第一話 導く者
文字数 5,042文字
ようやく特区に戻れたルシファーに、カツミはさっそく皮肉をぶつけられた。
「俺が邪魔するとでも思ったんですか? そんな親切じゃありませんよ。そこまで思い上がっちゃいないと思いますけどね」
「……ごめん」
ドアを背にしたまま天井を仰ぎ見たルシファーが、罠の顛末を告げた。
「バスとトラックが衝突炎上ですよ。徹底してますね。貴方のパトロンは」
「アーロンが?」
「誰も死んじゃいませんけどね。バスは回送中の無人車だし、トラックは故障で運転手は外に出てた。でも都市高速は完全封鎖ですよ。まったくいい迷惑だ」
どういう生き方が、そして死に方が最良なのだろうとルシファーは思う。シドの要求は、彼の本当の願いなのだろうか。一過性の狂気が生み出した衝動なのでは?
それとともに、自分と距離を取るカツミにも苛立っていた。信頼してくれとは言えない。しかし、少しは頼ってほしいのだ。
「死にたいんなら勝手に死ねばって、代わりに言ってやりましょうか? あんたの感傷なんかに、いちいち付き合ってられないって」
「最低だね」
「分かってるんですか?」
「俺のことだよ」
カツミの返事を聞いたルシファーが、大きな溜息をもらした。どうしたら、そういう発想になるのだろうと。
「だから貴方は!」
「憎まれるのかな」
「あの人の要求を叶えるくらいお手の物なんでしょう? 出来るからこそ迷ってるんでしょうし。そりゃあ誰だって恐れるし、人によっては憎むでしょうよ。あの人に限らず」
「……だろうね」
「貴方に野心がなくても、疑われて当然な力があるんですよ。誰も安心なんかしてません。貴方は信頼じゃなくて実力で進むしかないんです。貴方の父親みたいに」
カツミはルシファーの指摘に反論出来なかった。まさにその通りだったからだ。それが、ずっとカツミを苦しめて来たのだから。
「ひとつだけ言っておきます」
カツミの隣に腰を下ろしたルシファーが、美しいオッドアイをじっと覗き込んだ。
「俺はなにひとつ忘れません。貴方と共有するものを、なにひとつ手放しませんから。絶対に」
ルシファーはカツミの心を引き留めようと、深い森のような瞳でじっと見つめた。
それは、ルシファーがカツミに決然と示した意思。
カツミの能力が自分をどれだけ凌駕していようと、決して引かないと決めた覚悟だった。
──百年後の邂逅。たった一人のひとつになれる相手。たった一人の戻る場所。
「言い過ぎたなんて思っちゃいませんよ。事実ですからね。……ああそうだ、カツミ」
「うん?」
「南部に行きませんか? 気晴らしに」
「えっ?」
ルシファーの唐突な誘いに戸惑ったカツミだったが、なんでもないように装った彼の優しさがじわりと伝わってきた。その好意を、素直に受け取ることにする。
「うん。行く」
崩落寸前の感情を押し留めるルシファーの眼差し。カツミは、思わずそれに縋りつきそうになる。
甘えるなとシドに言われたばかりじゃないか。越えなければならないことは分かってるんだ。目を背けていても、何も変わりはしない。それでも……。
カツミはもう一度ゆっくり、でも深く頷いた。
「うん。行く。ありがと」
◇
風はまだ冷たいが晴天だった。清々しい青い空には雲ひとつない。カツミは胸いっぱいに冷気を吸い込むと、モアナの光に目を細めた。
オッジから帰還して、まだ2サイクルと経っていない。嵐のような日々。
シドの狂気。アーロンの陰謀。カツミを巻き込んでいった事々は、巻き込まれたカツミが引き寄せてしまったことでもあった。
シドの狂気の根源には、カツミに自身の能力を受け入れてほしいというジェイの願いがある。狂気によって、それが歪んだ形で突き付けられたとはいえ、いつかは越えなければならない課題なのだ。
アーロンがカツミを手中にしようとするのには、兄であるジェイに対する対抗心がある。ジェイが愛したカツミを手にして自身の道具とすることで、ジェイに一矢報いようとしているのだ。
ただ、アーロンはジェイに対する対抗心だけでカツミを手にしたいわけではなかった。
彼は特区を、ひいてはこのシャルー星の現状を変えたいという野望を持っている。
母星メーニェから本当の意味で独立するためには、繰り返される戦争という名の茶番を終結させなければならない。そこに必要なのは特殊能力者だ。アーロンが、A級能力者であるカツミに向ける期待は大きかった。
カツミが引き寄せてしまったことは、カツミの心の弱さや幼さを炙り出していた。
父親の支配やネグレクトという不可抗力はある。しかし、カツミは自分で自分の人生を切り拓いていかねばならない。いつまでも氷の砦に閉じこもっているわけにはいかないのだ。
決断する時。行動する時。一歩、足を前に踏み出す時にこそ、最も力を必要とする。
カツミはこれまでずっと座り込んで動けなかった。しかしそれは、跳躍の前に屈みこむのと似ている。跳ぶ前には屈まなければならない。そしてもう、跳ぶ時は来ていた。
◇
「あれ。またこの曲だ」
カーラジオから流れる曲を耳にすると、ルシファーが呟いた。
──天の彼方の音なき声。地の底よりの音なき声。真白き雪に覆われて。全てを無に還しても。囁く石は血に染める。囁く石は血に染める。
「この最後のとこ。曲が綺麗で誤魔化されてますけど」
「事実は隠蔽できないって言ってるみたいだよね。歴史は見てるって。違うかな?」
「そうそう。なんだ、聴いてたんですか」
「うん。まあね」
天と地の音なき声。
白い雪に覆われて、無いことにされてしまっている声。だが、その声を聴く者は必ずどこかに存在している。
血の宝石とは、いのちそのもの。誰もがその原石を持って生まれてくる。
しかし、自らの手を動かし磨いていかなければ、あっという間にくすんで輝きを失ってしまう。
石を磨くために動かし続けた手は、ひび割れて血を流す。だが、磨く手を止めなかった者は、傷だらけの手を誇らし気に空にかざすのだ。己の生きた証そのものだと、誇らし気に。
透明感のあるソプラノが繰り返す。それでいいのかと問いただすように。度々流される『血の宝石』は、とある人物によるインプリンティング(刷り込み)だった。
海岸線の道。吹き抜ける風が心地よかった。波頭が煌めき、淡い色が春の到来を告げている。
「言わせてもらっていいですか?」
「うん」
吹き込む風に髪が煽られる。潮の香りがしていた。
「正しい答えなんて、この世のどこにもないと思います。でもドクターの言葉は、俺には理解できなかった。もっともらしく聞こえますけど、狂気でしかなかったです。貴方はそれに気づいたから、なにも言えなくなったんでしょう? 違いますか?」
「うん。前にドクターの意識に触れたときより、正直言って怖かったよ」
そしてとても悲しかった。辛かった。カツミは、自分がそうさせてしまったのだと思って、何も言えなくなっていた。
車がジェイの別邸に続く私道に入ると、樹々の隙間から柔らかな日差しが落ちてきた。針葉樹の梢がざわめく。森に洗われた澄んだ風が吹き通る。
「ちょっと止めてくれる?」
突然、カツミが小さく呟いた。
「えっ?」
「このまま……」
瞼を閉じていても光の粒は揺れながら温度を伝える。風の音も土の匂いですら、言葉などなくとも伝えるすべを持っている。言葉などなくとも。
「人間って、一番馬鹿な生き物だね」
「なに言ってんですか。いまさら」
ルシファーの返事に、カツミが小さく笑みをこぼす。そこには、心が伝わらない虚しさはなかった。
◇
──雪の上にただ一つ。血に濡れた赤い宝石。冷たくしかし尊く。失うことなき輝き。傷つきたとえ砕けても。変わりなきその気高さよ。
夜の静けさの中に透明な声が小さく溶けた。ベッドの天蓋を見つめたままリーンが柔らかく口ずさむ。
『血の宝石』。それは魂。それはいのち。
意外そうに見つめるアーロンの隣で、リーンは歌い続ける。美しいボーイソプラノが寝室を満たす。
歌声が絶えて部屋が静けさの底に沈むと、アーロンが歌った理由を訊いた。愛情と憎しみか? と。
「私は、もう覚えていないのです」
そう答えたリーンがアーロンを見つめた。ヘーゼルの瞳が夢見るように光をたたえる。悲しみでも怒りでもない、何もかもをどこか遠くに置いてきた光。
「なぜ、検体に志願したんだ?」
リーンは、二番目の問いには答えることが出来た。
「私はもう終わらせたかったんです。でもみずから死を選ぶことは出来なかった。だから、合法的に終わらせる方法を探していたんです」
「……そうか」
静寂が薄いヴェールのように二人の上に覆い被さる。やがてリーンの細い指がアーロンの頬に触れた。
「この歌。貴方が流すように指示しているのでしょう?」
アーロンはただ薄く笑っただけ。リーンもそれ以上は深入りしなかった。疑問を言葉にすること。それだけで良かったのだ。
アーロンは、リーンの視線を避けるようにして天蓋を見上げた。
遠い過去から、まだ見ぬ未来を望むまなざし。
アーロンの脳裏に浮かぶのは、時の中空に漂うひとつの泡。生まれてはすぐに弾けて消える泡。その一瞬のためだけに、人は生を受けるのだと感じていた。
「私は待っていたんだよ」
「待っていた?」
唐突に口にされたアーロンの言葉。その意味が解せずに、リーンが復唱して問い返す。
「そうだ。特区を。いや、この国を導く者を」
「……導く者?」
「この百年のあいだ、国にあったのは諦めだよ。終末に向けてゆるゆると流れるだけの諦めだったのさ」
天蓋を見つめたままのアーロンに、リーンが問う。
「私の存在も、その中でのことだと?」
「そう。シスを使うなんざ、正気の沙汰じゃない。使い捨てだよ。お前は自分を殺して欲しかっただけだろうが、どこかの誰かのために売られたのさ」
リーンが細く息をもらした。
「この国はもう、戦争なしでは機能しない。みな洗脳されてる。これが当たり前だとね。遠い宇宙の彼方で、ちょっと騒がしくなったと思えばすぐに終わる。四季が巡るようなもんだ」
「あの避難船……」
「その話は置いておこうか」
リーンの詮索を遮ったアーロンが瞼を閉じた。嘆息とともに口から滑り出たのは、ずっと目を背け続けて来た苦い過去だった。
「私はいつも、兄と比べられていてね」
アーロンの声色がいつもの冷淡さを失っていることに、リーンは気づいていた。
「ひとつしか歳が違わなかったからね。しかしジェイは、この家の完璧な跡継ぎだった。まわりの期待を裏切ったことなど一度もなかったよ。何もかも天から授けられたように楽々とこなしてしまった。挫折を知らない人だと思ってた」
「貴方は愛されなかったのですか?」
それは、心の真ん中を突き通すような残酷な追求だったが、アーロンは失笑で流した。
「大事にはされたさ。今さら比べたところでどうにもならない。ただ」
「ただ?」
「私もお前と同じ気持ちになったことがある。誰かが終わらせてくれるのを望んだことが。だからドクターの話を断れなかった。これは大きな賭けなんだよ」
「賭け?」
「この国の救世主たり得るのかを見極める賭けだ。鍵を回してドアを開けるまで誰にも分からない」
「救世主? カツミ・シーバルが?」
「カツミは自分で自分に硬い封印をしている。なのに、わずかに感情が昂っただけでクローンを潰してしまう。オッジでも、一人で一個艦隊分の仕事をしたようなものだ。あの場はカツミの独壇場だったんだからな」
「彼の封印を」
「解けるのはドクターだけだと思っている」
アーロンはそう返すと、再びリーンに腕を伸ばした。応えるように華奢なクローンが大きな胸に顔を埋める。
「これは賭けなんだよ」
ドアを開けるまで、誰にも結果は分からない。カツミですら帰結を知らない。
アーロンはジェイの真意に気づいていた。なぜその命を縮めてまでカツミを守ろうとしたのかを。背を押したのかを。
ジェイの遺志を継ぐのは自分だと、アーロンは思っていた。兄の時間は止まったが、自分には残されている。兄を超えるためには、彼が残したものを生かすしかない。他に逆転の手段はない。
鍵を回す。緩やかに腐敗するだけの世界に、牙をむくために。
それによってカツミが崩壊の道を辿るのか、それとも踏み止まるのかは……誰にも分からなかった。