第28話 山の向こうに大都会

文字数 3,978文字

 じじちゃが『合格しろ』と言い残した高校に入学した私は、ほどほどにぬるい高校生活を送った。

 兄が行った高校よりも偏差値で20上のぶん勉強は大変だったが、先生方は生徒を(ある程度)信じ、校則もゆるく、過剰な取り締まりもなかった。
取り締まろうにも、先生方も面倒くさがり屋だったのだ。
 生徒ものほほんとしたもので、勉強さえしていれば『悪い事』でない限りあまり関与しないという、てーげーな西置賜の雰囲気にどっぷりつかっていた。
 1920年に開校された、旧制中学時代から長く元男子校の共学高は、部活は盛んだがいじめもほぼなく、変った子はクラスを超越した『変った子たちグループ』を作っていた。
 彼らはいわゆるメジャーラインの生徒達と対立するわけでもなく、体育の授業や修学旅行のグループ分けも揉めない。
 そんな「勉強はそれなりに大変だけどザ・普通」な高校生活を送るはずだった。

 だが、私の高校生活は他の生徒達とは少し違っていた。
 志望先が東京の音大だったからだ。

 5歳から習っていたピアノの先生のように音大の教育音楽科に行き、恩師にのれん分けをさせてもらって実家で音楽教室を開いて、実家から近いところに嫁に行く。
 それは地元で音楽を長く習っている女子生徒の最大公約数的な進路だったし、父と母も望む道筋だった。
 だが私は一年半で挫折した。
 余りに過酷と私が怯えたからだ。

 毎週土曜日、校門を出ると、その足でおにぎりを齧りながら特急バスに乗る。県都山形市まで行き、志望音大の先生に繋がる先生にピアノを習い、夜に帰宅。
 日曜日は今までお習いしていた先生に着いて声楽と音楽理論と楽典その他をみっちり習い、家に帰ると、そこで初めて学校の宿題にかかる。
 当然成績は下がるが、高校の先生達もうるさくは言わない。
 彼らの守備範囲は普通大学、中でも地元や隣県の国公立大学であり、芸術系の大学は最初から守備範囲外。
 お前自身で落第しない程度にやっておけ、という程度の関心しか払わないのだ。
 いや、受ける学校の個性が強すぎるから指導できない、というのが正しい。

 二年生になると、レッスンの本気度は増していった。
 バス通レッスンは運行本数が少ないので週末一回だが、地元の先生の座学と声楽は週に二回となり、夏休み後からはさらに月一回、東京の、志望音大に直接つながる先生のレッスンを受ける事になっていた。
 それらは全て地元の先生が手配してくれた道で、「生徒一人送り込むからよろしく」という契約が出来ていたのではないかと思う。
 レッスン料も高額で、1レッスンに万単位。

 想像以上に大ごとになった受験に、私は恐怖した。
 高二のうちは月に一回の東京レッスンだが、高三になると隔週、音大の受験が迫ると毎週土曜日になるという。
モデルルートは、まず父に迎えに来てもらい、車で高校から赤湯駅へ。
 奥羽本線から福島で東北新幹線に乗り換え、大宮でまた「ホームライナー」なる上野直通電車に乗り換え親戚宅に行き、荷物を置いて先生のレッスンを受け、一泊した翌日曜日の夜中に長井に帰りつくという日々を過ごさなければならないのだ。
(当時まだ東北新幹線は大宮止まりだった)

 かかる労力と、お世話になる人たちへの影響、そして経費。
 家業である織物業は高度経済成長時のような売れ行きはなく、すっかり構造不況業種とされている。
 コツコツと、手作りのものを売り続けていかなければならないのに、私の音大のためにこんなに膨大なお金を使っていいのか。
 そして音大に入った後も個人レッスン料、教授の演奏会に行く費用、防音室の使用料とお金は湯水のごとく消えて行く。
 この家は兄の家でもあるのに、私に使いすぎて破綻してしまうのではないか。

『みんな、この辺の人たちはやってることだ。小夜子姉ちゃんも、清水町の郁子ちゃんも、そうだ』

 確かに周囲には音大に行った子が多いし、年上の従姉もそうだ。
 だからうちでも、それと同様にお金と手間を出してやるのが筋だ。
 教育熱心な両親はそう言って、恐るべきことに金額は気にしていなかった。
 そのくらいは覚悟して貯めているから、というのだ。

 この時期、私は何を食べても味を感じなかった。
 授業中も心がうつろになり言葉が耳に残らなかったし、音大入試は実技重視だから正直授業や学科はどうでもいいと、多少捨て鉢になっていた。
 母が持たせてくれる弁当も、食が進まず大半を残した。それでも痩せる事はなかったが。

 高二の夏休みの間、私は不出来な脳みそで考えに考え、結論を出した。
 どう見ても費やした経費をペイできない音大志望は辞める。そして普通大学の普通の学部、まだしも就職口があり、つぶしの効く学部に志望を変える。
 こう決めた後は早かった。

 両親には台所事情の推測を含めて正直に言った。
二人共初めは強硬に反対した。
娘が家の財政面に不安になり、志望を変えるというのが情けなく、そんなに貧乏に見られていたのかとプライドを傷つけられたからだ。
 音楽を続けても、どうしても食べていけると思えない、という点についても

『周りの教室を開いている日の親たちもガッツリ援助しているので、自分達もそのつもりだった』

と反論してきたが、最終的には私の意を汲み、進路変更を認めてくれた。
 音楽も文学も両方好きだった自分には進路変更しても支障はなかった。
 まず地元の先生とバスで通っていた先生に

「一身上の都合で進路を変えたから」

と、音大断念を伝えた。
 お二人共、自分たちの指導のどこが悪かったのかと電話口で泣いておられたが、そういう事ではないのだ。
 ともあれ進学校と言われる高校で、高二の夏の進路変更はどう見ても手遅れ。
 私は二学期から在京私立四年制の文学部を目指すことになり、高校の進路指導部を大いに悩ませた。

 結局、高校を卒業した私は、神道学科を有しキャンバス内に神社のある大学に通う事になった。
 進路決定については大学の予備知識が殆どなかったので、何人かいる進路指導の先生の中で一番仲のいい、唯一東京の大学(東京教育大)を出ている先生に相談し、今現在の偏差値で可能性のある大学を6校提示してもらった。
 そこを片っ端から受けたのである。
 当時、地方入試をしている大学もあったから、そう何回も上京せずに済んだのが幸いだった。
そうして引っかかったのが、朝から白い着物に袴の学生がキャンバスを箒で履いているという、あまり他所にない光景の観られる大学だった。
 
 初めて東京に送り出す娘を心配した両親は、どんなルートを使ってか、県の外郭団体が経営する女子寮に私を入れた。
 文京区本郷、東大正門前にある戦前からの古式然とした建物。日本家屋なのでプライバシーなど無きに等しい。
 だが住み込みで寮母と食事の支度と掃除をしてくれるおばちゃんがいて、しっかりと門限があり、平日は一日二食、朝と夜のご飯が出る。
 そんな親が安心する、しかも格安の施設だったので、当然面接試験は狭き門。
 山形県全土から女子大生が集った。
 女の園、というものは現実ロマンもへったくれもないもので、男性諸氏の夢を打ち砕くのに十分な生態なのだが、ここでは詳しくは書かない。

 さて、東京に来て最初に困ったことは、ずばり『水が合わない』事だった。
 生まれ育った長井市は山形県の中でも最上川の源流に近く、ダムからの水や湧水がすぐに市の水道水に使われるという、大変水環境に恵まれた土地だった。
 市内各所から湧き出る泉の水も、当時は子供たちが遊びながらおいしく飲める、歯にしみるほど冷たいものだった。
 ほのかな香りと甘みがあり、すうっと口の中からのどを潤していく。
 それが当たり前の味だと思っていたので、本郷の寮の蛇口から出る水は衝撃だった。
 何故塩素臭いのだろう。プールの水でもこんなに匂わなかったのに。
 なぜぬるいのだろう。
 なぜ美味しくないんだろう。
 私だけでなく、寮生の大半が水道水が飲めず、お茶や麦茶を飲んでいた。

 さらに、よほど体に合わないのか、新入生はほぼ全員肌荒れし、髪もバサバサになった。
 慌ててバイト代を高い基礎化粧品に注ぎ込み、肌荒れに加えてニキビも出来て泣いている子もいた。
 時代はバブルだったので、メイクも濃い目で、白くこってりとしたファンデーションに赤い口紅、くっきりと太めの眉というパターンか、肌を焼き長い髪を軽く巻き、ラメ入りのピンクのリップに同じくラメの効いたブルーのアイシャドウが流行っていた。
 JJかアンアンかの両極端の顔が寮には溢れ、そこに、どちらにも乗りきれない、いわゆる『戦線離脱組』の私たちが、すっぴんでうろうろしていた。

 水は大事。あそこは水が合わない、と感じることは、恐らく体の中からの警告なのだろう。

 レシピ 置賜小茄子の一夜漬けと水漬けご飯

 山形県は広く各地方ごとに名物野菜がありますが、置賜地方の夏野菜と言ったら真ん丸い小茄子。
 戦後に南陽市から置賜地方広まった品種だそうで、皮が薄く瑞々しいので古漬けというより一夜漬けにしてお茶うけにいただいたりします。
 実家ではこの小茄子漬を冷やご飯の上に乗せ、冷水と氷を載せてお茶漬けのように食べていました。
 日中暑さが厳しい盆地の生活の知恵かも。

 薄皮丸茄子150gくらいを洗い、布巾で水気を拭きとって乾かしておく。棘に注意。
 水250CCに塩25グラムから30グラム、砂糖40グラム、ミョウバン小匙1を混ぜ、一煮立ちさせてよく冷ましておく。
 密封袋に小茄子を詰め、すっかり冷めた漬け汁を注ぎ、空気を追い出してしっかり閉じる。
 数時間涼しいところに置き、食べる前に冷蔵庫でキンキンに冷やす。
 茶わんによそった冷やご飯に漬かった茄子を2個ほど載せ、氷水を注いでかじりながら食べるのは置賜の夏のポピュラーな昼のご飯。
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