第7話〈恋の年頃〉

文字数 4,268文字

純一は沢見結香の誘いを受けて、結香の父親と古い付き合いだと言う、京料理の店に行った。
玄関前の案内には、夜の会席膳の内容と、値段が表記されている。驚くほど高い値段ではない。
烏丸通から少し入った場所なのに、門をくぐって格子戸の前まで来ると、意外に静かで、純一が思わず言った。
「驚いたな、静かだなぁ、嘘みたい、通から直ぐだよね?」
「そうなんです、とても静かで、街中だとは思えないでしょ?」
「うん、こんな場所があるんだなぁ…」
店内は昔からの町家の構造のまま残した通路の片側には、隣席との仕切りに肩口辺りの高さの格子が設えてある。
土間だった通路は全面が板張りに改造され、フローリングは濃い褐色のアンテイークが施されている。
靴を履いたままでも靴音の響きは、先客に不快感を与えること無くテーブル席につくことが出来るように出来ている。
「古い店なのに、思い切って改装したんだね?」
「そうなんです、今は、四代目のご主人なんですけど、純一さんより少し年上の方なんですよ」
「ふーん、三代目がよく譲られたね?」
結香は三代目の女将と顔見知りだった、女将は特に親しい素振りは見せず、にこやかに対応してくれていた。
冷酒で乾杯して、季節感のある料理を楽しむ。
「この前は、急にお電話をしてすみませんでした」
「それで、お母さんはどうされたの?」
「妹さんから聞いておられませんか?、母は、少し周りのひとに訊いていたみたいなんですけど……、今は、もう諦めたようです」
「何も聞いてないけど、家の両親は二人とも仕事に打ち込んでいるから、成人した子供のことにはあまり関わってこないんだよなぁ……。それより、今夜は僕の方から結香さんにお願いがあるんだけど?」
「わたしにですか?」
「結香さん達と云う方が中っているかな、クリマスの前の週の土曜日なんだけど……」
結香は真顔になって純一を見詰める。
「いや、そんなに深刻な相談じゃないよ、結香さん達のカルテットに応援を頼めないかと思ってね、柏木音楽堂の柴野専務にカルテットの練習日を聞いたから正式にメンバーにお願いしようと思っているんだけど、事前に結香さんに伝えた方がいいかと思って?」
「その日が空いているかってことですか?」
「先ずはそうなんだけど、但し、練習が必要なんだ、クラシックだけじゃなくて、少しポップなスタンダードとか外国の民謡みたいな、サロン風の演奏をお願いしたいんだけど……」
「どんな場所で演奏するんですか?」
「僕が参加しているバンドリーダーのお父さんの会社が、弱電計器の組み立てをやっているんだけど、女性が四割を占めていてね、第一部のディナータイムの演奏を頼まれているんだよ、うちのバンドは基本的にソロ演奏を活かすモード系のジャズバンドだから、静かな食事中では無理があると思うんだ」
「わたし達も、気分転換でポップな曲は演奏しますから、それは問題ないと思いますけど」
「勿論、うちのバンドからもピアノとギター、ベース、ドラム、それとクラリネットとフルートが参加してもいいから、五曲くらいずつ前半後半で交代すればと思っているんだけど……」
「分かりました、わたしからもみんなに話してみましょうか?」
「そうして貰えるかな、夕食とは別に交通費がひとり五千円出るから、それと、もう一点、二部としてダンスパーティーが予定されていて、その演奏もあるんだけど、それも出来れば受けて貰いたいんだ、柴野さんに助けて貰って、うちの兄も借り出そうと思っているんだ」
「柴野専務さんもですか?、柴野さんは楽器は?」
「テナーサックス、昔やっておられた筈なんだ……」
「純一さんのバンドは、何人なんですか?」
「十二人、バンドのトランペットは二人なんだけど、兄も他のバンドでトランペットを吹いているから応援ということで、と云うか、この前は結香さんには話さなかったけど、小林律子さんのこともあるんだ、その後、何か聞いてない?」
「いいえ、別に変わったことは……」
「そう……、実は、律子さんのお兄さんと僕の兄は親友でね、ふたりは僕と律子さんが付き合うように仕組んだんだけど、本当は律子さん、僕の兄のことが好きらしいんだ、兄も律子さんのお兄さんも、そのことに気付いてなくて……」
「そう云えば律子さん、会話の中では、好きなひとがいるようなことを匂わせるんですけど、わたし達には具体的な姿が思い浮かばなくて、少し疑っていたんです」
「よくあるよね、親友の妹と仲が良くなるって云うの……」
「そうですよね、あのー、この前、純一さんがわたしのことで、電話で言われたでしょ、今、律子さんのことを聞いて、みんなに話し易くなりました、メンバーには話そうと思っているんです」
「例のレストランの?」
「はい、相手のひとは純一さんと同じ歳なんです、紹介してくれた方にも悪いですし、正式に付き合ってみようかと……」
「そう、それじゃぁ、田巻先生には僕から伝えていいかな?、柏木社長には結香さんから話してくれますか?、一応、僕と結香さんのことを心配してのことだったらしいから……」
「そうですね、お願いします、両親には今夜話します」
「まだ話してないの?」
「はい、彼には田巻先生の家で純一さんに会った理由を話して、今夜は夕食のお礼に純一さんと一緒に食事に行くと話したんです、彼は何を思ったのか、結婚を前提に付き合いたいと……」
「それで、結香さんも決心が付いたんだ」
「はい……、それより、純一さんには気になる女性はいらっしゃるんですか?」
「まだ結婚までは考えていないけど、いますよ」
「それなら良かった、律子さんとも、わたしとも駄目だったと云う事でしょ?」
「まぁ傍からみればそう云う事だけど、実害は何もないから……、だけど、妹も何処で見初められるか分からないものだなぁ……」
「特に看護師さんはそうだと思いますよ、気弱になっているときにお世話になるんですもの、でも、治美さんはそれだけじゃなくて本当に好い方だって……」
「結香さんのことと一緒にそれも両親に伝えておきます、と言っても、両親は妹に恋人がいることを知らないんです」
「それも教えて上げるんですか?」
「妹も遠慮しているんです、兄は三十、僕は二十八で恋人はいないと思っていますから、僕が伝えるのがいいかも知れない……」
「純一さんだけが、お兄さんのことも治美さんのことも知っているってことですよね?」
「結果そう言うことになるかな、兄妹の真ん中で忘れられているから……、逆に家庭の中を冷静に見えたりしてね……、今夜は呼んで貰ったのに、頼みごとをしてごめんね?」
「いいえ、ご縁で近づきになれて良かったです、これからも宜しくお願いします」
「いや、こちらこそ宜しく」

翌日、純一が朝食に台所に行くと、母の静香だけが居た。
「おはよう、みんなは?」
「おはようさん、幸一は予備校の仲間のと約束がある言うて出て行かはったし、お父さんは、杉山の家にお祖父ちゃんと相談事がある言うて……」
「ふーん、治美は?」
「何か分かれへんけど、綺麗にして出て行かはったえ」
「そう……。目玉焼き二つで、ベーコンは要らない……、お母さんは、ご飯を食べたの?、コーヒー淹れるけど……」
「ほな、ご相伴に預かりまひょか……」
「オーケー、マーマレードはあったかなぁ?」
「ある筈やけど、よぉ見てみ?」
「あった、もう少ししかないなぁ、買っといて?」
「分かった」

静香はコーヒーを飲みながら純一の朝食に付き合う。
「お母さん、伝えておくことが二つあるんだけど、聞きたい?」
「なんやの、勿体ぶって、聞いたげるさかい、言うてみなさい?」
「僕に紹介してくれた〈たくみ堂〉の沢見結香さんには、結婚を前提にして付き合うことにした相手がいることがはっきりしたよ」
「それ、ほんまやの?」
「間違いないよ、夕べ一緒に食事に行って、直接聞いたから」
「そう言うてたなぁ……、あんた、落ち込んでぇへんの?」
「何で?、紹介してくれって頼んだ訳じゃないのに……、彼女の相談に乗って上げたくらいなんだ」
「田巻せんせには、まだ、伝えてへんのやろ?」
「僕が伝えるよ、柏木の小父さんには結香さんが話すって、彼女、弦楽カルテットを組んでいて柏木音楽堂のスタジオで練習をしているから、お父さんにはお母さんから話しといてよ」
「そらまぁ、かめへんけど……、残念やったなぁ?」
「だから、僕には何のダメージも無いから……」
「そやけど、また縁遠ぉなった云うことやろ?」
「もぉ、そんな心配は要らないから……、もうひとつは大事なことだからね、お母さん、治美に恋人がいることは知らないだろ?」
「あら!、それ、ほんまの話しやの?」
「僕は何となく気付いていたけど、結香さんのお母さんが治美のことを知っていて調べたらしいんだ?」
「お母さんが、なんで治美のことを?」
「婦人科に入院していたんだよ、そのときの担当看護師が治美、気に入られたんだ、結香さんのお兄さんの嫁さん候補だったんだよ」
「そないなことがあったん?」
「うん、偶然だよ、でも、諦めて貰ったから」
「そやけど、治美の相手の方って、どないなおひとやの、あんた、知ってんの?」
「ああ、治美と同じ病院の夏目先生、間違いないよ、治美が先生と一緒に夏目医院の自宅の方に入るのを見たんだ」
「夏目せんせも治美も内科やのに、治美はなんで婦人科にいたんやろ?」
「それは知らないよ、どっちにしても、心構えはしといた方がいいと思うよ」
「そうやなぁ……、治美もええ歳やさかいなぁ……」
「お母さんもお父さんも自分の仕事を持っているから、あまり僕らのことには気が回らないと思うけど、結婚となると、相手の家のこととか、周りのしきたりとかがあるだろ、少しは気にした方がいいよ、兄貴だって間もなくかも知れないよ?」
「そないに言われたら返す言葉があれへんけど……、あんた等みんなしっかりしてるさかい、心配はしてへんのえ、お父さんも、そう言うてはる」
「まぁいいよ、僕らのことに関しては暢気なんだから……、ふたりともクリエィティブな仕事をしているんだから、それでいいのかも知れないけどね」
「治美とお兄ちゃんのことは分かったけど、あんたはどないやの?」
「僕のことは心配要らないよ、兄貴と治美の間で適当に育って来ているからね、適当に落ち着くと思うよ……」
「まぁ、あんたかて、暢気やないの?」
「親に似たんだよ……」
「まあ、ほいでもな、あんたは暢気なようで意外にしっかりもんやさかい、お母さん何を言われても心配することのう来てるんや、お言葉に甘えてこれからも心配せんとくわな……」
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