第四話 知らないほうが幸せ
文字数 2,859文字
独り言を言いながらアーロンが居間に戻ると、クローンが一人で控えていた。屋敷には多くの使用人がいたが、夜はリーンだけが傍にいるのを許されている。
「セルディス様はもう気づいています。けれど、シーバル様は分かりません。知ることが出来るのに、ご自分の能力を恐れているようです」
「知らないほうが幸せでいられると分かってるのさ」
グラスを受け取ったアーロンが大きな椅子に腰を落とした。音を消したモニターでは緊急ニュースが報じられている。
自身に降りかからない限り、人は退屈な日常よりも惨事のほうを好むだろう。そう思いながら、アーロンが口角を上げた。
この先。汚泥の一掃された場所に、能無しどもが居続けられるのか。最後に笑うのは実力のある者だけ。口の減らない連中ではない。この結果を嘆くのは当事者の周りだけで、後世の者には大きな利益となるのだ。
この日、民間の豪華客船が大気圏外で爆発事故を起こしていた。乗客は全員死亡。事故死したのは五千人以上の重要人物である。そのなかにはアーロンの両親も含まれていた。
◇
南部にあるジェイの別邸。温室のガラスを打ち割り、凍るような室内に倒れ込んだところから、シドの記憶が再開していた。
星灯りの下。枯れた観葉植物が亡霊のように影を落としている。鳴り続けていた警報機の音が、急にぴたりと止まった。
息を荒げてガラスの天井を見上げていたシドだったが、視界のなかに光の点滅を見つけて疑問を抱いた。
何の光だろう。
這うようにして光源のある居間に向かうと、それが電話の留守録を知らせるランプの明滅だと分かった。
あの日は気付きもしなかった。それともその後に入れられたものなのか。いったい誰が?
盗み聞きしたところで誰に咎められることもない。しかし、留守録を再生したシドはすぐに自分の浅はかさを思い知らされた。
『いないの?』
録音された声が誰のものなのか、シドにはすぐに分かった。
『すぐに、ドクターがそっちに向かうからね。今から出るよ。約束は守るからね』
ジェイはこの声を聞いたのだろうか。もし間に合っていたのなら、きっと幸せだったに違いない。安らかな死に顔だった。とても安らかな、満ち足りた。
『ジェイのとこだけだよ。俺の帰る場所は。きっと戻るからね。好きだよ、ジェイ。ずっと好きだよ』
メッセージの後に続く日付と時間のアナウンス。カツミが出兵の間際に入れたものだと分かった。
──好きだよ、ジェイ。ずっと好きだよ。
耳に残る声。カツミだけが与えることのできた至福。
これは罰だ。開いたままのドアの向こうに、主のいない寝台が見えた。これは罰だ。自分に『暗示』をかけた彼の。知らないほうが幸せなことが多いのだ。
シドはメッセージを消去した。鋭い電子音が響く。突き付けられた事実を打ち消すように、短く、鋭く。
◇
「望んでされたことに同情なんてしませんからね」
寝室に入って来たルシファーがカツミに言い放った。明らかに拗ねている。
「怒ってんの?」
「べつに」
「じゃあなんで、そんな顔してんだよ」
カツミの口調は日頃となんら変わりない。ルシファーにしてみれば、あり得ない態度である。
「先に帰ってよ。まだここにいる」
枕に顔を埋めたカツミだったが、シーツ越しに身体を撫でられ悲鳴をあげた。
「あいつがどんなやつか、知ってて言ってるんですか? やつはジェイじゃない!」
「分かってるよ。そんなこと!」
身をよじってカツミが起き上がった。その胸には血が滲んでいる。振り上げた細い腕にも。
ルシファーが、さっとカツミの手を掴んだ。その手は振り解かれなかったが、代わりに鋭い視線を突き付けられた。心をえぐるような激しさで。
「それに俺はフィーアじゃないよ!」
カツミから向けられた刃に、ルシファーは言葉を失った。なぜ貴方は、こんな狡い言葉で拒絶しようとする? それとも狡いのは自分のほうなのか。
カツミが欲している無数の言葉と感情。それを与えられるのはジェイだけ? 誰も代わりになれない?
カツミから手を離すと、ルシファーは背を向けた。
開け放たれたドアの向こうには、戸惑った顔のリーンが立っている。
「すみません。傷の手当てを……」
リーンが言い終わらないうちに、その横をすり抜けたルシファーが部屋を出ていった。
「ごめん」
カツミの呟きを聞いたリーンが、顔を曇らせる。
この人は他人を巻き込むのが嫌なのだ。なのに、あんな言葉しか使えない。自分も傷ついているのに……。
天蓋から降りる重厚な幕が美しいドレープを描いていた。その脇から顔を覗かせたリーンを見て、カツミは我に返った。
「ずいぶんと酷く、なされたようですね」
「君には違うってこと?」
カツミの洞察は真っすぐで鋭かった。
アーロンはこの行為を遊びと称した。しかしリーンにとっては遊びではない。渇望なのだ。
クローンの求めに主のほうが応じている。余興にしては歪んだ関係性と言えた。
「リーンはもういないと思ってた。なんでここに連れて来られたんだ?」
「使い道があれば再生産できますから。保存には、一人いれば十分です。安定して保存できるのが、この場所しかなかったということです」
リーンの言葉は、自分を道具と見ている冷めたものだった。安定して保存するために主人はそれなりの対価を支払っている。それが歪んだ余興なのだ。
「保存のための存在?」
「そうです。実験はもう済みました。これからは本当の人間が試されるんです」
優しい表情だがリーンの言葉は辛辣だった。
傷の手当てをしながらリーンが話を変える。カツミを取り巻く状況を、彼は知っていたのだ。
「レイモンド様は南部の別邸におられます。行かれるのですか?」
「怖いんだ」
リーンの問いに、カツミがぽつりと本音をこぼした。
「怖い?」
「ずっと奪ってきたのに許されてきたから。報いは覚悟してたけど。でも怖くて」
「殺されることがですか?」
「違うよ。要らないって言われることが怖いんだ」
「結果は同じじゃないですか」
「ぜんぜん違うよ」
理解できないと言いたげなリーンに、カツミが微笑み返した。死に魅入られた顔ではない。生にしがみつくものでもない。そのちょうど中間にいると感じられた。
──知らないほうが幸せ。
リーンが思い出したのはアーロンの言葉。不思議な人だと疑問を切り上げる。
ふと気配を感じたリーンが窓辺に寄ると、風と戯れるように雪が舞い落ちていた。窓の下では、ルシファーがこちらを見上げている。彼の車のライトが遠ざかるのを見送ったリーンが振り返ると、カツミはもう眠りの深淵に沈んでいた。
「貴方は頑なすぎるのです」
言葉の先は、リーンの心のなかで続けられた。
貴方を必要とする人を遠ざける呪縛があるのなら、それは愛情ではないでしょう? それとも呪縛そのもののことを愛情というのですか。それが本当の拠り所だと。
つかの間の安らぎを壊さぬよう、リーンは静かに部屋を出る。それがすぐに破られることを知りながらも。