第二話 春風が揺らす花
文字数 3,086文字
感情が無秩序に暴走する。思考が理性の制御を拒絶する。感情に任せてカツミにぶつけた呪詛を思い出し、シドはこれまで幾千幾万と繰り返してきた自己嫌悪をまた一つ重ねた。
自我崩壊の理由は分かっていた。一つは父親の死。もう一つはジェイの真意を知ったこと。
「貴方が本音を隠す時の言い方は、十分承知だよ」
なにもない部屋でシドが呟く。
ああ、入隊した日と同じだ。ガランとした空の箱。私の心もずっと虚ろだった。その空洞を全て満たしてくれたのはジェイだ。
こうして床に座り込んでいると、微かな空調の音ですらジェイの足音に聞こえてくる。もういないという事実をいつまでも認められず、医務室のドアを幾度振り返ったか分からない。
ジェイを思い出させるものは身辺に溢れていた。それらに触れるたびに、神経をすり減らし、ひどく気落ちし、事実を認められない己の弱さを思い知らされた。まるで、見えない責め具で拷問されているかのよう。
──もう頼むとは言わないよ。カツミが自分を受け入れることができるのなら。
手紙の追伸の文章が、あの日から何度も脳裏を過った。誤読していると言われても仕方ない。しかし、もう限界だ。ジェイの最後の言葉が呪縛となり続けることに耐えられない。単なるお願いじゃないかと振り払えない己の弱さを、どうしても克服できそうにない。
シドは思う。誰もが自分の無力に言い訳をしながら生きて行く。それは生涯続く。自分を不甲斐なく思うことも、誇らしく思うことも、長い時間のなかで何度も経験する。そして誰もが未完のままで一生を終える。それが当たり前なのだ。
自分の果たせなかった夢を誰かに押し付けることなど出来ないのに……。
でも、カツミは完璧に応えている。彼はいつかロイを超えるだろう。自分自身とジェイのために。呪縛すら糧として、いつかは能力を受け入れる日も来るのだろう。
しかし、私はその日まで待てない。ジェイのいない場所になど、もういっときも留まっていたくない。
「私の望みは、貴方と生きることだったんだよ」
解放された自由なんか、自由じゃないんだ……。
読み取られることを知っていながら残された手紙。
それはジェイの償いだったのかもしれない。優しさだったのかもしれない。そして狡さだったのかもしれない。
「貴方が残したものを試すよ。卑怯は承知の上で」
待てなければ促すしかないのだ。カツミが能力を受け入れることを。自分のためだけに。一番残酷な方法で。
◇
「なぜだろうって、思ってたんですよ」
別邸の玄関に続く石の階段に座り、二人は丘の向こうの鮮やかな海を眺めていた。
「なにが?」
「俺は二十日になったとたんに、ドクターが動くと思ってた。だから騙されたんですけど」
「結論を出せなかったんだ。だからドクターと話がしたかった。できると思ってた」
辛さを滲ませたカツミの返事に、ルシファーは黙り込むしかなかった。
前庭の大きな庭木には、白い花がいっぱいに咲き誇っていた。小鳥のような花々が、今にも飛び立ちそうに羽根を広げている。本邸の前庭にも同じ木が植えられていたのを、カツミは思い出していた。
既に春の気配をたたえた風が、優しく花を揺らす。まるで、そこから飛び立つのを促すように。
「なんか、資格を問われてるみたいだ」
カツミの呟きに、ルシファーが首をかしげた。
「資格?」
「ジェイを奪えるほどの資格があったのかって」
「俺にはただの八つ当たりにしか見えませんよ。あの人は貴方の罪悪感を利用して、自分の目的を達成したいだけですよ」
「目的?」
「自分の醜聞もひっくるめて消えたいだけですよ。他人に非難されたことなんて、今までなかったでしょうし」
「そんな意地悪な見かたもあるんだな」
「貴方の考え方が、歯がゆいだけです」
爽やかな風が海面を撫で上げてから森を洗う。春の柔らかい光に照らされ、カツミの髪が煌めいていた。
春風が揺らす花。満たされる甘美な香り。それを見つめる色の違う瞳。
「ジェイは、俺の後ろ盾なんだ」
唐突にこぼされたカツミの言葉。瞬きをしたルシファーが、その横顔を見つめた。カツミの双眸は、白い花に向けられたままだ。
「後ろから来る矢からいつも守ってくれる。でもジェイがいることで、俺は一歩も後に引けない。前に進むしかないんだ。前から来る矢には、自分で立ち向かわないといけない」
「そう……ですね」
ルシファーは、カツミの言葉のなかに強い決意を見出していた。これまで感じたことのなかった毅然とした決意を。
前に進むしかない。自分で立ち向かわないといけない。決断も行動も、最後には一人で決めるのだ。自分の人生なのだから。
他人と寄り添うことは出来る。しかし、寄りかかっていては一歩も進めなくなる。
人との関係は立ち並ぶ樹々のようだとルシファーは思う。同じ大地に立ち同じ光と雨を注がれながらも、ひとつひとつの樹は何にも寄りかかることなく、すっくと天を仰いでいる。
カツミの隣で同じ方向を見て歩いて行きたい。そう、ルシファーは思っていた。カツミの中にある誠実で透明な心に惹かれていた。自分の弱さを最後には乗り越えていく、内包された力に惹かれていた。
ルシファーには、子供の時からずっと探しているものがあった。
『人の心の根幹にあるもの。おおもとにあるもの』。
同じ人間なのだ。特殊能力者であろうとなかろうと、その根幹には同じものがあるのだと彼は信じたかった。
卒論に政治や宗教を選んだのも、実家の自室が本の森と化しているのも、それを探すため。
そしてもう彼は気づいていた。どうやらそれは、知識だけで得られるものではないということを。
カツミの美しい髪が春風に煽られていた。今やルシファーの心を掴んで離さない彼は、人生の岐路に立ちながらも凛とした表情を浮かべている。
カツミと同じ方向を見て歩いてゆく。それはもう、ルシファーの願いではなく決意に変わっていた。
同じ到達点を見て隣で歩いて行けるなら、決してぶつかることなどないのに。ルシファーは、カツミとシドの関係に思いを馳せる。
二人は同じ到達点を向かい合わせにして見ているのだ。求めるものは同じでも、そこに立てるのは一人きり。たったの一人きりだった。
「どんな結果でも俺は驚きませんよ。干渉する気もない。そう言っておいて下さい」
どうせこの場所にも盗聴器があるのだろうと思いながら、ルシファーが声を張る。
「アーロンに?」
「ええ。ったく、嫌なやつですよ」
そう言い捨てたルシファーが、立ち上がるなり石段を下りて行く。しかし途中で足を止めると、振り返ってカツミに告げた。
「貴方には呆れるけど、信じられますよ。俺はね」
ルシファーの言葉は、カツミがどうしても欲しかった支えとなるものだった。
信頼──。そこから最も遠い所から始まった二人の関係だったというのに、まるで季節の変化に添うように、温かな想いがカツミを包む。
一瞬目を伏せたカツミはルシファーの背を見つめた。ルシファーはもう振り返らない。丘と森を揺らして強い風が吹き上げ、二人の間を行き過ぎた。
「なーんか食べに行きませんかぁ? せっかく遠出して来たんだしー」
ルシファーは車の前でようやく振り返った。提案に頷いて、カツミがゆっくりと立ち上がる。
ルシファーの想いも言葉も、カツミには温かく感じられた。春の陽だまりのように。柔らかな春風のように。
「うん。行く」
海面を撫で上げた強い風が、再び森を洗いながら吹き上げて来た。その風に促された白い花びらが、枝を蹴って空高く飛び立っていった。