第4話〈無駄な企て〉

文字数 4,925文字

小林憲司は、勤め先の〈国吉壮八郎.法律事務所〉を出ると、妹の律子が勤める河原町通の大型書店に向かう。同じ頃、玉木幸一は四条河原町の百貨店前で、弟の純一と落ち合い、鴨川沿いの洋風居酒屋に向かっていた。
午後七時半を過ぎた頃、洋風居酒屋の前で四人が顔を合わせた。
少し遅れて来た憲司が言った。
「ごめん、待った?」
幸一が返事をした。
「いや、ほんの少し前だよ、律子さん、久し振り……」
「こんばんわ、お久し振りです」
「紹介します、弟の純一です」
「玉木純一です、会ったことがありますよね?」
律子は、ほんの少し戸惑った後で答えた。
「ああ、柏木音楽堂で、お見かけしたことがあります」
幸一が言った。
「律子さん、弟は楽器メーカーの営業部員なんですよ」
「そうなんですか、クラリネットを吹かれることは、兄から聞いていたんですけど、じゃぁ、お仕事で柏木先生の処へ?」
純一も惚けた。
「はい、色々とあって、よく出入りをしているんです」
「じゃぁ、わたし達のカルテット練習日にも、来られていたかも知れませんね?」
「ええ、何度か……、よく練習をされているんですね?」
憲司が言った。
「そうか、律子も全く知らない訳じゃないんだ?」
「兄さん、初めてと変わらないわ、妹の律子です、宜しくお願いします」
「いや、こちらこそ、兄から憲司さんに妹さんがおられることは、高校時代から聞いていましたが、全然タイプが違いますね?」
「純一くん、どう云う意味だよ?」
憲司が冗談めかして言うと、幸一が割って入る。
「まぁいいだろ、入ろうよ、予約時刻だ」
幸一に促されて、店内に入る。

乾杯をして、最初の料理が出揃うと憲司が言った。
「実は、今日は、僕と幸一が高校時代に、司法試験を目指すと決めた日なんだ、それと、僕が司法試験に受かって八年目の記念を祝おうってことでね、二人をゲストに呼んだって訳だよ」
純一が不思議そうに訊いた。
「八年目って?、何か、中途半端じゃないですか?」
幸一が言った。
「拘るな、何年でもいいんだ、あえて言えば、末広がりだから……、どっちにしても、高校時代に将来の目標を立てた記念日には間違いないんだ」
「兄さんは、その頃に弁護士になろうと決めていたの?」
「ああ、お祖父ちゃんが寂しそうに、僕に言ったことがあったんだ、身内にひとりぐらい、司法に関係する仕事をして欲しいと思っていたって……」
純一が幸一に訊いた。
「親友同士が、偶然同じ志望だったの?」
「弁護士じゃなくても、法学部がいいかなと思っていたんだ、音楽もやりたかったし、憲ちゃんとの友情は大切にしたかったからだ」
「ふーん、ちょっと気持ちが悪いくらいの友情だね?」
「お前、何を言うんだよ、今時、健全な男の友情だろ?」
「まあね、とにかく、ご馳走にあやかるのは歓迎だね、律子さん、兄さん達は金持ちだから、大いに食べて飲みましょう」
「お前の方が、給料はいいと思うけどなぁ?」
「今度、新しいサックスを買うことにしているから、貯金も無くなるよ」
律子が言った。
「訊いていいですか?、幾らくらいの楽器なんですか?」
「たいしたことは無いですよ、律子さんのヴァイオリンに比べたら、弓くらいの値段ですから」
「純一、お前、律子さんのヴァイオリンが幾らするのか知っているのか?」
「えーっ、とんでもない名器なの?、五十万円もする弓?」
「待て純一、五十万ってか?……、僕のトランペットより高級なサックスじゃないか?」
「セルマーの限定機種なんだ、安くして貰う話しを進めているから……」
「わたしのヴァイオリンも、そんなに高級品じゃないですよ、変わりません」
憲司が言った。
「あれは、お祖父さんが出してくれたんだったな、でも六、七十万したんじゃなかったか、千九百九十年代のイタリア製だとか言っていたな?」
「ダニエル.スコラリ、わたしには勿体無いと思っているわ」
「確かに、僕らはプロじゃないし、高級な方だと思うよ。僕だって、ちょっと躊躇しているんだ」
アルコールが回るに連れて、話題が音楽関係になりそうなのを、何故か幸一が懸命に修正していた。
純一は、兄たちは本当に親友なんだと思いながら、自分も音楽の方に話が進まないように気遣った、その思いは律子も同じだった。

純一が夕食時に、「会社が休みの土曜日に、柏木音楽堂の手伝いで東山区の高校の定期演奏会に行く」と言うと、父の良雄が、田巻康雄のアトリエに寄れないかと訊く。
純一は、三時には終わると答える。
「三時に終われば、真っ直ぐに行けるか?」
「ああ、何か、届け物?、歩きだから大きな物は困るけど、三時半には行けるよ」
「頼まれていた手水鉢のデッサンだと言えば分かるから、それと、お母さんに、何か手土産を見繕って貰うといい?」
「それはいいよ、僕が買って行ってもいいから」
「相談して、いいようにしてくれ?」
「了解、分かったよ」

純一は知恩院近くの田巻康雄のアトリエに、三時を少し回った頃に着いた。
アトリエと言っても古い日本家屋で、知恩院の塔中のような、広々とした庭の奥に玄関のある、立派な屋敷だ。
父を自家用車に乗せて、何度か訊ねたことのある屋敷に入り、玄関戸をあけて奥に声を掛けると返事があった。
「お待ちください」
女性の声に驚き、玄関の床を見るとモス.グリーンのハイヒールが揃えてある。
田巻康雄は独り住まいの筈なのに、と思いながら、現れるひとを待った。
姿を見せたのは、明るいベージュのベストが似合う、タイトスカート姿の若い女性だった。淡いグリーンのぼかしの入ったブラウスが似合っている。
純一は、何処かで会ったことのあるような気がした。
女性は落ち着いた態度で言った。
「いらっしゃいませ、玉木純一さんですね、どうぞおあがりください」
「あっ、はい、先生は居られますか?」
「ええ、奥の部屋です、上がって貰うようにと……、どうぞ」
「そうですか、じゃぁお邪魔します」
「あの、コーヒーかお茶か、どちらが?」
「すみません、それじゃぁ、コーヒーをブラックでお願いします」

座敷に行くと、田巻康雄は、掛け軸の箱を幾つも並べて、一幅を床の間に掛けていた。
「小父さんこんにちは、お邪魔します」
「おう、純一くんか、ちょっと待ってくれるかな、こいつをなぁ……」
琥珀色の風鎮を付けて、掛け軸を真っ直ぐに調整すると、座布団に戻った。
保津川上流のような川の流れの岸辺に、枯れ薄の裾に、羽を休める、ふっくらとした真鴨の姿が見える掛け軸だった。
純一は筒状のケースを康雄に差し出した。
「これを父から、手水鉢のデザイン画だそうです」
「ああ、ありがとう、私も頼まれていてね、お父さんにお願いしていたんだよ」
「それと、これは月見団子と栗赤飯ですから、団子は早いうちに食べて下さい」
「そりゃぁそりゃぁ、じゃぁ、早速お茶にするかい?」
「あっ、さっき女性の方に訊かれて、コーヒーをお願いしてしまったんですが……」
「そうかい、結香ちゃんも、なかなか気が利くな」
「何処のひとなんですか?」
「ああ、後で紹介しよう。どうかね、ご両親は展示会が上手く行って、忙しい言うてはるやろやなぁ?」
「はい、色々と引き合いがあるらしくて、活き活きしています」

女性がコーヒーカップとお茶の準備をして座敷に入って来た。
「ありがとう、まぁ、其処に座って……。紹介をしよう、こちらはわたしの芸大時代からの友人で、石造彫刻をやってる玉木良雄くんの次男の玉木純一くんや」
純一は女性を見ながらゆっくりと会釈をした。
「こちらのお嬢さんは、わたしの仕事を助けて貰ろてる〈たくみ堂〉の長女で沢見結香さん……、実は、わたしの姪でもあるんや、純一くんと同じように、趣味は音楽でな、弦楽カルテットで演奏会もやっているんやで……」
「沢見結香です、初めまして」
「玉木純一です、宜しく、先生と同じたまきですけど、僕の方は剣玉の玉とウッドの木ですから、あのー、ほんとに初めてですか?」
「いいえ、わたしは見たことがあります」
「やっぱり、柏木音楽堂ですよね?」
「はい、そうです、あの、玉木さんのお兄さんは、トランペットをやっておられますか?」
「ええ、よくご存知ですね、今は趣味でジャズに嵌っているみたいですけど……」
「それじゃぁ、小林律子さんをご存知ですか?」
「知っています、兄の親友の妹さんですが、先日、会いました……、そうか、彼女もヴァイオリンだから……」
「はい、同じカルテットで、わたしはヴィオラなんです、そう云えば、少しだけ律子さんから聞いています、クラリネットを吹いておられるんですよね?」
康雄が驚いたように言った。
「そうかい、お互いに、全く知らんと言う訳やないんやな?、まぁそれはそれで、さぁ、コーヒーが冷めるよ」
「伯父さんごめんなさい、お茶も直ぐに淹れます」

三人は音楽や日本画のことを、楽しく語らって時を過ごした。
五時過ぎに田巻邸を辞することにすると、結香も純一と一緒に帰ると言い、ふたりは田巻康雄に挨拶を済ませ、通りに出ると歩いて四条河原町方面に向かった。
「結香さん、少し早いけど、食事をしませんか?、午前中から柏木さんの手伝いで楽器運搬をしていたから、ちょっと腹が空いているんで、勿論、ご馳走しますよ」
「そうですか、わたしも、少し純一さんと話してみたいことがあるんです」
「何かな、いいですよ、じゃぁ和食、洋食どちらがいいですか?」
「和食にしません?」
「いいですよ、じゃぁ、そうだな……、少し大人っぽい処にしましょう、電話しますから待ってください」
純一は料亭の『進藤』に、携帯で電話を入れた。
歩きながら結香が言った。
「進藤って、高級なお店じゃないですか?」
「大丈夫です、女将さんは母の高校時代からの友人ですし、僕の財布の中は分かってくれています、それより、女将さんは芸大の声楽科出身なんですよ」
「凄い、そんな方が料亭の女将さんだなんて」
「僕もそう思う、それより話したいって何かな?」
「今日は、どうして田巻の伯父の処へ来られたんですか?」
「どうしてって?、父から届け物を持って行くようにと言われたんだけど……、どうして?」
「わたしの勘なんですけど、わたし達を会わせるのが目的だったと思うんです、母が、伯父にお願いをしていたみたいなんです」
「えーっ!、お見合いみたいなもの?」
「伯父の所に行ったのは、特に用事があった訳じゃないんです、家には三十になる兄がいるんですけど、両親は兄がお嫁さんを貰う前に、わたしの結婚をと思っているみたいなんです」
「じゃぁ、僕の父は、そのことを知っているのかな?」
「間違いないと思いますけど、訊いてもいいですか?」
「どうぞ」
「純一さんには、好きな女性がいらっしゃるんですか?」
「いや、まだ、結婚を意識するような付き合いの女性は居ないけど、もしかして、結香さんには?」
「わたしも同じですけど、つい最近、友人に紹介されて会った男性はいます、でも、どうなるかは分かりません」
「僕は家に帰ったら、結香さんのことを訊かれるってことかな?」
「そうだと思います」
「何て答えたらいいのかな?」
「それはお任せします」
「じゃぁ、感じの好いひとだったと答えます、それでいい?」
「はい、ありがとうございます、わたしもそう答えます」

二人は料亭の『進藤』で座敷に通され、決められた、夜のコースの最初に書いてある料理コースを頼んだ。
女将の進藤美江子が挨拶に来たとき、純一は結香を紹介して、田巻康雄の屋敷で会ったことと、その理由も話した。
「そうですか、いらんお節介ですなぁ、今の若い人らに、年寄りがいらんことせんでも宜しいのに、野暮なことをしはって……、訊いても宜しい?……、ご両親には、どないに、ご報告されますのや?」
「お互いに、好い人だったと答えるつもりでいますけど……」
「ほんまですなぁ、ほいでも、どちらのご両親も心配してはると思いますさかい、お節介なことやったやろけど、あんまし無碍にしはったらあきまへんえ?」
「はい、それは十分に理解していますから」
「ほな、ご苦労はんでしたなぁ、ゆっくり食べて行っておくれやすな?」
「ありがとうございます」
純一と結香は、初対面なのに、ずっと以前から友人だったような気がしていた。
緊張も解けて、京の秋を感じさせる料理を満喫した。
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