第三話 本性
文字数 2,761文字
黄昏の光が射し込む室内では、サラがシドから任務の引き継ぎを受けていた。シドの説明は、学生時代と変わらず明確で適切。丁寧に記された手製マニュアルまで渡されたサラは、苦笑するしかなかった。
「他に質問は?」
事務的に確認したシドに、サラがもうないわと素っ気なく答えた。乾いた返事とは裏腹に、顔に落胆の色を浮かべて。
「雑事が多いからね。突然駆り出されるし」
「他の連中なら年俸が倍でも来ないわよ」
「じゃあ、君は?」
「貴方と仕事がしてみたかったの。まあ、やり甲斐があるのは確かよ」
「そうそう。その調子」
シドのくすくす笑いや茶化すような言い方は、いちいちサラの神経を逆なでする。だが、今日はなぜか反発する気になれなかった。
「今日から休みだったって、本当?」
「退官は二十日だけどね。腐るほど有給休暇が余ってまして」
「いいわね。やりたい事がやれて」
「君の皮肉も今日限りだから我慢するよ」
何を言ってもするりとかわされてしまう。今日のシドは、これまで以上に受け流す態度が徹底していた。最後だから波風を立てないようにしようと思っていたものの、サラは戸惑いを隠せない。
サラは知らなかった。見たことがなかったのだ。シドが、こんなふうに笑みを浮かべるのを。何がそうさせるのかと思うほどに、温かく優しく。微かな不安を覚えるほどに。
「シド」
「うん?」
「元気でね」
「……ありがとう」
一瞬置かれた間がサラの不安をあおった。しかし、それをシドに聞きただすことは出来なかった。
「なにかお祝いでもと思ってたけど、しゃくだからやめるわ。その代わり後の事は任せて。ちゃんと報告に行くから」
シドは何も答えず、ただ目を細めただけだった。
「だから、待っててよ」
「そうだね」
窓外の街灯が点灯した。薄暗かった窓の外が白い街灯に照らし出される。サラは、休日出勤のシドにずいぶんと時間を使わせてしまったことに気付いた。
「ごめんなさい。昨日のうちに時間とれなくて」
「慣れないことを言うと身体に悪いよ」
再びこぼれたくすくす笑い。シドの浮かべる柔らかな笑みは、サラの不安を煽るばかりだった。
しかしもう、彼女は不安を口に出来ない。脳裏で鋭い警告音が鳴り続けているにもかかわらず。
サラは、努めて明るい声で退官していくシドをねぎらった。
「もう! 休日任務だから気を使ってるのに。ありがと! お疲れ様でした!」
「どういたしまして」
そして、サラが警告音の意味を知ることは、もう……なかった。
◇
カツミは正解のないことをずっと考え続けていた。
どうしても譲れないことがあったからだ。
──命を奪うことだけはしたくない。その一点だけは。
でも、アーロンはドクターの存在をデータ上から消してしまう。そこに矛盾を生じさせるわけにはいかない。どうしても、彼の存在を『消し去る』必要性があるんだ。殺さずに、消し去る必要性が。
ドクターの要求を拒絶することは出来る。でもそれは、狂気に支配された彼に生きながら死ねと言うようなものだろう。自殺しないように縛り付けて、辺境の病院にでも隔離する? それこそ地獄の責め苦だ。
今日も朝から何も食べていなかった。淹れた珈琲も、手つかずのまますっかり冷めている。
カツミは思っていた。
俺は神なんかじゃない。人の最期を決めるのは神だけじゃないのか? 殺すためではなく生かすために、与えられた能力(刻印)じゃないのか?
でも……。カツミは首を横に振った。それ以前に、そんなことよりも先に、俺にはドクターが必要なんだ。ただ傍にいて欲しい。それだけなのに。
何が正解なんだ? ドクターの願いを叶えることが、彼の安らぎになるのか? それは俺にとっての安らぎにもなるのか?
死はその人の終わりを意味する。存在は無に帰す。
ドクターは死後の世界を信じているかもしれない。だけど、そんなものが本当にあるのかは誰も知らないんだ。
俺はどうなんだ? 魂があるのなら、別の世界で生きるのか? 生まれ変わるのか?
血も肉も腐って、この星の土に還るだけじゃないのか? 死骸という有機物が星の上に層を成して、次の命を育む。そして最後にはその星も死ぬ。それだけじゃないのか?
命を与えられている今だけが全て。他にはなにもない。それこそが事実じゃないのか?
そうじゃなかったら、俺はなんでここにいるんだ。他に幸せや安らぎがあるのなら、なんで……。
◇
その夜、カツミが突如ミューグレー邸を訪問した。
カツミが来ることは予測していたアーロンだったが、彼がずっと押し黙っていることに戸惑っていた。テーブルに紅茶が置かれても沈黙を守り続けているカツミに焦れて、アーロンが先に切り出した。
「準備はできてる。全員モニターしてるよ。南部はどうだったか?」
「ここと同じ木に花が咲いてた。蟻が死んだ虫を運んでたよ」
「……そうか」
アーロンは、カツミの発言の意図を理解できなかった。しかし、カツミが重大な決意をしてここに来たことだけは分かっていた。なかなか本題を切り出さないカツミに、アーロンが苛立つ。
「裏切りの抗議にでも来たのか?」
カツミはかぶりを振った。
「あんたにとっては簡単なことだろうし、利益があるのは知ってる。それに、ジェイに関することなら全部消したいんだろ? ほんとは俺だって消したかったはずだ」
「反論はしないよ。それで?」
「俺の結論を言いに来た。今後、俺と組むのなら、これから話すことに全て従ってもらう。変更はない。決定事項だ」
鋭く見据える刺すような双眸。それはまさに、刃物に例えられたカツミの父の双眸そのものだった。
そこには、決して揺るがない強い意思が宿っていた。他人の拒絶など微塵も許さない、激しさがあった。
落雷直前の大気のような、畏怖すら覚えさせる力があった。
とうとう本性を現したな。ぶるりと身震いしたアーロンが、次を促すように頷く。
「実行は二十日の0ミリアだ。明日は、そのための準備に時間を使ってもらう」
なぜ、ジェイやグレイがカツミを認めたのか。そのわけを、アーロンはあらためて思い知らされていた。
カツミに内包されている可能性。強い跳躍力。それを見抜く目を持っている者は、カツミの全てを引き出したくなるのだ。
こんな一面があったとは……。
そう思いながら頷いたアーロンは、客間の空気が重く変化していることに気付いた。カツミから放たれる圧倒されるような力。それが重力すら変えていたのだ。
超A級能力者には、意思の力すら体感させることが出来るのか? アーロンがそう思った一瞬のちだった。
カツミの下した決断の内容に、彼が驚愕で顔を強張らせたのは。