第8話 紫蘇と梅干し 

文字数 3,606文字

 山形県南・長井市の実家の夏の庭や畑、その辺の野原、空き地などに丈高く群生している植物は、真赤な花を咲かせる鶏頭と、野生化したグラジオラスやダリアなどの洋風の花、そして「盆花」と呼んでいた赤や青の花。ジニア。
 そして赤紫蘇である。

 紫蘇はそれこそ、種が風に乗って来るのか、どこからともなく生えてきて瞬く間に生い茂る。
 青い紫蘇は、まだ柔らかいうちに色んな料理に使うため、先っぽから摘んでいくのであまり高くならないが、赤紫蘇は別だ。
 赤紫蘇は青紫蘇よりもずっと逞しく、草姿も猛々しく、大きく太い幹に枝葉も伸びる。
 小さな苗が生えてきたなと思うと、瞬く間に庭の一角を我が物顔で占領する。
 その生命力は中学のサッカー部の男の子のようだ。
 『幹』と書いたのには理由がある。太い茎はもはや花ばさみでは刃が立たず、鎌で刈り取るか根から抜くしかないからだ。
 赤紫蘇が逞しく茂る季節は、梅干しの季節でもある。
 実家でも、ご近所同様近所の農家からたくさんの熟した梅を買い、梅干しを作っていた。
 
 母と祖母、足踏み式の昔ながらの織機を使った紬屋である我が家に通う、何人かの織り子の奥さんたち。
 何人もの女手が、数キロの熟した梅を大きなたらいに入れ、冷たい井戸水で手早くきれいに洗って行く。
 熟した梅は皮が柔らかく傷つきやすいので私と兄、いつも一緒に遊ぶ織り子さんの子供達は参加させてもらえなかった。
 熟練の大人の女たちの手で、時にふきんを使ってへたの際まで丁寧に洗う。
 傷ついた実を混ぜると、漬物が濁って雑味が生じてしまうので、あくまでも丁寧に。
 母、祖母、織り子さん達は小さな丸い木の椅子に座って、井戸水を細く流しっぱなしにして、おしゃべりしながら作業に取り組んでいた。

 洗い終わった梅は一粒一粒付近で水けをきり、爪楊枝でへたをえぐり出す。
 気の遠くなるような根気のいる作業だが、昔からやってきたから当たり前という顔で、母たちはてきぱきと手を動かしていた。
 体の弱い祖母に気を遣い、家に入って横になるように促すのも母の役目だ。
 風通しのいい南向きの10畳間には、旅館にあるような背もたれの低い籐の長椅子があって、祖母はよくそこに横になり、庭で遊ぶ私たち子供らや母たちの作業の様子を眺めていた。
 祖母は優しく微笑みながら、私達が摘んできた花を喜び、押し花にしていた。
 後にそれは色紙に張り付け、額装されて玄関に飾られた。
 子供達は鼻高々だった。

 洗った梅は半日ほど日向に敷いたゴザの上で干し、漬け瓶で下漬けされる。
 瓶の底に塩を振り、ずらりと一段並べた梅にまた塩を振る。これを幾層も繰り返して、最後は落とし蓋をする。
 次の日になると液体(梅酢)が上がってきて、瓶の中はざんぶりひたひた状態になるのだ。
 この状態になったらいよいよ私達の出番である。

 「明日は紫蘇むしりすっからお手伝いしろな」

 母が井戸水でざぶざぶ洗ったキロ単位の赤紫蘇を、物干しざおに吊るして干す。
 それが楽しい子供達への予告だった。
 
 子供達は玄関先のコンクリートのたたきに集められ、暑いコンクリにペタンと座り、今か今かと紫蘇を待っている。
 その真ん中には梅を干すときにも使ったゴザが引かれ、各人の脇には竹かごが置いてあった。

「ほら、子供んだ(子供たち)、頑張れよ」

 父が、二階の干場から取り込んだ幹ごとの赤紫蘇を、ゴザの上にどさっと置く。
 固く太い茎もしっかりとして、草丈は私達幼児の肩ほどに大きい。
 わっと子供達は紫蘇をつかみ、枝から葉をむしっては傍らのかごに入れていく。
 柄の部分が入らないように、葉だけをしっかりと摘み取らなくてはならない。
 男の子たちの仕事はがさつで、周りの子達とふざけ合ったり足踏みしたりで大人たちに怒られた。

「お前んだ、むさずってばっかりいんな。まっと、ちゃっちゃっとさんなねごで」
(お前たち、ふざけてからかいあってばかりいるんいじゃない。もっとさっさとやらなくちゃならないぞ)

 始めの勢いはどこへやら、飽きて放り投げてしまう男の子たちをしり目に、女の子たちは指先を色素で黒く染めながら葉をむしり続ける。
 男子勢に文句を言いつつも、仕事を引き継ぎ大人の女たちに交じって居ると、自分達も仲間に加えられた感じがして、ちょっぴり大人扱いしてもらえた気がした。

 茎からむしった紫蘇の葉は何度も塩でもむ。
 出てくるアクを絞ってまた塩もみを繰り返し、最後に下漬けの梅から出てきた梅酢を加える。
 すると黒ずんで汚らしい色だったシソが、酸の作用でぱあっと美しい赤紫色になるのだ。
 その瞬間の変化が見たくて、男の子も女の子も大人たちの傍に引っ付いて、邪魔にされながらも眺めた。
 自然界ではめったに見られない、鮮やかで透明な赤紫。
 本当に美しい。
 こんなにぱっと変る技を使えるなんて、大人は魔法使いだと幼児たちは思った。

 梅とシソを合わせてまた重しをし、梅雨の雨ふりの間、涼しい階段の下で梅は漬けこまれる。
 つゆ明けの強烈な太陽が夏を告げ、外の世界が光で何もかも白っぽく見えてくると、地面にたっぷり沁み込んだ雨の湿気が完全に乾く。
 土用を迎える頃、梅の土用干しである。

 漬け瓶から取り出した梅とシソを、ゴザと箕に一面に並べる。
 そして三日三晩日干しするのだ。
 夜は家の中に取り込み、玄関の上がり待ちの板の間に広げておく。
 夜に起きた者がつまづかないように、玄関の電気はその間つけっぱなしだ。
 日干しすることで実はねっとりと旨みと緻密さを増し、紫蘇はしんなりとした状態になる。
 母はここで紫蘇を一部とりわけ、カリカリになるまで日干しして細かく揉み砕き、ゴマを混ぜてふりかけを作ってくれた。
 都会に来て、それが「ゆかり」という結構値が張る品物だという事を知った。
 この梅干しづくりは私が小学校低学年になるくらいまで続いたと思う。
 それが無くなったのは織物業界が不況になり、織り子さんのリストラをしなければならなくなり、働きに来る人が減ったせい、必然的に女手が減ったせい。
 そして保健所の低塩啓蒙活動のおかげで、梅干をあまり食べなくなったためだ。
 なにせ山形県は、脳卒中で倒れる人ランキングのトップを、ぶっちぎりで独走する県なのだ。

 ともあれ私がまだ生まれていない、兄が初めての「あんよ」をしたときの写真にも、梅の土曜干しはしっかり映っている。
 一歳三か月くらいの、ぷくぷく可愛い赤子の兄が、よだれかけをしたまま、裸足でとととっと歩いている写真。
 満面の笑顔でカメラを構える父に向かって突進する一枚。
 夏の手作りワンピースを着た祖母が両手を広げて、よたよたと歩いてきた兄を抱きしめようとする瞬間のショットもある。
 土用干しの梅のゴザの前で、歩いて抱き着いてきた兄を抱きしめる若い母。
 そのお腹の中には、まだ自覚はなかったろうが、小さな私の胎芽が根付いていたはずだ。
 幼稚園年長になった兄は、同年の友人たちと土用梅の周りで駆けずり回って遊び、砂利を蹴飛ばして梅に砂ぼこりを思いっきりかけてしまい、両親からきつく叱られる元気な男の子になっていた。
 高血圧を自覚するようになった母は、下漬けした梅を砂糖や蜂蜜で甘く漬けた「梅漬け」を作り、おやつ代わりにお茶うけにと出す様になった。
 今も独身の兄の通勤弁当を毎日作る、80を超えた母は、白いご飯の真ん中に、買ってきた低塩梅干を載せているという。

 レシピ。
 今回は梅ジャムと副産物、木製の家具の艶出しに仕える「梅ふきん」(艶ふきん)です。
 梅ジャムに使うのは、梅干し用に洗う最中に、傷や熟し過ぎなどで撥ねておいた実でした。

 熟して黄色くなった梅、大体500gをざっと洗いざるにとって水切りします。
 産毛の汚れも丁寧に洗います。
 できたら紙タオルにとって水気をふき取ります。
 ほうろう・耐熱ガラスなどの鍋に梅を入れ、ひたひたに被るくらいの水を加え沸騰するまで中火で煮ます。
 沸騰したら砂糖300gくらいを入れて強めの弱火にして10分くらい煮ます。
 ざるにとって(茹で汁はとっておきます)木の匙や杓子でこし種とへたをとります。
 清潔な手を使ってもいいです。
 とにかく実を種からはがして漉しとるべし。 
 漉しとった実を再び鍋に戻し、絶えず杓子でまぜながら弱火で煮詰めます。
 緩めのねっとり状態になってきたら火を止め、ふたと共に煮沸消毒しておいた瓶に入れ冷まして保存します。

(梅ふきん)
 とっておいた梅の茹で汁に、新しいふきんか切ったさらし木綿を漬けて、コトコト煮ます。
 ジャムづくりで取り除いた梅の種を入れて煮詰める人もいるようですが、実家ではそれはやりませんでした。
 充分に煮たら水洗いして干し、仏壇や神棚などの木製のものを拭くのに使っていました。酸の作用で艶が出るのだそうです。
 化学雑巾がなかった時代の知恵でしょうか。
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