第三話 告白
文字数 3,681文字
夜半近い時刻。カツミの部屋を訪れたルシファーは、ドアを開けたカツミを見るなり顔をしかめた。
カツミは、発熱しているのがすぐに分かるほど顔が赤くなっていた。
「言わんこっちゃない。風邪引いたんでしょうが」
「うん」
「だからって、タオルケット握ったまま出迎えるってのは、どんなものかと」
「寒いんだよ」
億劫そうにベッドに戻ったカツミだったが、無言のまま隣に滑り込んだルシファーに驚き、くるりと寝返りをうった。
「添い寝してあげますよ。今回は自主的に」
「風邪うつるよ」
「うつしてくれますか?」
「ルシファー?」
貪るように唇を奪われる。痛いほど真っすぐ向けられた深緑の瞳を見て、カツミは嫌な予感を覚えた。
唇をようやく解放されたカツミは、すかさず問いただした。
「なにかあったの?」
ルシファーは、押し黙ったままカツミの背を抱き締めた。
「言ってよ。なにがあったの?」
カツミは、以前にも同じことがあったのを思い出していた。そう。ジェイがフィーアの死を伝えた時だ。痛いほど強く抱かれた。身動き出来ないほど強く……強く抱かれた。
「ルシファー?」
「ドクターが退官するそうです」
「えっ?」
「父親が亡くなって月末に辞めるそうです。もう会わないほうがいい。あの人は」
──あの人は自分の進む道を見出してしまった。
ルシファーは言葉の最後を飲み込んだ。口に出せなかった言葉が身震いに変わる。
「なんで会わないほうがいいなんて言うんだ?」
カツミがせわしなく聞き返す。しかし、ルシファーは唇を噛んだまま答えない。
「なにを知ったんだよ」
「……」
「言ってよ。大丈夫だから言って」
意地を張り通していたルシファーの中に恐怖が芽生えていた。失くしてしまうのではという恐れが。失くしたくないという本音が。ルシファーは一気に想いを吐き出した。
「なんで読んでくれないんですか? ずるいですよ。なんで訊くんです? 知りたくないくせに、なんで。そうやって力を封印していないと、自分が傷つくのを知ってるからでしょう? でも貴方は、あの人に会ったらその封印を解かなきゃならない。俺は、そんな貴方を見たくない!」
ルシファーの畳み掛けるような口調は、これまでの一歩引いた冷めたものとは違っていた。
「ルシファー?」
腕を解いたルシファーを、カツミが真っすぐに見つめていた。
──いのちのクリムゾン、死のトパーズ。
生死を映す鏡。その神秘的な瞳に射すくめられながら、ルシファーがカツミに告白した。
「好きだから。失いたくないから。貴方を壊すような目には、あわせたくない」
ルシファーは、発熱しているカツミと同じくらい顔が紅潮していると感じた。
「こんなこと言うつもりなかった。貴方の気持ちに入り込む隙間なんて……」
気まずそうに俯いたルシファーの言葉を、カツミが遮った。
「ありがと。嬉しいよ。これ以上聞かないから、もう一回抱き締めて」
ルシファーが切なさの滲む笑みをこぼした。
再び与えられる温もりのなか、カツミは瞼を閉じて彼の心を──読んだ。
人それぞれの価値観は誰も否定できない。幸せの形は星の数ほどあるのだ。
ただカツミに向けられたのは、彼の持つ価値観と真っ向から対立する価値観の強要だった。
カツミは幼い時に能力のほとんどを封印した。強大な力は、もはや呪いでしかない。それを受け入れろと現実を突きつける者は、あまりにも無慈悲だった。
◇
「……ほんとなの?」
「嘘つく意味なんかないよ。サラ」
ユーリーからシドの突然の除隊を聞かされたサラは、しばらく絶句していた。彼女を横目に、ユーリーは落ち着きなく医務室のなかを歩き回る。
「もう受理されたの? こんなに軍医が少ないのに」
「あの事件の後ですら、上部が引き留めてたくらいですからね。確かに軍医不足は深刻ですよ。でも今度は無理でしょう。仕事が増えますね。ご愁傷さま」
「うるさいわね。せいせいしたわよ」
「また強がり言って」
サラは鼻で笑うとそっぽを向いた。しかし動揺は隠しきれない。その顔は青ざめていた。
「今日になってカツミの噂がすっかり立ち消えたの、感じました?」
ユーリーが話題を変えた。それは彼なりの優しさでもある。ユーリーはもう、サラの本音を確信していたのだ。
幼年学校時代のサラをユーリーは思い起こす。
子供の頃からサラは気が強かった。学校の成績で一番になれなかった時には、悔しがって泣いていた。
そんな時に八つ当たりを食らっていたのが、幼馴染みのユーリーだった。サラはユーリーにだけは本音を見せていたのだ。涙でぐしゃぐしゃになった顔で、悔しさを爆発させていた。他の生徒には、そんな態度を微塵も見せなかったというのに。
サラが勉学に励むのは、彼女の親の影響だった。彼女の両親は、揃って大学の教授だったのだ。
模範的であれ。完璧であれ。弱みを見せるな。一番であれ。そして、男性に負けるな。
子供の頃からユーリーはサラの両親が大嫌いだった。自分たちの価値観を子供に押し付ける大人の代表に見えていた。子供には拒否権などないのに。
ずっと押し付けられ続けた価値観ってものは、なかなか変わらないものだな。ユーリーは自分を振り返りながら、そう思っていた。自分も、フィーアのことがあるまでは、善悪の境目を見失っていたのだから。
気の抜けたような表情で、サラが返事をした。
「そうなのよね。蒸し返したら自分の身が危ないって雰囲気。なんか嫌な感じね」
サラは、シドに会うためだけに特区に来たのだろう。そうユーリーは思った。
特区の軍医認定試験は、医師国家試験の比ではない。医大を卒業して七年。サラは、仕事をしながら試験勉強をしたのだろう。なのに。ほんの数日顔を合わせただけで、シドは特区を去っていくのだ。
サラがシドに告白したところで、振られるのは目に見えていた。でも、ユーリーは思う。意地を張っている暇があったら、とっとと撃沈してしまえと。木っ端みじんになって、また一から自分を建て直せばいいのだ。
やった後悔よりも、やらなかった後悔のほうが大きい。自分が抱えている後悔のように。
自分は、フィーアが自分に依存してくれることを望んでいた。彼の心と身体を蝕むことを知りながらも、自分の欲に打ち勝てなかった。それがフィーアの自死を招いたのだ。
殺してしまった罪を償うためには、生かすための行動が必要だ。頭でごちゃごちゃ考えてる場合じゃない。動かないことには何も変わらないのだ。
そのためには、一度底まで落ちる必要がある。もうこれ以上、落ちることが出来ない穴の底に。
「特区はどこまでも実力主義だからね。ゴシップなんかじゃ、カツミの武勲には傷ひとつつけられないってことだよ」
サラにはそう説明したユーリーだったが、事の真相は知っていた。
汚い噂を流す力を持つ者なら、その伝搬が危険だと思わせることも出来る。そんな鮮やかな情報操作が可能な人物は、一人しかいないじゃないか、と。
この世界にある多くの矛盾。それは不純物ではなく起爆剤だ。濁っているからこそ世界は機能し続けているとユーリーは思っていた。
それは事実かもしれない。しかし自分の心が虚しく乾いていることもユーリーは自覚していた。手の中に残るのは、まがい物ばかり。本物などどこにもない。
だったら、どうする? ユーリーは自己に問うた。
『生かす』ためには、何が必要なんだ?
まがい物だらけのこの世界を、緩やかに死へと向かっているこの世界を、百年前のような高い志を持った国に戻すには、何が必要なんだ? いったい、何が……。
◇
交換条件を出されたアーロンは、硬い表情でひと言、いいのか? と訊き返した。黙って頷いたシドは、言葉とは裏腹にとても穏やかな笑みを浮かべている。
帰りしな、シドは視線を逸らせたままで、手紙ありがとうと呟いた。
アーロンは思う。ジェイの手紙だけが理由ではないのだろうと。だが、シドの望みはシドだけでは叶えられない。実行を決めるのは、あくまでもカツミなのだ。
シドは、カツミに拒絶されることなど微塵も想定していないようだ。まるでみずからの未来を知っているかのように。
なぜ、それほどの確信が持てるのだろうとアーロンは思う。これは狂気ではないのかと疑う。自分は、シドの凶行に加担してしまうのでは? 歯止めになるべきでは? 何より、こんなことを実現させていいのか?
次第に宵闇に包まれる中、遠ざかる車を見送る。アーロンにとって、与えられた役割は簡単なものだった。そして、彼はもうシドの提示した交換条件を承諾していた。
どこから歯車が狂いだしたのか。それともこれは狂気ではなく浄化なのか。安らぎに向けての浄化なのか。
大きな賭けだった。それに勝利する者がいるかどうかも分からない賭け。もう誰も止めることの出来ない歯車が回る。次第に加速しながら。
残された時間はわずか。言い訳はしないでおこう。
アーロンは、そう思うことにした。