第10話 運動会と栗ご飯
文字数 4,149文字
昭和40年代の山形県長井市は高度経済成長期。
市内には全国的に有名なメーカーの工場が建ち、働く若者人口も多かった。
社宅や県営・市営住宅が建ち並び、もちろん保育園、幼稚園も何軒もあった。
小さな市ながら中央地区だけで市立の保育園が3つ、私立の幼稚園が4つ、知的障碍児のための施設が1つ。
いまだに全国有数の共稼ぎ率、爺婆による養育率を誇る山形県、特に我が市は同居率も高かったと思う。
どの友だちの家に遊びに行っても、腰の曲がった爺ちゃんや婆ちゃんがいて、テレビの前の特等席は年寄りのための席だった。
お嫁さんが仕事から帰ってくるまでの家事、買い物、子供のお迎え、洗濯物の取り込み、孫たちの相手などは爺ちゃん婆ちゃんの仕事、と言う雰囲気が支配的だった。
合理的なようだが、母や周囲の働くお母さんたちを見ていると、それはそれで大変気づまりだったように感じる。
お互い負の感情、泣きたいことや爆発したい気持ちを押さえ、女たちの気持ちなど想像もしない男衆や子供、孫の手前ぐっと気持ちをこらえて、仲の良い嫁姑を演じている家も多かったと、今思い出す。
市内の幼稚園は大抵お弁当だったが、私と兄の通う園は週の半分は給食。
小学校に入ってみんなと同じものを食べるのに抵抗がないように、という方針らしい。
あとは共稼ぎで慌ただしい朝にお弁当を用意しなければならない母親への配慮だ。
我が家は地味弁で、可愛い果物の飾り切りや型抜きしたハム、ゴマや海苔で目鼻を付けたウズラの卵やウインナーなどは入っていなかった。
ただただ質実剛健、地味な色めの弁当だった。
母が作っていたのだが、弁当箱の蓋をとった時の色と入っているものの傾向は、おばあちゃん製の弁当を持ってくる児と同じだった。
煮物、焼き魚、海苔、野菜の煮つけ。たまにご飯にでんぶが掛かっていると、その鮮やかな桃色で弁当の卓がぐっと華やかになった。
だが、秋の運動会はそうはいかない。
人口の少ない出身市だが、学校や自治体で行われる行事は多く、また盛大だった。
特に、2000人近い児童がいた小学校の運動会は毎年盛り上がり、子供が既に卒業した住民、近所にあった市役所も警察も商工会議所も青年会も手伝って、市民運動会並みの規模になっていた。
勿論それとは別に、市内の各町や地区、村落対抗の「市民運動会」は開催され、町内愛爆裂で盛り上がるのだが。
運動会の朝は市役所で打ち上げられる「花火」というか「のろし」で始まる。
朝の六時に「ドーン」と市内の空に轟く爆音というか砲声。
おそらく戦前の正午を告げる「号砲」もこんな音だったのだろう。
その砲声があると「運動会は無事時間通り開催されます」という知らせなのである。
なにしろ通学範囲が広く、最上川の対岸、山のふもと、山脈を一つ越えた集落、色んな地域に時差なく漏れなく情報を行き渡らせなければならない。
電話連絡網など存在しなかった。隣接の市にも轟く花火のドンという音が開催の知らせだった。
私は花火の打ちあがる瞬間を見たことはないが、二階に寝室がある父は、朝の澄んだ青空に白い煙と共に上がる様子を見たことがあるそうだ。
私と兄は、母に「お前達、花火なったぞ。運動会あるぞ」と起こされ、お弁当と水筒をとおやつを背負って出かけるのだ。
幼稚園や小学校の運動会は、グラウンドを二分して赤白それぞれの陣地を作り、ビニールシートを敷き詰め、その上に教室から持ち出して椅子を並べる。
クラスの中で別れることがないように一組は赤、二組は白、というように決められていたと思う。
お昼時のアナウンスが流れると子供達は席を離れ、陣地の後ろまで迎えに来た親たちと合流し、グラウンドの周りにシートを敷いてそれぞれ家族単位でお昼を食べる。
子供が持ってくることもあれば、親や爺ちゃん婆ちゃんが作りたてを持ってきてくれることもある。
家庭によってまちまちだ。
商売をしていたり、様々な理由で休めない親を持つ子供は、親戚の家族や仲の良い友達の家族のシートに入れてもらい、持参した弁当を食べる。
大抵の子供の弁当には、定番の鶏のから揚げ、ソーセージ、そしておにぎりが入っていた。
唐揚げは大抵骨なしで小ぶり。
竜田揚げとの違いは明確ではない。
たまに、チューリップという、骨付きで肉を端に寄せてまとめた手羽の揚げたのを持ってくる子もいた。
ソーセージは当時主流だった赤ウインナー。
いつもならただ炒めただけのウインナーが弁当箱に入っているが、こうした行事の時は気合を入れて切りこみを入れて、タコさんウインナーにしてくれる。
かまぼこや笹かま、竹輪とキュウリの串刺し。
サラダ感覚のキュウリの浅漬けは、疲れた体と砂と埃だらけの口の渇きを癒してくれた。
おにぎりは大抵丸い形。三角はほとんど見なかった。
家でおやつに作ってくれるのは、小さな俵型に具無しで握って味付けのりを巻くという関西型の時もあったが、秋の行事のおにぎりは大抵炊き込みご飯のおにぎりだ。
中でも、小ぶりな山栗を使った栗ご飯は多かった。
キノコやニンジン、油揚げ、戻した乾物のぜんまいを煮しめて炊きこんだ、五目炊き込みご飯も人気だったが、足が早く腐りやすいという事で、人気は断然栗ご飯だった。
当地の山で採れた小ぶりの栗は渋皮が多く固いが、母親たちは、忙しい身ながら夜遅くまでかかって栗の皮と渋皮をむき、朝早く起きておにぎり弁当を作ってくれた。
砂糖で味付けした甘い卵焼き、唐揚げ、ウインナー、野菜料理。
まだ現在のようにレタスやプチトマトが幅広く出回っていない時代だった。
水分の出ない野菜料理と言ったら、固く絞ったほうれん草を海苔で巻いたものかキャベツのおかかまぶし、ニンジンの甘煮。ピーマンの素揚げ。
そんなレパートリーだった気がする。
もち米を混ぜ、むっちりした触感のおにぎりは食べごたえがあり、栗も小ぶりでほくほくして甘く「いつもと違う」晴れの日感を出してくれた。
家族と一つのシートに座り広げるお弁当は、親たちとのおしゃべりのうち、あっという間に時間が過ぎる。
いつもは、嫌いなものも食べなさいと勧めてくる親との食事だが、行事のお弁当は好きなもの満載だし、食も進む。
中には午後のメイン、騎馬戦やリレーの選手のように、緊張と調子維持のためあまり食べない子もいるが、ドン足な私は全員参加の徒競走を終えると、ひたすら席で応援なので気楽なものだ。
そして嬉しいのがこの時期の行事のお弁当につきものの「和梨」である。
山形県というとラ・フランスをはじめとした洋梨が有名だが、あれは減反政策で果樹栽培が奨励されていた品種だったように思う。
少なくとも昭和40年代前半にはあまり出回っていなかった。
メインは何といっても20世紀という和梨である。
幸水や豊水といった現在の種類と違い、皮が薄くその色も淡く、クリーム色の梨は水分をたっぷり含み、気温で生ぬるくなっていても、口に含んだだけで薄甘い果汁が口の渇きを満たし、埃っぽいグランドの風でイガイガした喉を潤してくれた。
この時期、ぶどうも早生のリンゴも出回っているのだが、やはり一番人気は梨だ。
梨かリンゴと言えば、必ず梨に手を伸ばす。
そんな梨大好きな私と兄は、梨ばかり食べていないでおかずを食べなさい、と叱られるほどに食べた。
6つ割にして皮をむいてくれた梨は、大きなタッパーに詰められ、指で食べる。
一応おしぼりで手を拭くが、なにせ屋外で食べているのだからすぐ汚れる。
それでもかまわず、鶏のチューリップ唐揚げの骨を手でつまんで食べ、おにぎりを手にして食べ、梨をわしづかみにして齧る。
そんな、ある意味衛生に無頓着な家族だった。
張り切りすぎて、帰宅後夕飯時に高熱を出してぐったりしたり、転んで膝を盛大にすりむいたり、こっそり近所の駄菓子屋にアイスを買いに行こうとして、先生に見つかって叱られたり。
そんな運動会シーズンが終わると、東北の秋は慌ただしく収穫の時期を迎え、そしてすぐに冬支度になるのだ。
レシピ。
栗ご飯。山形の郷土料理でも何でもない全国的な秋の味覚ですが、やはりこれ。そして冷めても美味しい山形のソウルフードの一つ「玉こん」も。
「栗ご飯」
栗150gくらい(ネットに入れて売られているので適当に)の皮をむき、水から茹でる。沸騰したら3分くらい火を止めすっかり冷めるまで置いておき、冷めたら小刀で渋皮を丁寧に剥く。
お湯につけておくと剥きやすい。
剥いた栗は粒の小さな山栗だったらそのまま、大きいものなら2つか3つに切る。
しばらく(炊く寸前まで)水につけておく。
4人前で大体米2合をとぎ、炊飯器に入れ分量の水につけておく。
半分をもち米に替えるとよりおいしいが、好き好きで。
その際は柔らかめに炊けるので、米をひたす水量を若干控える。
醤油大匙一杯半(色と香り付け程度)と水気を切った栗を、スイッチを入れる寸前に入れ、普通に炊く。
蒸らしまで終わったら、栗をつぶさぬよう切るようにまぜ、水分を飛ばしておく。
おにぎりにする場合は、熱々のうちに握って塩を振り海苔で巻き、十分に冷ましてから詰める。
「玉こんの煮つけ」
山形では串に刺して食べる用に、一年中大ぶりな丸い玉こんにゃくのパックが売られている。
玉こんをパックからざるに出して水気を切り、そのまま鍋に入れる。
油も水分も入れず、木じゃくしで混ぜたり鍋を回しながら、中火でまんべんなく表面を煎り付け、水分を飛ばす。
裂いたするめ、もしくは鋏で切ったするめのげそを好きなだけと、醤油大匙5~を入れ、中火のまま煎り付ける。
醤油がこんにゃくに吸収されたらいったん火を止め冷ます。
これで味が中までしみる。
そのままでも、もう一度温めて熱々でも美味しい。
辛子を添え、割りばしに5個くらいずつ刺して食べるのが正式。
するめも一緒に食べる。
するめがしょっぱすぎるときは細かく切り、同じく千切りにし油抜きした油揚げと合わせて炊き込みご飯にするといい。
玉こんは一年中食べられるが基本的には夏の料理。熱々の玉こんはプールや海水浴、冷房で冷えた体を内側から暖めてくれる。
市内には全国的に有名なメーカーの工場が建ち、働く若者人口も多かった。
社宅や県営・市営住宅が建ち並び、もちろん保育園、幼稚園も何軒もあった。
小さな市ながら中央地区だけで市立の保育園が3つ、私立の幼稚園が4つ、知的障碍児のための施設が1つ。
いまだに全国有数の共稼ぎ率、爺婆による養育率を誇る山形県、特に我が市は同居率も高かったと思う。
どの友だちの家に遊びに行っても、腰の曲がった爺ちゃんや婆ちゃんがいて、テレビの前の特等席は年寄りのための席だった。
お嫁さんが仕事から帰ってくるまでの家事、買い物、子供のお迎え、洗濯物の取り込み、孫たちの相手などは爺ちゃん婆ちゃんの仕事、と言う雰囲気が支配的だった。
合理的なようだが、母や周囲の働くお母さんたちを見ていると、それはそれで大変気づまりだったように感じる。
お互い負の感情、泣きたいことや爆発したい気持ちを押さえ、女たちの気持ちなど想像もしない男衆や子供、孫の手前ぐっと気持ちをこらえて、仲の良い嫁姑を演じている家も多かったと、今思い出す。
市内の幼稚園は大抵お弁当だったが、私と兄の通う園は週の半分は給食。
小学校に入ってみんなと同じものを食べるのに抵抗がないように、という方針らしい。
あとは共稼ぎで慌ただしい朝にお弁当を用意しなければならない母親への配慮だ。
我が家は地味弁で、可愛い果物の飾り切りや型抜きしたハム、ゴマや海苔で目鼻を付けたウズラの卵やウインナーなどは入っていなかった。
ただただ質実剛健、地味な色めの弁当だった。
母が作っていたのだが、弁当箱の蓋をとった時の色と入っているものの傾向は、おばあちゃん製の弁当を持ってくる児と同じだった。
煮物、焼き魚、海苔、野菜の煮つけ。たまにご飯にでんぶが掛かっていると、その鮮やかな桃色で弁当の卓がぐっと華やかになった。
だが、秋の運動会はそうはいかない。
人口の少ない出身市だが、学校や自治体で行われる行事は多く、また盛大だった。
特に、2000人近い児童がいた小学校の運動会は毎年盛り上がり、子供が既に卒業した住民、近所にあった市役所も警察も商工会議所も青年会も手伝って、市民運動会並みの規模になっていた。
勿論それとは別に、市内の各町や地区、村落対抗の「市民運動会」は開催され、町内愛爆裂で盛り上がるのだが。
運動会の朝は市役所で打ち上げられる「花火」というか「のろし」で始まる。
朝の六時に「ドーン」と市内の空に轟く爆音というか砲声。
おそらく戦前の正午を告げる「号砲」もこんな音だったのだろう。
その砲声があると「運動会は無事時間通り開催されます」という知らせなのである。
なにしろ通学範囲が広く、最上川の対岸、山のふもと、山脈を一つ越えた集落、色んな地域に時差なく漏れなく情報を行き渡らせなければならない。
電話連絡網など存在しなかった。隣接の市にも轟く花火のドンという音が開催の知らせだった。
私は花火の打ちあがる瞬間を見たことはないが、二階に寝室がある父は、朝の澄んだ青空に白い煙と共に上がる様子を見たことがあるそうだ。
私と兄は、母に「お前達、花火なったぞ。運動会あるぞ」と起こされ、お弁当と水筒をとおやつを背負って出かけるのだ。
幼稚園や小学校の運動会は、グラウンドを二分して赤白それぞれの陣地を作り、ビニールシートを敷き詰め、その上に教室から持ち出して椅子を並べる。
クラスの中で別れることがないように一組は赤、二組は白、というように決められていたと思う。
お昼時のアナウンスが流れると子供達は席を離れ、陣地の後ろまで迎えに来た親たちと合流し、グラウンドの周りにシートを敷いてそれぞれ家族単位でお昼を食べる。
子供が持ってくることもあれば、親や爺ちゃん婆ちゃんが作りたてを持ってきてくれることもある。
家庭によってまちまちだ。
商売をしていたり、様々な理由で休めない親を持つ子供は、親戚の家族や仲の良い友達の家族のシートに入れてもらい、持参した弁当を食べる。
大抵の子供の弁当には、定番の鶏のから揚げ、ソーセージ、そしておにぎりが入っていた。
唐揚げは大抵骨なしで小ぶり。
竜田揚げとの違いは明確ではない。
たまに、チューリップという、骨付きで肉を端に寄せてまとめた手羽の揚げたのを持ってくる子もいた。
ソーセージは当時主流だった赤ウインナー。
いつもならただ炒めただけのウインナーが弁当箱に入っているが、こうした行事の時は気合を入れて切りこみを入れて、タコさんウインナーにしてくれる。
かまぼこや笹かま、竹輪とキュウリの串刺し。
サラダ感覚のキュウリの浅漬けは、疲れた体と砂と埃だらけの口の渇きを癒してくれた。
おにぎりは大抵丸い形。三角はほとんど見なかった。
家でおやつに作ってくれるのは、小さな俵型に具無しで握って味付けのりを巻くという関西型の時もあったが、秋の行事のおにぎりは大抵炊き込みご飯のおにぎりだ。
中でも、小ぶりな山栗を使った栗ご飯は多かった。
キノコやニンジン、油揚げ、戻した乾物のぜんまいを煮しめて炊きこんだ、五目炊き込みご飯も人気だったが、足が早く腐りやすいという事で、人気は断然栗ご飯だった。
当地の山で採れた小ぶりの栗は渋皮が多く固いが、母親たちは、忙しい身ながら夜遅くまでかかって栗の皮と渋皮をむき、朝早く起きておにぎり弁当を作ってくれた。
砂糖で味付けした甘い卵焼き、唐揚げ、ウインナー、野菜料理。
まだ現在のようにレタスやプチトマトが幅広く出回っていない時代だった。
水分の出ない野菜料理と言ったら、固く絞ったほうれん草を海苔で巻いたものかキャベツのおかかまぶし、ニンジンの甘煮。ピーマンの素揚げ。
そんなレパートリーだった気がする。
もち米を混ぜ、むっちりした触感のおにぎりは食べごたえがあり、栗も小ぶりでほくほくして甘く「いつもと違う」晴れの日感を出してくれた。
家族と一つのシートに座り広げるお弁当は、親たちとのおしゃべりのうち、あっという間に時間が過ぎる。
いつもは、嫌いなものも食べなさいと勧めてくる親との食事だが、行事のお弁当は好きなもの満載だし、食も進む。
中には午後のメイン、騎馬戦やリレーの選手のように、緊張と調子維持のためあまり食べない子もいるが、ドン足な私は全員参加の徒競走を終えると、ひたすら席で応援なので気楽なものだ。
そして嬉しいのがこの時期の行事のお弁当につきものの「和梨」である。
山形県というとラ・フランスをはじめとした洋梨が有名だが、あれは減反政策で果樹栽培が奨励されていた品種だったように思う。
少なくとも昭和40年代前半にはあまり出回っていなかった。
メインは何といっても20世紀という和梨である。
幸水や豊水といった現在の種類と違い、皮が薄くその色も淡く、クリーム色の梨は水分をたっぷり含み、気温で生ぬるくなっていても、口に含んだだけで薄甘い果汁が口の渇きを満たし、埃っぽいグランドの風でイガイガした喉を潤してくれた。
この時期、ぶどうも早生のリンゴも出回っているのだが、やはり一番人気は梨だ。
梨かリンゴと言えば、必ず梨に手を伸ばす。
そんな梨大好きな私と兄は、梨ばかり食べていないでおかずを食べなさい、と叱られるほどに食べた。
6つ割にして皮をむいてくれた梨は、大きなタッパーに詰められ、指で食べる。
一応おしぼりで手を拭くが、なにせ屋外で食べているのだからすぐ汚れる。
それでもかまわず、鶏のチューリップ唐揚げの骨を手でつまんで食べ、おにぎりを手にして食べ、梨をわしづかみにして齧る。
そんな、ある意味衛生に無頓着な家族だった。
張り切りすぎて、帰宅後夕飯時に高熱を出してぐったりしたり、転んで膝を盛大にすりむいたり、こっそり近所の駄菓子屋にアイスを買いに行こうとして、先生に見つかって叱られたり。
そんな運動会シーズンが終わると、東北の秋は慌ただしく収穫の時期を迎え、そしてすぐに冬支度になるのだ。
レシピ。
栗ご飯。山形の郷土料理でも何でもない全国的な秋の味覚ですが、やはりこれ。そして冷めても美味しい山形のソウルフードの一つ「玉こん」も。
「栗ご飯」
栗150gくらい(ネットに入れて売られているので適当に)の皮をむき、水から茹でる。沸騰したら3分くらい火を止めすっかり冷めるまで置いておき、冷めたら小刀で渋皮を丁寧に剥く。
お湯につけておくと剥きやすい。
剥いた栗は粒の小さな山栗だったらそのまま、大きいものなら2つか3つに切る。
しばらく(炊く寸前まで)水につけておく。
4人前で大体米2合をとぎ、炊飯器に入れ分量の水につけておく。
半分をもち米に替えるとよりおいしいが、好き好きで。
その際は柔らかめに炊けるので、米をひたす水量を若干控える。
醤油大匙一杯半(色と香り付け程度)と水気を切った栗を、スイッチを入れる寸前に入れ、普通に炊く。
蒸らしまで終わったら、栗をつぶさぬよう切るようにまぜ、水分を飛ばしておく。
おにぎりにする場合は、熱々のうちに握って塩を振り海苔で巻き、十分に冷ましてから詰める。
「玉こんの煮つけ」
山形では串に刺して食べる用に、一年中大ぶりな丸い玉こんにゃくのパックが売られている。
玉こんをパックからざるに出して水気を切り、そのまま鍋に入れる。
油も水分も入れず、木じゃくしで混ぜたり鍋を回しながら、中火でまんべんなく表面を煎り付け、水分を飛ばす。
裂いたするめ、もしくは鋏で切ったするめのげそを好きなだけと、醤油大匙5~を入れ、中火のまま煎り付ける。
醤油がこんにゃくに吸収されたらいったん火を止め冷ます。
これで味が中までしみる。
そのままでも、もう一度温めて熱々でも美味しい。
辛子を添え、割りばしに5個くらいずつ刺して食べるのが正式。
するめも一緒に食べる。
するめがしょっぱすぎるときは細かく切り、同じく千切りにし油抜きした油揚げと合わせて炊き込みご飯にするといい。
玉こんは一年中食べられるが基本的には夏の料理。熱々の玉こんはプールや海水浴、冷房で冷えた体を内側から暖めてくれる。