第二話 行けば分かりますよ
文字数 2,927文字
「どうかした? 具合でも悪いのか?」
「ううん」
セアラには見覚えのない顔だった。
作り笑いをして首を振ったセアラを見た青年は、二人分の珈琲を取って戻って来た。一つをセアラの前に置き、向かいの席に座る。
「俺、ライアン・クレイスン。北区の基地から移ったばかりなんだ」
「セアラ・ラディアンよ。ありがとう」
セアラが、人懐こい笑みを浮かべているライアンをうかがう。他の基地からの配置換えなら、かなりの実力者なのだろう。軍人らしい鍛え上げた身体つき。短めの黒髪に黒い瞳。セアラの視線に気付かず、ライアンが自分自身のことを話し始めた。
「昨日の事故処理に行ったんだけどね。さっきまで報告書を仕上げてたんだ」
胸につけられたIDプレートには大尉とある。年齢は四つ上……か。プレートに向けられたセアラの視線にようやく気付いたライアンが、笑みを絶やさないまま説明を足した。
「あ。俺、親父の代からの移民でね。士官学校出てないから昇進は遅いんだ」
百年前の移民完了後も、この星は母星からの亡命を移民という形で受け入れ続けている。長い戦争の間も、その方針は変わっていない。
移民は、母星のスパイでないことが確認できるまで政府の管理下に置かれる。さらに自由を保障された後も差別され、どんなに優秀であっても重要ポストに就ける者はごくわずか。それにもかかわらず、細々とではあっても移民は絶えない。
それは、全土が砂漠である母星と豊かなこの星との力関係を如実に示していた。
新しい移民で、しかも士官学校出ではないのに特区に配属されるというのは、非常に特異なケースなのだ。
「すごいのね」
セアラの称賛に、ライアンが慌てて手を振った。
「まっさか。特区じゃ新人だよ。特例も特例さ。いつまでいられるか分からないけど、チャンスだしね。今のうちに実績つもうと思って」
士官学校出のトップクラスしか入れない場所。確かに特区はそういう場所なのだ。
「君も今まで仕事だったの?」
「ううん」
不思議そうな顔をしたが、ライアンは深追いしなかった。代わりにちょっと苦笑いを浮かべてカップを空にする。
ライアンのしぐさを見て、セアラは自分の父親を思い浮かべていた。たった一人の肉親。しかし限りなく愛情を注いでくれる一番安らげる相手。
そんな愛情を私はカツミに注ぎたかった。でも私は、彼のなにを知っていたというのだろう。
あんな事実を聞いてしまった後で、なんと言えばいいのだろう。どう接すればいいのだろう。カツミに対する想いは、ずっと変わっていないのに。
「失恋でもした?」
不意に訊ねたライアンに、目を伏せたセアラがぽつりと答えた。
「近いかも」
「君をふるなんて、よっぽどな奴だなぁ」
「その手には乗らないわよ」
すかさずセアラが予防線を張る。その様子を見て、ライアンが吹き出した。
「ははっ。まいったな。で、今日は?」
「家に帰ろうかな」
そうだねと、ライアンが頷いた。セアラが席を立って微笑みを向ける。軽く手を挙げてそれに応えたライアンは、セアラの後ろ姿が見えなくなるまで見送っていた。
◇
カツミが特区のゲートを抜け、南部に向かったのは、朝の10ミリアを過ぎた時刻だった。
雪は止んでいるが風は冷たい。運転モードを自動走行に切り替えたカツミは、座席にもたれかかる。洗いたてのシャツから爽やかな洗剤の香りがしていた。
なんで俺がとぼやきながら朝食まで作ってくれたルシファーを思い出し、カツミがくすりと笑う。
甘えないと自分を保てない悔しさよりも、甘えさせてくれた心地良さのほうが上回っていた。受け入れてくれることに疑問を持つよりも、それを素直に喜べる自分が好きだった。
ありのままの自分を隠すことなく、なにも纏うことなく曝け出すのは、こんなに楽なことだったのか。ジェイの前でしか出せないと思っていた。ジェイだけだと思っていた。
ひとつひとつ、ジェイの言葉の意味がパズルのように組み合わされて見えてくる。あのとき分からなかったことも今なら少しは分かる。自分を好きになれ。その言葉の意味も。自分を信じること。その言葉の意味も。
どうしたらいい? 心のなかのジェイにカツミは訊いた。どう言ったら自分は許してもらえるの? それともこれは傲慢? 自分の我が儘?
「教えてよ。ジェイ」
呟きに応えはない。穏やかな陽光が、カツミを照らすだけだった。
◇
自動走行の車がハイウェイに乗った。カツミは変化のない景色をぼんやり眺めながら、今朝のルシファーとの会話を思い出していた。
「貴方がどうなろうと知ったこっちゃありませんけど、アーロンを利用しようなんて思わないほうがいいです。ドクターも、馬鹿なことを考えたものですよ」
伸びた前髪を苛立たし気にかきあげるルシファーを横目に、カツミはトーストをかじる。
「貴方もあいつの心くらい読んだんでしょう? なんの反応もありませんね」
「読む必要なんてないよ。勝手に話してくれた。フィーアのこともね。ルシファーは、それが一番気に食わなかったんだろ?」
「アーロンがフィーアのクローンに失敗した話ですか? やつにとっては周り全てが道具ですからね。利用して、必要なくなれば切り捨てるんです。それも一番残酷な方法で」
嫌そうにトーストの耳を残すカツミに顔を突き付け、ルシファーが念を押した。
「貴方がドクターを正気に戻せなければ、あの人は自滅ですよ。それも面白いかもしれませんけど」
「結局、どうさせたいわけ?」
「高みの見物がしたいだけですよ。願わくは」
「らしいね」
「自分だったらわざわざ行こうなんて思いませんよ。今、ドクターの思念に出くわしたら、引きずり込まれてしまう。貴方なら大丈夫かもしれませんけど」
「どういうこと?」
「行けば分かりますよ」
◇
──行けば分かりますよ。
朝、ルシファーと交わした会話の意味は、別邸のドアを開けたとたんにカツミの知るところとなった。
引きずり込まれる!
身をすくませたカツミの脳裏になだれ込む思念。玄関ホールに立ち尽くしたまま、彼は動けなくなった。
脳も内臓もなだれ込んだ意識に鷲掴みにされ、身体の外に引きずり出されるような感覚に襲われる。
──来ルナ! 誰モ来ルナ!
強烈な拒絶の意識。
──要ラナイ! 誰モ要ラナイ!
それは滝壺に立ち、意識という巨大な質と量をもった激流をまともに顔に受けるのと同じだった。
押し潰される! カツミはその場にうずくまった。
狂気。まさに狂気そのもの。一切のものを拒絶した、秩序のない崩壊した意識。
しかし、次の瞬間それがぴたりと止んだ。恐々瞼を開いたカツミの上に、切って落としたような静寂が覆いかぶさる。
ぴんと張りつめた霧が視界を埋め尽くしていた。起き上がったカツミはその霧をかき分け、耳鳴りのする頭を振ってから廊下の奥に進んだ。シドのいる場所は分かっていた。
寝室のドアを開ける。シドの姿が現れると同時に、刃のような言葉がカツミを襲った。
「帰れ!」
シドの目は泣き腫らしたように赤く、憎悪に満ちていた。