第一話 殺人予告
文字数 4,094文字
ルシファーの視線の先には、喪服を着たカツミの姿があった。唯一人の肉親……自分の行く末を定め、歪め、最後には放棄した肉親。その遺体を見つめるカツミは、今なにを思っているのだろう。
カツミは顔を毅然と前に向け、時おり傍にいる誰かと短く言葉を交わしていた。吐く息すら白く変わるこの場所に、なぜか彼だけが熱っぽく妖しい独特な気を放っている。涙すら見せずに。
そして貴方はどうするつもりなのですか。どうしたいのですか。この先、血を分けた人と、それ以上に魂をあずけた人を失った後で。
ほんの一瞬。見間違いでなければ、カツミがこちらに顔を向けたようだった。しかし、彼の視線はすぐに雨で煙る虚空に紛れる。
貴方の強さは紛れもなく貴方の中から生まれたものだった。でも孤独の中に抱える強さに、果たして意味などあるのだろうか。人は一人では生きていけないのに。
誰に問うでもない意識の呟きを残してルシファーはその場を離れた。カツミはまるでその言葉が聞こえたように瞼を閉じる。口元で変わる大気の色が彼の溜息を教えていた。
◇
──雪の上にただ一つ。血に濡れた赤い宝石。冷たくしかし尊く。失うことなき輝き。傷つきたとえ砕けても。変わりなきその気高さよ。
雨は雪に変わっていた。カーラジオから流れる曲を聞くともなしに聞いていたカツミは、その旋律を賛美歌のようだと思った。
交差点。行き交う人々。信号待ちをする間にも雪は緩やかに降ってくる。なにも変わってはいなかった。三か月前と今。人々の生活になんの変化もない。そう思うのは自分だけだろうか。あまりに全てが変わってしまった自分だから、人のことをそう思ってしまうのだろうか。
思いに沈む間もなく、カツミは十数年ぶりの場所に着いた。本来なら自分の家と言ってもいいはずだが、七歳で幼年学校の寮に入って以降、一度も帰ることのなかった居所だ。父親は週末には戻っていたらしい。
タワーマンションのアプローチを抜け、エントランスホールに入る。ドアを開けたカツミは、すぐに見知った人を認めた。
「ドクター」
カツミの声は心なしか震えていた。
「おかえりカツミ。特進おめでとう」
少しだけ笑ったシドが手を差し出す。
「うん」
こくりと頷き、カツミがその手を握り返した。
シドの手はとても冷たい。もうずいぶんと長い時間、待っていたことが分かる。
「ドクターがここまで知ってるなんて思わなかったよ。いつ頃来た?」
「知らないことなんてないよ」
シドが、笑みで返事を置き換えた。
いつもと変わらない静かな笑顔。しかし微かな違和感。緊張しているだけ? 胸騒ぎがするのはなぜだろうとカツミは自問自答していた。
シドの目を見るのが怖い。見つめたとたんに信じたくない予感が本物だと知る気がして。
「昨日、帰ったばかりなんだろう?」
「うん。今日が葬式だったんだ。なにか飲む?」
「じゃあ、お願いしようかな」
居間の入り口に立ち尽くし部屋の中を見回していたシドは、ゆっくり踏み込んでソファーに腰を落とした。
すでに部屋の中は暗い。シドがシェードのついたルームライトを点けると、熱に焼かれた埃がチリチリと音をたてた。
「ドクター。ワインしかないよ」
「しかって。オッジのだぞ、これ」
「おいしいの?」
「一流レストランでも飲めるか分からない珍しいやつだ」
「ふーん」
気のない返事をしてカツミがコルク抜きを差し出した。手際よく栓を抜くシドを見ながら、いつもの調子で持論を展開する。
「難しいこと言われても分かんない。酒なんて酔えればいいんじゃない?」
「消毒用アルコールとすり替えても、お前には分かるまいよ」
シドの皮肉が、カツミをいつものむくれ顔に変える。
それを見て小さく笑ったシドが、ワインをグラスに注いだ。血のような赤が、彼の意識を容赦なく過去にさらっていく。
「カツミ」
しばらくして、シドが重い口を開いた。カツミが振り向くと、いつもは完璧なポーカーフェイスが苦し気に歪んでいる。言い淀むシドより先に、カツミが言葉を紡ぎ出す。いつもの口癖だった。
「ごめんね」
謝罪を耳にしたシドは口を閉ざした。言うべきことが封印されてしまったのだ。
シドが聞きたかったのは謝罪や哀れみではなかった。激怒したカツミに責め立てられるのは当然だと思っていた。それに備えて、幾重にも自己弁護の壁を巡らせていたのだ。
だが。思いもよらぬカツミの謝罪が、膿んで血の流れるシドの心をえぐった。
空調が効き、室内は暖かくなっていた。しかしシドはコートも脱がず、手のひらにじっとりと汗を滲ませている。今ならやれる。そう思っていた。自分には失うものなど何もないのだからと。
「独りぼっちだね。お互い」
カツミがぽつりと呟く。シドが思考を読まれたと思うほどのタイミングだった。
「結局は親父に守られてたって。認めたくないけど。そんなの認めたら、自分のやってきたことの意味がなくなってしまうけど」
「カツミ?」
発言の意味が分からず、シドが訊き返した。
「なにを言ってるんだ?」
シドの目の前に、一通の辞令が差し出された。
「オッジの駐留艦隊。新組織? どういうことだ?」
赴任先のみが記された書類では上の意図は推し量れない。現在でもオッジはまだメーニェの手中にあり、その至近で待機している駐留艦隊への増員となれば、メーニェを刺激し、結ばれたばかりの休戦協定が形骸化する。
「分からない。他の連中にはまだ通知がないんだ。検討中かもしれないけど、なんで俺だけ先なのかな」
カツミの疑問を耳にして、シドが作戦の背景を探る。能力者部隊による行動計画があり、かなり急いでいるように見える。オッジのレーダー基地が復旧する前に、休戦を破棄するのだろうか。
「詳細も分からないうちに受けたのか?」
シドの皮肉を聞いてカツミが首を傾げた。今回のことがある前はこれ以上にないほど模範的だったのに、組織を批判する発言をするなんて。
「命令だから当然だよ。というか他に方法があるの?」
「ない……だろうね」
一瞬言い淀んだシドが小声で答えた。
自分とは違う。カツミは能力者だ。特殊能力者を許容できる組織は限られている。カツミのようなA級能力者は、一般社会への適応が難しいのだ。
「来月の一日に出るんだ。それまでは休暇」
「もう、決まってるのか?」
「うん。あと十日」
「そう言えば、今日が誕生日だったな」
シドにそう言われて、カツミが逸らしていた視線を戻した。
「おめでとう。二十歳だな」
「うん。でも、よく知ってるね」
「知らないことなんてないよ」
苦笑を浮かべたカツミに、シドが同じセリフを繰り返した。そして微かに、ほんの微かにガラスのような笑みを滲ませた。
「この部屋。引き払うことにした」
窓外では大気と戯れるように白い雪が舞っていた。
カツミが壁のカレンダーに目を向ける。十二月最後の一枚だけを残している、時間の止まった部屋。
カツミの横顔を見つめていたシドは、相手を遠く感じていた。カツミにとってのあの日々は、もう過去の出来事なのだろうか? そう思うと、なぜか身を切られるように辛くなる。
未来のことを口にするカツミ。過去に囚われたままの自分。しかしそれはいつものことだった。自分が過去に縛られている間に、カツミは思いもかけない速さで遥か遠くへ走り去る。まるでその背に羽根を持っているかのように。
「さっき、親父のこと言ったよね」
だが次にカツミが口にしたことは、シドのなかに残る煮え切らない思いと一致した。
「あいつが死んだって知ったとき、すごく悔しかった。見捨てられたって思った。やりたい事をやりたいようにして、俺を置いて逝ってしまったって。あいつのこと嫌いだったけど。でももう少し、必要だって大切だって言ってほしかった」
カツミの告白を聞きながら、シドは思っていた。
カツミもまた受け入れてもらえなかったのだ。一番愛情を欲した相手から、一番愛情の欲しかった時期に。
ジェイは、その代わりになろうとしたのだろうか。いやきっと、それを越えたいと願ったはずだ。
目を伏せて告白を続けていたカツミの双眸が一転強く輝き、シドの逃げ道を塞いだ。
「聞いていい? 親父。どんな最期だったの?」
二人の間が重い沈黙で塞がれた。そのなかにシドの殺意が放散されている……カツミはそう感じていた。
黙り込んでいたシドが口を開く。声のトーンが明らかに変わっていた。狂気の切っ先が鈍く光りながら突き付けられた。
「……死ぬのは、私のはずだったんだ」
上擦った声が薄暗い部屋の空気を引っ掻く。シドの顔にはありありと憎悪が浮かんでいた。そこにいるのは、もうこれまでの彼ではない。
「ワインに毒を混ぜて。薬さじ一杯ですぐに呼吸中枢がやられる薬をね」
そう言うと、シドがあの日と同じ赤ワインのグラスを一気に傾ける。ゆらゆらと不安定な心が確実に破綻の側に振れていた。
「ロイは力でそれを阻んだ。そして自分で飲んだんだ。あっという間だったよ。致死量の倍だったからね。私が自由になったのは彼が死んでからだ」
「なんで……」
「勝手に死ねばって言うんだろう? 十年前の仕返しなんだよ。ジェイを奪ったことへの報復なんだ」
唯一の例外。ロイの言葉がシドの脳裏に浮かぶ。
例外にすら報復を企てるというのなら、なぜ息子には手を下さない? 最期の時にジェイの心を占めていたのは、紛れもなくカツミだったというのに。
「今度は俺の番なの?」
怯えでも悲しみでもない、諦めたような呟きがカツミから落ちた。狂気じみたシドの視線がカツミを射る。
「察しがいいね。でも今日はやめておく。まだ十日もあることが分かったからね」
まるで軽いジョークのように殺人予告を言い置くと、シドがさっと立ち上がって背を向けた。追いすがろうとして、カツミは足を止める。口に出来る言葉など、何ひとつ見つからなかった。