちゃんに話してくれたから……」
「そうね、妹がわたしの顔色を見ていたなんて意外だったし、兄が、わたしの後押しをしてくれるとは思わなかった」
「美紀ちゃんは大人だね、まだ僕たちのことを両親に話していないんだ……」
「そうなの、兄も妹も黙って見てくれているわ」
「僕も憲ちゃんに話すとき、勇気が要ったよ、そうしたら憲ちゃんの方から言われたんだ」
「何て?」
「うん、僕たち勘違いをしていたみたいだ、律子も幸ちゃんもお互いに気になっていたんだろ、どうして言わなかった、そう言って叱られた」
「変な親友なのね」
「最初に家に行った頃は、律ちゃんは中学生だった、あれから高校、大学、就職、ずっと身近で見ていただろ、だから何時から律ちゃんを好きになったのか分からなかったんだよ、可愛い親友の妹から、いつの間にか大人の女性になっていた……」
「わたしは、早く大人になって幸一さんに近づきたいと思っていたわ……」

この日、幸一は律子を家の近くで降ろし、小林家の玄関には行かなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み