第二話 招待状
文字数 3,153文字
シドが、ちらちらと小雪を注ぐ空を見上げた。街灯りが反射した雲は赤黒く澱んでいる。
貴方がいなくなりカツミもいなかった三か月、私はただの抜け殻だった。
でも今は違う。生き永らえたことで、やりたかったことが出来るのだから。貴方という鎖に縛られず、思いのままに動けるのだから。しかしこの思いは本心だろうか?
狂気を含んだ笑い声がシドの口から漏れた。しかしその瞳からは、熱いものが拭ってもぬぐっても流れ落ちてくる。
もう狂っているのかもしれない。シドはそう思っていた。いや狂ってしまいたかった。あんな言葉をカツミに投げつけた後ですら、なぜこんなにも気持ちが揺らぐのか。
私のしたいことはジェイの望むことだった。それ以外にはなかった。しかし今は違う。今は違うのに!
かじかむ手をコートの中に入れると、硬い小銃に指が触れた。なぜこんな物を持ち出したのだろう。カツミが見破るのは分かっていたのに。この銃口を向けて引き金を引いても良かった。しかし反対に返り討ちにあっても良かったのだ。
カツミはなぜ、あんなに無防備でいられるのか。それが時に他人を傷つけることも知らずに。彼に映しだされた醜い姿を見た者は、その鏡を打ち砕きたくなる。鋭い破片が心を血まみれにしたとしても。
車を起動させたとたん、聞き覚えのある曲がカーラジオから流れてきた。頻繁に耳に入るので、国策で流行させているのではと勘繰ってしまう。
どんなタイトルだったか記憶を辿ったシドは、思い出すなり苦笑いを浮かべた。
──血の宝石。
それは、彼の心とあまりにも符号する言葉だった。
◇
「遠征の準備ですか?」
「いや、身辺整理」
訪室したルシファーの問いに意味深な返事をすると、カツミはキッチンに向かった。その手がいつものように珈琲メーカーをセットする。
カツミの自室は、足の踏み場もないほど散らかっていた。誤って棚から落とした書類が床を埋め尽くしているのだ。
どうやら卒業論文の下書きのようだと、ルシファーは気づく。紙に手書きというのも珍しいが、さして物のない殺風景な室内に書類だけが散乱しているのは奇妙に見えた。
床に屈みこんだルシファーは、自分の時はこんなに努力はしなかったなと当時を思い出す。努力を表に出さないカツミは、他の隊員たちに誤解されやすいのだろう。
「今日は休みなのか?」
「二十日までです。少しは休みたいですよ。貴方は違うようですけど」
「駐留艦隊のこと?」
「他になにがあるって言うんですか?」
ルシファーが不機嫌な声を漏らした。苦笑いしたカツミが向かいに座る。やがて、目の覚めるような香ばしさが部屋中に満ちた。
「命令じゃ、仕方ないよ」
「乾きすぎですよ、その態度。これ物理ですか? 頭痛がしそうな数式だ」
「あんたは、なにやったんだ?」
「政治と宗教。あの廃船の星に絡めて」
「悪い冗談だ」
この国の政治と宗教に語る価値などない。そう言いたげにカツミが笑うと、むっとしたルシファーが話題を変えた。
「ドクターのこと、聞きました?」
「え?」
「昨日の夜、病院に担ぎ込まれたこと」
「知らない。なんで?」
顔色を変えたカツミに、ルシファーが淡々と続けた。
「銃の暴発って聞きましたけどね。自殺未遂の話もあって真相は不明です。脇腹にかすって手術したそうです。医者が自殺するのに、そんな下手な真似はしないでしょうけど。昨日、なにがあったんです?」
「なんでだよ」
「勘ですよ。なんで身辺整理なんですか?」
「聞いてたのか」
聞き逃すわけがないだろうと、ルシファーは心のなかで毒づく。聞く者の価値は情報収集能力にあるのだ。聞き取った情報を的確に分析出来てこそ、能力を武器にできるのだから。
「ドクターから殺人予告されたんだ。それだけ」
「それだけ、ね」
なんなんだ、この乾いた態度は。呆れつつも、ルシファーは次弾を投げ込んだ。
「で、その相手が行方不明ってわけか」
「ドクターが?」
「他に誰がいるんですか」
「だって今、手術したって」
「医者なんてきっと馬鹿がなるんですよ。どこにいるんです? 知ってるんでしょう?」
しばらくカツミは口を閉じていた。細い指が伸びた前髪をかきあげると、骨張った腕が露となる。相変わらず食べてないらしいとルシファーは思う。
「ジェイの別邸だ」
「まさか。ここからずいぶん離れてますよ」
「うん。でも他には考えられないよ」
二人の間に、しばし沈黙が落ちた。
ルシファーは、ルシファーなりに推測していた。ロイがシドの前で自殺したことで、様々な邪推が特区に広まっていたからだ。これまで非難や侮蔑を向けられたことのなかったシドには、耐えられるものではないはず。
自殺か事故か真相は分からない。今回は怪我で済んだ。しかし次がないとは言えない。
「あ。そりゃそうと、来たんでしょう? これ」
本来の目的を思い出し、ルシファーが封筒を取り出すと、カツミが放ってあった同じ物を重ねた。
浮彫の模様が美しい上品なカード。招待状である。
「驚いたよ」
「殺人予告よりも?」
皮肉とともに目で訊いて、ルシファーが封を開けた。
「同じ内容です。今夜18ミリア。行きますか?」
「そのつもりだけど」
「嫌なやつですよ。他人を道具としか思ってないし」
「ふーん。嫌なやつねぇ」
カツミが面白そうに返すと、ルシファーがついとドアの方に首をまわした。
「彼女だ。ひとまず退散しようかな」
ルシファーには分かる。このフロアにセアラが入って来たのだ。どうにも苦手な相手だった。とはいえ廊下ですれ違うのは免れることが出来ない。
「バスルームにでも隠れる?」
「やめて下さいよ!」
面白がってからかうカツミに反論しているうちに、部屋のブザーが鳴らされた。
「カツミくん! えっ?」
入って来るなりルシファーを目にしたセアラが、あからさまに嫌そうな顔をした。
「なんでいるのよ!」
「いちゃ悪いですか?」
「悪い!」
「分かりました。帰りますよ」
「まあまあ」
カツミが取りなしたが、ルシファーは腰を上げた。
「じゃ、17ミリアに」
言い残すなり、すぐに退散する。
「まったくもう」
溜息をついたカツミに、頬を膨らませたセアラが不満をぶちまけた。
「こっちのセリフよ。駐留艦隊ですって?」
「言っとくけど、志願したわけじゃないからな」
「いつ?」
「来月の一日」
「……ひどい」
セアラはドアを背にして座り込んでしまった。
「カツミくんは、なんでもないのね」
「まさか」
カツミはもちろん不安である。しかし選択肢などないのだ。これが任務なのだから。
しゃがみこんだカツミの首にセアラが腕をまわす。
耳元で囁かれた彼女の指摘は鋭かった。
「また食べてないのね。自分をいじめてばっかり。今も面倒くさそうね」
「ごめん」
カツミの口癖を聞いたセアラが、小さな笑い声をもらした。だが腕を解かれてカツミが見つめると、泣き笑いの顔をしている。
「貴方のこと待っていたい。でも無駄なことなの? 私、カツミくんをいじめてる?」
返す言葉が見つからず、カツミはただ首を振った。
今のカツミは、ジェイの望みを叶えるために生きていた。投影された望みは、水面に映る光のように常に揺らいでいる。
「悔しいわ。ジェイだったらこんな言い方しないのに。行っておいでって送り出したに違いないわ」
羽根に触れるような切ないキスを残すと、セアラはすぐに部屋を出て行った。
自分ではどうにも出来ないことが矢継ぎ早にカツミを襲う。突然の赴任命令は割り切れた。だが、他人の感情はそうはいかない。セアラの寂しさも、ルシファーの戸惑いも、そしてシドに向けられた殺意も。
テーブルに置かれた招待状。それもまた、残り少ない時間のなかでカツミを追い込んでいくものとなる。
時の神は試練を与える。そこに容赦などない。