第二話 手紙
文字数 3,242文字
ようやく自分の医務室に戻れたシドが目に馴染んだ部屋を見回していると、隣の部屋に通じるドアをノックする音がした。隣は空室のはずだが。そう思いながらロックを解除すると、現れたのは彼の良く知る女性だった。
「サラ」
シドが卒業した医大の後輩だった。医大生の頃から十年経っていたが、シドが彼女から受ける印象は変わらない。艶やかな長い黒髪を後ろできっちり縛り、整った顔の輪郭を惜しげもなく見せている。シドと同じ栗色の瞳だが、その輝きは強く、意思と気の強さを正確に反映していた。そして、サラの表情は柔和には程遠い。
「お久し振りね、シド。戻ったとたんにオペ室行きですって?」
「たっぷりとツケを払わされたよ」
「当然ね。それだけの事をしたんですもの」
サラの言い草で、シドは己の悪評が彼女の耳にも届いていることを知った。苦笑しか示しようがないシドを横目に、サラが冷ややかに問い続ける。
「ここの配属、貴方の入院と入れ違いだったのよ。怪我して日が浅いのに人使いの荒い所ね。で。オペはどうだったの?」
「もちろん成功したよ」
「皮肉よね。希死念慮(きしねんりょ)にとりつかれてる人間が、他人を助けるなんて」
「君のほうがよっぽどたちが悪いよ。医者が患者の疲労を足し増しするってのは、おかしくないか?」
「そっくりお返しするわ。後先考えずに行方をくらまして、私に余計な疲労を足し増ししたのは誰?」
サラはシドの一歳年下。スキップで二年早く医大に入ったシドの三学年下だった。秀才のシドと渡り合える数少ない学生で、当時からよく議論をしていた。
しかしそれは、あくまで研究内容についてであり、プライベートの会話など交わしたことはない。
「貴方の変節を聞いて、うんざりしてた所よ。反論を聞かせてもらいに来たの。なんの価値もないって言ってた人生は、ずいぶん楽しくなってるみたいね」
「そんなこと言ってたかな」
とぼけたシドだったが、サラはシドのはぐらかし癖には慣れていた。
「貴方は賢いから言葉にはしなかったわ。何に対しても儀礼的だっただけよ。それでも首席で卒業できるんですもの。たいしたものよね」
「君ほど頭が固くないからね。今と違って処世術に長けてただけさ。反論なんてないよ。放っておいて欲しいだけだね」
サラの口から失笑が漏れた。筋を通すことを好むサラは、躊躇せず核心に切り込む。視線を外したシドに容赦なく詰問が飛んだ。
「貴方の『おはこ』が出たわね。言ったところで他人には分からない。放っておいてくれ。馬鹿な連中の相手なんかしたくもない。でも、ジェイ・ド・ミューグレーは違ってたわけね。奇跡も起こるときには起こるのね」
サラの口からジェイの名前が出たとたん、弾かれたようにシドが顔を上げた。向けられた瞳の奥に、狂気としか言いようのない暗い澱みが浮かぶ。律しきれない激しい怒りが顔を醜く歪める。突如怒りに支配されたシドを見て、サラが慌てて視線を逸らせた。しかし……シドは何も言わなかった。重苦しく変化した部屋の空気。サラには、それが耐え難いほど長く感じられた。
張り詰めた静寂を破ったのは電話の呼び出し音だった。さっと受話器を取って応じたシドが、一度だけぶるりと身体を震わせたが、すぐに事務的に会話を続けた。その顔には、先ほどの狂気の片鱗すらない。
「議論はお預けだよ。急用ができた」
電話を終えたシドの口調は冷静だった。
「言い過ぎたわ。ごめんなさい」
「意固地にならないとこだけが、君の取り柄だね」
「急用って?」
「父が危篤なんだ。いくらなんでも行かないわけにはね。じゃ、急ぐから」
事の重大さにまるでそぐわない淡々とした態度を見て、サラはただ戸惑うばかりだった。
◇
今度もシドは間に合わなかった。しかし彼が感じた痛みは、ジェイの時よりも小さかった。少なくとも表面の意識においては。彼の父親は急性心不全で命を落とした。倒れる直前まで仕事をしていたという。
あらゆる雑事が一気に押し寄せたが、大半を父の弁護士に押し付け、シドは誰もいなくなった家で過去に思いを馳せていた。
厳格な父親だった。一人息子のシドは生まれた時から跡取りと決められていた。シドの両親は彼が十歳の時に離婚している。
自分から母の温もりを奪った父を、シドはずっと憎んでいた。父親の望み通りに医院を継ぐなど、断固拒否するつもりで特区に入ったのだ。
かつて自室だった部屋のドアを開けると、よそよそしい空気が出迎えた。がらんとした室内。自分の物は全て特区に持ち込んでいるので、他人の部屋と同然だった。
綺麗に片づけられた机の上に、自分宛の手紙が置かれていた。ダイレクトメールばかりの中に一通、手書きで書かれた封書。何気なく手に取って差出人の名を知ったシドがはっと息を飲む。
「ジェイ」
呟くと同時に耳鳴りがした。消印はジェイが亡くなった翌日。となると誰かが……おそらくはアーロンが投函したのだろう。
椅子を引いて座り込んだシドは、しばらく封を切ることも出来ずにいた。この手紙に書かれていることが自分の未来を決定づける。そう感じていたからだ。
ジェイ……。貴方はいつも自分の思いもしない時に、この心の一番触れられたくない場所に触れてくる。残酷な唯一の神。きっと貴方は今の自分のことを察していた。知っていた。だから……。
封を開けるシドの手は震えていた。上質なミューグレー家の紋の入った便箋を広げると、綺麗な直筆の文字が綴られていた。
──シド へ
この手紙を読んだお前の皮肉を聞きたくないので宛先を家にした。ただの感傷と笑ってくれると有り難い。
今日会ったお前があまり辛そうな顔をしていたので、反対に私が心配をするはめになった。今まで無理な頼みを続けてきた報いというやつかもしれないな。
死なないなどと釘をさした私に、暗示かと言ったお前の顔が気にかかる。これがただの思い過ごしであってほしい。そしてこの手紙を読んで、お前が笑い飛ばしてくれるといいのだが。
最期の時に醜態をさらさなくて済んだ事は、お前のお陰だと思っている。当たり前のように甘えきって、お前の苦笑を見るのにも慣れてしまっていた。
今さら何を言っても仕方ないが、私はいつでもお前が必要だった。いや、暗示が解けるのを恐れながら、私はまだお前を必要としている。考えてみたら、こんな言葉すら言った事はなかった。私以上に私の事を知っていると思っていたから、言うまでもないと思っていた。
死人に腕を掴まれているのは嫌だろう? 私はお前を解放し損ねた気がして仕方がない。そしてそんな気もなかった事を今頃になって気付いている。
しかし生きている者は死者の感傷に付き合うことはない。医者であるお前にわざわざ言うことではないが、この事だけは伝えたかった。また狡いと言われるのは承知の上だ。生きていてほしい。それがお前の望みなら、もう自由になってもいいはずだ。
「生きていてほしい……。それがお前の望みなら、もう自由になってもいいはずだ。残された時間に追い立てられず、ゆっくりと生を楽しむことができるのだから。それともこれも私の我が儘だろうか。願わくは、お前がもう何者にも囚われないことを祈っている……」
押し殺した嗚咽が慟哭に変わるとき、シドは覚っていた。ジェイは知っていたのだ。望んでいたのだ。相反する想いの中で葛藤していたのだ、と。
しゃくりあげながら、何度も何度も声に出してシドは手紙を読み返した。確認した。自分とジェイの共通の望みを。ジェイの本心を。
貴方はいつも自分の思いもしないときに、一番触れられたくない場所に触れてくる。見過ごすことを許してくれない。誰よりも自分の望みを知り抜いているから。
「貴方らしいよ」
呟かれた皮肉は、再び溢れ出した嗚咽にかき消されてしまった。