第21話 かさかさ ぎしぎしのおうち

文字数 3,055文字

 祖母の死後、慌ただしい野辺の送りと納骨、初七日、四十九日の法要と済むころにはすっかり春。
 私は山形県長井市立長井小学校の一年生になった。

 市内に6つある小学校の中で一番大きい中央地区の小学校は、当時42人学級で、1学年に6~7クラスあった。
 建物は第三校舎まであり、昭和初期に建てられた木造の第一校舎以外は鉄筋3階建て、生徒数も教員数に比例してグランドも広かった。
 プールが2つ、学校の敷地を一周する800メートルのランニングコース、グランドの東には急斜面となだらかなスロープのコンクリートの遊具の山があり、生徒が転げたり、急斜面を垂れさがった鎖に捕まって上ったり、埋め込まれたタイヤで馬跳びをして遊んだ。

 実は小学校の入学式用の服は、直前まで準備されていなかった。
 祖母の死と葬儀関連ですっかり忘れ去られていたのだ。
 そこに、仲は悪いがあねご肌の伯母が助け舟を出したらしい。
 洋裁のプロらしく私の体育着袋、手提げ袋、その他必用な袋類をセンス良く作ってくれた。
 私と兄の喪服を買ってくれたのもその伯母だ。
 入学式兼用にと紺色の礼服を買ってくれたのだが、母が意地を張り、夜遅くまでかけて自分で型紙から起こしたワンピースを縫ってくれた。
 母は自分の服も手作り派で、そのあまり布で私にもよくお揃いの服を作ってくれたが、残念なことにセンスが昭和30年代から40年代初めで止まっていた。
 ピンクの可愛らしい生地で縫ってくれたのは良いが、スカート丈や襟、袖やシルエットなどかなり古風な物だった。
 入学式の新入生一同の記念写真を見ても、独りだけ戦前の子供のような服を着ている私が写っている。
 ともあれ新入学生の私はそんなことは意に介さず、でも他の子供たちのようなキャラクターが着いたシャツやトレーナー、当時流行り始めたジーンズは、なぜうちでは着せてもらえないのだろうと、たまに思った。
 兄ですら、皇太子の幼い時のような、手作りの半ズボンにベスト姿で通学していた。
 後にさすがに「他の子と同じような服を買ってくれ」と母に頼んだようだったが。

 この時期の母は、環境や家事と仕事の配分が祖母の生きていた時と変わり、振り回され、意固地になっていたように思う。
 妻を失った祖父はゆっくりとご飯を食べるようになり、いつまでも朝の食卓が片付かない。おまけにお茶を飲みながらの話し相手として付きあわなければならない。
 祖母が細々ながらやってくれていた家事もこなして、看病でベテラン職工さんに丸投げしていた家業の織物業の手伝いも……
 父も実母を失った哀しさと忙しさで、妻を気遣う事はなかった。
 彼の『面倒を見る、手伝う』優しさはほぼ100パーセント自分の母に向けられていたので、頑固な父と母はぎすぎすした雰囲気になっていた。
 子供の目にも、母と父から笑顔が消えたのがわかった。

 父は誰の目から見ても明らかなマザコンで、祖母を守るためと、妻子を守るため心を砕くことが半々、もしくは祖母への愛の方が比重が大きかったと思う。
 母だって11人兄弟の末っ子。元々依頼心が強く甘えん坊で、自分ではけして決断しない丸投げするタイプである。
 そこへ何かと相談相手になってくれた祖母が死んでしまい、市内に住む自分の兄妹や実家も、そう度々は訪れる事は出来ない。

『久美子ちゃは、実家さいって文句ばっかし語っている』

とたちまち市内にうわさが広がってしまうからであるし、皆商売をしているので忙しい。

 母はこの時期、心身ともに疲れて、家庭内で孤立していたと思う。でもそれに父が気付いていたかどうかはわからない。
 全面的に懐いてくれるのは二人の子供だけ。だがその子供たちも精神的支柱にはならない。
 優しく相手をしてくれたおばあちゃんの穏やかさを、きりきり舞いの母に求めては文句を言った。

「お兄ちゃん、伽耶子ちゃん、お風呂さ入れ」

 夕方、ご飯の支度前に母は私たちをお風呂に入れたがった。その方が家事がスムーズに運ぶからだ。
 だが私と兄は、学校の友達と一緒に外に遊びに行き、よく帰りのお約束の時間を破っては叱られた。
 時計のある家の中でばかり遊んでいるわけではないし、5時だ帰りましょうの市内有線放送も、夢中になって外で遊ぶ私たち子供の耳にはスルーだった。

 遅めに帰ると、母は夕飯の段取りを中断して私と兄を風呂に入れる。
 遅れたらその分、仕事上がりにひと風呂浴びて晩酌、そして夕飯という祖父と父のスケジュールに遅れが生じる。
 そうすると男衆、特に父は不機嫌になってしまう。
 祖父は

「子供らまだか」

と言って静かに座って待っているが、その無言の圧力も、母を焦らせる原因だった。

 頭を洗ってくれる時も祖母は繊細な手つきで、目や耳に泡やお湯がかからないように、そっと丁寧に流してくれたが、母は爪の伸びた指でガシガシと頭皮をこすり、ざばざばと豪快に湯を浴びせた。
 耳や眼はおろか、鼻にお湯が入りツーンと痛くなる時も度々で、私と兄は文句を言った。

「目に入るよお。おばあちゃんはもっと優しく洗ってけっちゃ(洗ってくれた)」

 すると母は冷たい目をして口をへの字に曲げ、

「そんなに言うなら自分で頭洗え。なにがおばあちゃんの方が優しかっただ。せつけな当たり前だごで。おばあちゃん暇だったも。ママはやること一杯あんの」

 そう言ってプイと風呂場を出て台所に行ってしまう。
 私と兄は仕方なく、湯船に頭の先まで潜って泡を洗い流した。
 当時は毎日シャンプーする習慣はなく、我が家では週に一・二回だったから、そのうち自分達で上手にシャンプーできるようになった。

 また祖母は、お風呂上りに必ず孫のお肌と髪の手入れをしてくれた。
 バニラと柑橘系がほのかに香る真っ白いクリームを、タオルで水気を拭いた私の顔や手、腕、肘、膝に伸ばして、優しくくるくるとマッサージし、長い髪に櫛目を入れてすかしてくれた。
 ウテナの『お子さまクリーム』である。
 そして

「お手てと髪がきれいな女の子は幸せになんなよ(なるのよ)。伽耶ちゃんも幸せになるよ」

 と毎日言う。
 その声音が私は大好きだった。
 ところが母は忙しい。
 子供のお風呂はさっさと切り上げて、夕飯の支度を再開しなければならない。
 勢いぞんざいに体と髪を拭いたかと思うと

「後は自分で着られっぺ」

 とほっておかれた。
 小学生なのだから一人でお着替えは出来るが、自分達のお風呂は母親にとっては手間のかかる迷惑な事なのではないかと、寂しくなった覚えがある。
 だがさすがに、それを直接母には言わなかった。
 子供心にも、母がいっぱいいっぱいで、ぎりぎりの精神状態で暮らしていると感じていたからだ。

 そんな中、たまに父親が仕事で米沢の織物買い継ぎ屋に納品に行った帰り、ケーキを買ってきてくれた。
 生の果物と生クリームのケーキではない。
 イチゴの形の真っ赤なゼリーと緑色のふきの砂糖煮が乗り、銀色の粒がふってある、バタークリームのケーキである。
 当時はそれが「ショートケーキ」だった。
 バタークリームは日持ちがし、形が崩れにくい。
 そしてごってり大きく絞りだして、見栄えがする。
 だけど私は少々苦手で、食べると必ず気持ちが悪くなった。
 お子様クリームを自分で顔に塗って、たっぷりつけすぎ口に入ってしまった時のような、変に重い味がした。

 成長し、丁寧に作ったバタークリームが別物のように美味しい事を知ったのは、東京に出て実家と少し距離を置き、当時の母の孤独を理解できる年になってからだった。
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