第13話〈温かい団欒〉

文字数 3,988文字

碁盤に見入っている武治に、湯飲みを手にして座卓の前に座っている美津が話し掛ける。
「貴方、裁判官だったひとが、軽はずみなことを仰っては駄目ですよ?」
武治は視線を碁盤から逸らすことなく答える。
「何のことだい、わたしは最近他人と顔を合わすことが、ほとんど無いと言っていいんだよ、この碁盤ばかり見ているから、景色が升目の中に見えるくらいだ」
「そんな……、冗談ごとじゃ無いですよ、律子は悩んでいるんですよ」
「どうして?、だから幸一くんに、弟さんの純一くんを紹介してやってくれないかと頼んでやったのだぞ」
「それが余計なことなんですよ、ひと言わたしに仰って下されば、お話ししましたのに……」
詰め碁に行き詰ったのか、手筋に目途がついたのか、武治は背筋を正して、視線を老妻の美津に向けた。
「何のことだい?」
「ですからね、律子は思っている事を口に出せずに迷っていたのですよ、わたしは何時も律子の相談に乗ってやっているのですから……」
「婆さん、分かるように話してくれないと理解できないよ?」
「律子はね、幸一さんが好きなのですよ、あんなに度々碁盤を挟んでお話しをしてらっしゃって、分かりませんでしたか?、判事をしていた頃の眼力が落ちましたね?」
「ほんとうかい?、そりゃぁえらい誤審だな、だが、憲司も幸一くんも、その後、何も言って来ないのだがね」
「この家の男のひと達は鈍感で駄目ですねぇ、美紀までが心配をして、わたしの処に来たのですよ」
「へぇ、美紀が?」
「そうですよ、お姉ちゃんが辛そうだからってね、それでね、美紀は幸一さんの弟の純一さんと顔見知りですから、純一さんにもお願いをしたそうなのですよ」
「ありぁ、それは悪いことをしたな、確かに軽はずみだったかも知れないな……、好いと思って頼んだ事なのだが……、それで、どうなるのかな?」
「さあ、知りませんよ、その後、律子も美紀も何も言って来ませんからね」
「待てよ、婆さん、幸一くんに頼んだとき、彼は拒まなかったのだよ……、律子の片想いなのかい?」
「違うと思いますよ、憲司や家の家族との長い付き合いがあるでしょ、そんな手前もありますから、言い出し難かったのだと思いますよ、まして、貴方に頼まれれば断れなかったんくじゃないですか……」
「そうかい、それはみんなに悪いことをしたな、さて、どうすればいいのかな?」
「そうですね、これから何があっても、貴方は認めて上げる事ではないですか?」
「認める、何を?」
「ですから、ふたりのお付き合いですよ?」
「そりゃあ勿論だよ、幸一くんなら何の問題も無い、彼も早く言ってくれれば良かったのだ、そうすれば、弟さんに律子を会わせてやってくれなどと頼むことは無かったのだ……」
「ですからね、わたしに相談をして下されば良かったのですよ?」
「確かに、すまんね……、だが、憲司も憲司だなぁ……」
「それは、ふたりが真面目な親友だからですよ、こんなに長く続いているのは珍しいですよ、お互いに切磋琢磨して来ているのですからね、憲司が貴方の意思を汲んでくれて、法律に携わる仕事に就いたのは幸一さんのお蔭もあると思いませんか?」
「そうだな、いい関係を続けている、それに、憲司より囲碁の相手をよくしてくれる、幸一くんはいい若者だ」
「ですからね、囲碁だけではなくて、色々とお話しを聞いて上げて下さいよ?」
「ああ、分かった。律子と美紀に、お礼を言わなきゃならんな」
「律子にはお礼じゃなくて、謝るのですよ、余分なことをなさって、あの子を悩ませたのですからね?」
武治は「ふぉー」と大きく息を吐いて、詰碁の本を閉じ、碁石を片付けながら言った。
「婆さん、わたしもお茶を貰おうかな……」
「そうですね、うーんと苦いのにしましょうね」
「そう苛めるな、反省しているんだ、執行猶予と言うことで許して貰えないか?」
「はい、いいですよ」

小林家の家族七人の夕餉が終わり、母の千里と長女の律子、妹の美紀が手分けをして食卓を片付け、台所で洗い物をしていた。
祖母の美津が、婿の由二と孫の憲司に小声で言った。
「律子が何か話したら、黙って聴いてやって下さいね?」
由二が言った。
「お義母さん、律子に何かあったんですか?」
憲司もじっと美津を見る、武治はデザート皿に残っていた最後の林檎に楊枝を差すと、ゆっくり口元に運び、少しかじった。
「さあね、律子がどんな話し方をするのか分からないけど、でもね、悪い話しじゃないですよ」
美紀がコーヒーを淹れて、それぞれのコーヒーカップをトレーに乗せて持って来ると、呟くように言いながらカップを配った。
「お祖父ちゃんのは、お砂糖が少な目、お父さんのはミルクだけ、お兄ちゃんのはブラック、お祖母ちゃんのは砂糖とミルク多目ね……」
配り終えると、トレーを台所に戻しに行き、今度は自分のカップと菓子器を持って戻って来る。
「はい、お祖父ちゃんの好きな〈蕎麦ぼうろ〉、林檎の後じゃ美味しくないかも……」
美津が訊いた。
「誰かが、〈河道屋〉さんに寄って来たの?」
「うん、お姉ちゃんよ、お祖父ちゃんが詰め碁をしながら食べるでしょ、買い置きが無くなっていたからね、お母さんが頼んだの、わたしも食べるから、大きい缶入りを買ってきて貰ったのよ」
「まあ、勉強しながら食べていると太っちゃうわよ」
「大丈夫よ、お祖母ちゃん。運動もしっかりやっているから、吹奏学部もグラウンドを走るのよ」
律子と十歳も離れている妹の美紀は、子供っぽい処もあるが身長は律子や千里より高く、一見すると中学生には見えない。
千里と律子が、自分のコーヒーカップを持ってやって来た。
暫く年賀状の話しをしながら、コーヒーを楽しんでいた。
暫くすると律子が真面目な表情になった。
「あのー、聴いてくれる?」
由二は父親の顔になり、長男の憲司は真顔になって律子を見る。千里と美紀は、何事?、と云った感じで、同じように律子を見た。
武治は林檎を食べ終えて、〈蕎麦ぼうろ〉に手を伸ばした処だった。
「わたし、二年か三年後に結婚するかも知れないから、伝えておこうと思って……」
突然、美紀が笑顔になって言った。
「やったー、お姉ちゃん良かったね、やっぱり先輩に頼んで良かった」
憲司が言った。
「美紀、何のことだ?、先輩って?」
「お兄ちゃんが、お姉ちゃんのこと、何もして上げないから、純一先輩に頼んだのよ」
「純一くんに何を?」
「玉木さんに、お姉ちゃんの事を伝えてって」
今度は律子が美紀を見た。
美津が口を挟んだ。
「まあまあ、律子の話しを最後まで聴きましょうよ?」
そう言って、律子の顔を見て促した。
「あの、相手は幸一さんなの、幸一さんは新学期の前に講師を辞めて、山沖敏夫司法書士事務所に勤めることになったの、兄さんは知っているわよね?」
「ああ、相談には乗ったけど……、それ以外のことは幸ちゃんからは何も聞いてないけど……」
武治がコーヒーを一口飲むと言った。
「幸一くんは山沖さんの事務所に勤めることになったのか?、山沖さんは体調を崩しておられて、事務所を閉めようかという噂も聞いておったがね」
由二が心配そうに言った。
「そんな状況の事務所に勤めて大丈夫なのか、幸一くんは?」
憲司が言った。
「お父さん、違うんだよ、国吉先生にも調べて貰ったんだけど、山沖さんは幸ちゃんに事務所を継いで貰いたいらしいんだ、法学部の先輩のひと達も幸ちゃんを推薦されたそうなんだよ」
「そう云うことか、彼を見込んでのことなんだな……」
「待って下さいよ、お義父さん。それと律子の件とは関係があるんですか?」
美津が言った。
「由二さん、幸一さんは、ひとが良さそうに見えますが、あれで考え深いひとですよ、自分の将来のこと、律子のこと、結婚するとなれば周りのことも考えなくてはならないでしょ……、勿論、山沖さんのご家族のことも考えた上のことだと思いますよ、よくよく考えて、律子に結婚の話しをしたんじゃないかしら……」
憲司が言った。
「そうか……、幸ちゃんの就職にはそんな背景があったのか、親友でも話せないことや、理解できない事があるんだな……」
「お兄ちゃんが何もしてくれないから、幸一さんとお姉ちゃんは着々と進めていたってことね……」
「そう言うな、美紀が言って来てから、ずっと考えていたんだ」
武治が割って入る。
「二、三年と言うのは、幸一くんが山沖さんの処の仕事に慣れるまでと言うことだな……、彼らしいね、碁を打つときと同じだ、先を読みながら打つ手は意外に早い……」
由二が律子に視線を移して訊いた。
「それにしても、どうして、もう少し早く教えてくれなかったんだ?」
美紀が代わって答えた。
「お父さんもお兄ちゃんも鈍いのよ、ねぇお母ちゃん?」
千里は少しだけ首を傾げて肯づく。
由二は感慨深そうに言った。
「そう言われれば仕方ないが、幸一くんも、話してくれればいいのにな?」
美津が言った。
「由二さん、それは言えないでしょ、憲司やわたし達とのお付き合いは長いのですよ、もし律子が駄目だと言ったら、憲司もわたし達も、幸一さんと接するのが気まずくならないかしら?」
「そうか……、それにしても、幸ちゃんは転職だけの相談だと思っていたのに、律子のことや周りのことも考えていたなんて、全く気が付かなかったな……」
美津が訊いた。
「それで、由二さんはどうなの?」
「ふたりのことですか?、全く反対する理由はありませんよ」
「千里はどうなの?」
「わたしは賛成ですよ、幸一くんのことは良く知っているんですから、あまりにも身近で戸惑っているけど……」
「そう、それじゃぁ良かったわ。律子、良かったわね?」
律子が多くを語る前に、家族はみんな、律子の思いを理解していた。
「ねぇお姉ちゃん、玉木さんも家族のひと達に話しているのかなぁ?」
「うん、多分ね」
「玉木さん、今度どんな顔をして家に来るのかな?、そうだわ、純一先輩にお礼のメールを打たなきゃ……」
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