第一話 殺人予告

文字数 4,094文字

 三月の雨は冷たい。身に染みるような冷たさだ。霧のように淡く降ったとしても、身体の奥まで染み透ってくる。青白く視界がぼやけるなかに、黒い服を着た人達がじっと佇む。祈りの声だけが静かに響いてくる。

 ルシファーの視線の先には、喪服を着たカツミの姿があった。唯一人の肉親……自分の行く末を定め、歪め、最後には放棄した肉親。その遺体を見つめるカツミは、今なにを思っているのだろう。

 カツミは顔を毅然と前に向け、時おり傍にいる誰かと短く言葉を交わしていた。吐く息すら白く変わるこの場所に、なぜか彼だけが熱っぽく妖しい独特な気を放っている。涙すら見せずに。

 そして貴方はどうするつもりなのですか。どうしたいのですか。この先、血を分けた人と、それ以上に魂をあずけた人を失った後で。
 ほんの一瞬。見間違いでなければ、カツミがこちらに顔を向けたようだった。しかし、彼の視線はすぐに雨で煙る虚空に紛れる。

 貴方の強さは紛れもなく貴方の中から生まれたものだった。でも孤独の中に抱える強さに、果たして意味などあるのだろうか。人は一人では生きていけないのに。

 誰に問うでもない意識の呟きを残してルシファーはその場を離れた。カツミはまるでその言葉が聞こえたように瞼を閉じる。口元で変わる大気の色が彼の溜息を教えていた。

 ◇

 ──雪の上にただ一つ。血に濡れた赤い宝石。冷たくしかし尊く。失うことなき輝き。傷つきたとえ砕けても。変わりなきその気高さよ。

 雨は雪に変わっていた。カーラジオから流れる曲を聞くともなしに聞いていたカツミは、その旋律を賛美歌のようだと思った。
 交差点。行き交う人々。信号待ちをする間にも雪は緩やかに降ってくる。なにも変わってはいなかった。三か月前と今。人々の生活になんの変化もない。そう思うのは自分だけだろうか。あまりに全てが変わってしまった自分だから、人のことをそう思ってしまうのだろうか。

 思いに沈む間もなく、カツミは十数年ぶりの場所に着いた。本来なら自分の家と言ってもいいはずだが、七歳で幼年学校の寮に入って以降、一度も帰ることのなかった居所だ。父親は週末には戻っていたらしい。

 タワーマンションのアプローチを抜け、エントランスホールに入る。ドアを開けたカツミは、すぐに見知った人を認めた。
「ドクター」
 カツミの声は心なしか震えていた。
「おかえりカツミ。特進おめでとう」
 少しだけ笑ったシドが手を差し出す。
「うん」
 こくりと頷き、カツミがその手を握り返した。
 シドの手はとても冷たい。もうずいぶんと長い時間、待っていたことが分かる。
「ドクターがここまで知ってるなんて思わなかったよ。いつ頃来た?」
「知らないことなんてないよ」
 シドが、笑みで返事を置き換えた。

 いつもと変わらない静かな笑顔。しかし微かな違和感。緊張しているだけ? 胸騒ぎがするのはなぜだろうとカツミは自問自答していた。
 シドの目を見るのが怖い。見つめたとたんに信じたくない予感が本物だと知る気がして。

「昨日、帰ったばかりなんだろう?」
「うん。今日が葬式だったんだ。なにか飲む?」
「じゃあ、お願いしようかな」
 居間の入り口に立ち尽くし部屋の中を見回していたシドは、ゆっくり踏み込んでソファーに腰を落とした。
 すでに部屋の中は暗い。シドがシェードのついたルームライトを点けると、熱に焼かれた埃がチリチリと音をたてた。
「ドクター。ワインしかないよ」
「しかって。オッジのだぞ、これ」
「おいしいの?」
「一流レストランでも飲めるか分からない珍しいやつだ」
「ふーん」
 気のない返事をしてカツミがコルク抜きを差し出した。手際よく栓を抜くシドを見ながら、いつもの調子で持論を展開する。
「難しいこと言われても分かんない。酒なんて酔えればいいんじゃない?」
「消毒用アルコールとすり替えても、お前には分かるまいよ」
 シドの皮肉が、カツミをいつものむくれ顔に変える。
 それを見て小さく笑ったシドが、ワインをグラスに注いだ。血のような赤が、彼の意識を容赦なく過去にさらっていく。

「カツミ」
 しばらくして、シドが重い口を開いた。カツミが振り向くと、いつもは完璧なポーカーフェイスが苦し気に歪んでいる。言い淀むシドより先に、カツミが言葉を紡ぎ出す。いつもの口癖だった。

「ごめんね」
 謝罪を耳にしたシドは口を閉ざした。言うべきことが封印されてしまったのだ。
 シドが聞きたかったのは謝罪や哀れみではなかった。激怒したカツミに責め立てられるのは当然だと思っていた。それに備えて、幾重にも自己弁護の壁を巡らせていたのだ。
 だが。思いもよらぬカツミの謝罪が、膿んで血の流れるシドの心をえぐった。

 空調が効き、室内は暖かくなっていた。しかしシドはコートも脱がず、手のひらにじっとりと汗を滲ませている。今ならやれる。そう思っていた。自分には失うものなど何もないのだからと。

「独りぼっちだね。お互い」
 カツミがぽつりと呟く。シドが思考を読まれたと思うほどのタイミングだった。
「結局は親父に守られてたって。認めたくないけど。そんなの認めたら、自分のやってきたことの意味がなくなってしまうけど」
「カツミ?」
 発言の意味が分からず、シドが訊き返した。
「なにを言ってるんだ?」
 シドの目の前に、一通の辞令が差し出された。
「オッジの駐留艦隊。新組織? どういうことだ?」

 赴任先のみが記された書類では上の意図は推し量れない。現在でもオッジはまだメーニェの手中にあり、その至近で待機している駐留艦隊への増員となれば、メーニェを刺激し、結ばれたばかりの休戦協定が形骸化する。

「分からない。他の連中にはまだ通知がないんだ。検討中かもしれないけど、なんで俺だけ先なのかな」
 カツミの疑問を耳にして、シドが作戦の背景を探る。能力者部隊による行動計画があり、かなり急いでいるように見える。オッジのレーダー基地が復旧する前に、休戦を破棄するのだろうか。

「詳細も分からないうちに受けたのか?」
 シドの皮肉を聞いてカツミが首を傾げた。今回のことがある前はこれ以上にないほど模範的だったのに、組織を批判する発言をするなんて。
「命令だから当然だよ。というか他に方法があるの?」
「ない……だろうね」
 一瞬言い淀んだシドが小声で答えた。
 自分とは違う。カツミは能力者だ。特殊能力者を許容できる組織は限られている。カツミのようなA級能力者は、一般社会への適応が難しいのだ。

「来月の一日に出るんだ。それまでは休暇」
「もう、決まってるのか?」
「うん。あと十日」
「そう言えば、今日が誕生日だったな」
 シドにそう言われて、カツミが逸らしていた視線を戻した。
「おめでとう。二十歳だな」
「うん。でも、よく知ってるね」
「知らないことなんてないよ」
 苦笑を浮かべたカツミに、シドが同じセリフを繰り返した。そして微かに、ほんの微かにガラスのような笑みを滲ませた。

「この部屋。引き払うことにした」
 窓外では大気と戯れるように白い雪が舞っていた。
 カツミが壁のカレンダーに目を向ける。十二月最後の一枚だけを残している、時間の止まった部屋。
 カツミの横顔を見つめていたシドは、相手を遠く感じていた。カツミにとってのあの日々は、もう過去の出来事なのだろうか? そう思うと、なぜか身を切られるように辛くなる。
 未来のことを口にするカツミ。過去に囚われたままの自分。しかしそれはいつものことだった。自分が過去に縛られている間に、カツミは思いもかけない速さで遥か遠くへ走り去る。まるでその背に羽根を持っているかのように。

「さっき、親父のこと言ったよね」
 だが次にカツミが口にしたことは、シドのなかに残る煮え切らない思いと一致した。
「あいつが死んだって知ったとき、すごく悔しかった。見捨てられたって思った。やりたい事をやりたいようにして、俺を置いて逝ってしまったって。あいつのこと嫌いだったけど。でももう少し、必要だって大切だって言ってほしかった」

 カツミの告白を聞きながら、シドは思っていた。
 カツミもまた受け入れてもらえなかったのだ。一番愛情を欲した相手から、一番愛情の欲しかった時期に。
 ジェイは、その代わりになろうとしたのだろうか。いやきっと、それを越えたいと願ったはずだ。
 目を伏せて告白を続けていたカツミの双眸が一転強く輝き、シドの逃げ道を塞いだ。

「聞いていい? 親父。どんな最期だったの?」
 二人の間が重い沈黙で塞がれた。そのなかにシドの殺意が放散されている……カツミはそう感じていた。
 黙り込んでいたシドが口を開く。声のトーンが明らかに変わっていた。狂気の切っ先が鈍く光りながら突き付けられた。

「……死ぬのは、私のはずだったんだ」
 上擦った声が薄暗い部屋の空気を引っ掻く。シドの顔にはありありと憎悪が浮かんでいた。そこにいるのは、もうこれまでの彼ではない。

「ワインに毒を混ぜて。薬さじ一杯ですぐに呼吸中枢がやられる薬をね」
 そう言うと、シドがあの日と同じ赤ワインのグラスを一気に傾ける。ゆらゆらと不安定な心が確実に破綻の側に振れていた。
「ロイは力でそれを阻んだ。そして自分で飲んだんだ。あっという間だったよ。致死量の倍だったからね。私が自由になったのは彼が死んでからだ」
「なんで……」
「勝手に死ねばって言うんだろう? 十年前の仕返しなんだよ。ジェイを奪ったことへの報復なんだ」

 唯一の例外。ロイの言葉がシドの脳裏に浮かぶ。
 例外にすら報復を企てるというのなら、なぜ息子には手を下さない? 最期の時にジェイの心を占めていたのは、紛れもなくカツミだったというのに。

「今度は俺の番なの?」
 怯えでも悲しみでもない、諦めたような呟きがカツミから落ちた。狂気じみたシドの視線がカツミを射る。
「察しがいいね。でも今日はやめておく。まだ十日もあることが分かったからね」

 まるで軽いジョークのように殺人予告を言い置くと、シドがさっと立ち上がって背を向けた。追いすがろうとして、カツミは足を止める。口に出来る言葉など、何ひとつ見つからなかった。
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登場人物紹介

□カツミ・シーバル

主人公。

男性。十九歳~二十歳。少尉~少佐。飛行隊。

眉目秀麗。幼顔で中性的。身長160センチ。華奢で小柄。

右の瞳がトパーズ色、左の瞳がクリムゾン色のオッドアイ(ヘテロクロミア)。

肩まで伸びたやや癖のあるクリーム色の猫っ毛。

最高位の士官学校を首席卒業した優秀な人物。父親は特区の最高責任者。

母親はカツミを産んですぐに死亡。一人っ子。

育児や教育は使用人によって行われ、父親からネグレクトと虐待を受けて育つ。

拒食症で不眠症。体力は特殊能力で保持している。

超A級特殊能力者だが、子供の頃に父親の本音を知るのが怖くなり、能力のほぼ全てをみずから封印した。ただし戦地では解放している。

口癖は「ごめん」。自虐的で自罰的。逆に天然な面があり、小悪魔的。

無意識に他人の本音を引き出す言動をする。

必要のない人間だと言われることを極度に恐れている。寂しがり。


□ジェイ・ド・ミューグレー

カツミの恋人。

男性。二十八歳~二十九歳。少佐。研究者。

貴族の家柄。家は財閥系の情報企業。長男で弟がひとりいる。

身長180センチ。すらりとした長身。黒髪。淡い茶色の瞳。眼鏡をしている。

幼い頃から天才と騒がれ跡取りとして大事に育てられる。

幼年学校は二年スキップしたにも関わらず、あらゆる資格を取得。

士官学校も一年スキップで卒業する(ラヴィ・シルバー以来の快挙)。

家の跡を継ぐまでの間という約束で長年の夢であった特区入隊を果たすが、事故により飛行隊任務が出来なくなる。婚約も破棄。任務も研究職に変える。家の跡取りは弟に変わる。

カツミにとっては父親的存在。

優しさと狡さ、独占欲と包容力を持つ。長いスパンで先を見通すため、他人には理解し難く、アンビバレンツな人物に見える。

□シド・レイモンド

ジェイの元恋人。一年前に別れたが、現在も未練を持っている。

男性。二十八歳。少佐。軍医(外科医)。

実家は開業医。父親は外科医。母親はシドが十歳の時に離婚。一人息子。

肩まで伸びた癖のある栗色の髪。栗色の瞳。女性的な印象。

スキップで入学した医大を首席卒業した切れ者。毒舌家で皮肉屋。挫折を知らない世渡り上手。

カツミの恋敵的存在だが、いい人を演じている。

□フィーア・ブルーム

カツミの同僚。ライバル的存在。

男性。十九歳。少尉。飛行隊。

さらりとしたクリーム色の髪。深く青い瞳。A級特殊能力者。

母親から虐待を受けて育つ。士官学校に入る前からアーロン(ジェイの弟)に見出され、支援を受ける。

温厚で控え目な性格を演じているが、他人に本音で接することを恐れている。

□セアラ・ラディアン

カツミの姉的存在。関係は一度だけあるが実質片思い。

女性。十九歳。少尉。管制塔任務。

さらりとした長い黒髪。栗色の瞳。美少女。

天真爛漫。反面、思慮深く母性が強い。

大きな瞳をくるりと上に向けて微笑む癖がある。

□ユーリー・ファント

カツミの同僚。上官。

男性。二十五歳。少佐。飛行隊。

実家は貿易商。サラの幼馴染み。自称情報通。A級特殊能力者。

社会背景や軍の在り方に強い疑問を持っている。

困った時に頭を掻く癖がある。

□ロイ・フィード・シーバル

カツミの父。特区の最高責任者。

男性。四十七歳。中将。

クリーム色の短髪。トパーズ色の瞳。長身。

実力主義の冷酷な人物。カツミのことは所有物と思っている。

A級特殊能力者。

□ルシファー・セルディス

カツミの同僚。後輩。

男性。十八歳。少尉~大尉。飛行隊。カツミのフライトオフィサ。

実家は百貨店経営や貿易を営む名家。兄と姉がおり、末っ子。

さらりとした黒髪。深い緑色の瞳。身長180センチ。長身。

A級特殊能力者。特に『聞く者』の能力に長けている。

他人の心の裏側が聞けることで、子供の頃は人間不信で攻撃的だった。

聞けることが当然で育っているので、シールドが高く聞けないカツミに振り回される。同時に唯一の分からない相手であるカツミに惹かれる。

口が達者だが奥手。頭脳先行型。俯瞰から物事を見るのは得意だが、他人の気持ちは察するよりも読んできたので、思い図ることが苦手。観察者側に自分を置く。

読書が趣味。常に分厚い本を読み漁っている。愛読書は『廃船の記録』。


□サラ・ノース

シドの医大時代の後輩。ユーリーの幼馴染み。

女性。二十七歳。少尉。軍医(内科医)。

完璧主義で竹を割ったような性格。物事を突き詰めて議論しないと気が済まない面があるが、逆に繊細で素直な一面もある。バイタリティのある人物。

内心、シドのことが好き。


□ライアン・クレイスン

カツミとは別の飛行隊所属。ルシファーの幼年学校時代の先輩。

男性。二十三歳。大尉。

短い黒髪。黒い瞳。筋肉質な身体。長身。

北区の基地から特区に転属。士官学校出ではなく能力者でもないので、レアケース。

父親の代からの移民(亡命)。

努力家。おおらかで正義感が強く面倒見がいい。実は女好き。

セアラにひとめ惚れする。

□アーロン・ド・ミューグレー

ジェイの弟。

男性。二十七歳。ミューグレー家の次期当主。

くすんだ長い金髪をゆるく束ねている。薄い茶色の瞳。長身。声はジェイと瓜二つ。

天才ともてはやされた兄と常に比較されて育ったため、ジェイに対するコンプレックスと両親やそれに連なる特権階級に対する憎しみを持っている。

他人は自分の目的を達成させるための道具。目的のためには手段を選ばない冷酷な人物。


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