第四話 浄化と再生
文字数 4,867文字
特殊能力者部隊に所属する五十余名の隊員が勢揃いした会議場は、張り詰めた空気に包まれていた。
壇上で会議を取り仕切っていたのは、作戦司令官であるカツミ・シーバル大尉だった。
二十歳になったばかりの実戦経験の乏しい若造に何ができる。ただのお飾りだろ。そう見くびっていたメンバーの横っ面を、カツミは容赦なく引っ叩いた。
「私に君たちの命を預けてくれ。従えない者は、すぐに除隊して欲しい」
初っ端から、カツミは高らかに宣言した。どことなく漂っていたメンバー達の冷笑が一瞬で消えた。カツミは淀みなく宣言を続ける。
「本作戦は、君たちの特殊能力抜きでは遂行できない、極めて高度で困難な作戦だ。もちろんリスクも大きい。もう一度言う。本作戦の成否は、君たちが能力を極限まで使えるかどうかにかかっている」
グレイ中将をアドバイザーに据えたカツミは、最高責任者の豊富な実戦経験と、能力者でなければ遂行出来ないアクションとを組み合わせて、大胆な作戦計画を編み出した。
特殊能力者部隊のメンバーはA級とB級のみ。部隊内では少数派であり、司令部からも他の隊員からも理解されにくい立場だった。
彼らの有する能力は、宝の持ち腐れになっていたと言っても過言ではない。
カツミは彼らの能力を真正面から最大限活用することで、消耗戦になりやすい大型作戦の欠点を回避しようとした。成果は自らの初陣の時に、既に実証済みなのだ。
能力者のことは、能力者でなければ分からない。それは、超A級能力者のカツミだからこそ立案できる計画だった。
カツミの作戦説明を聞いたメンバーは色めき立った。これまで疎まれるばかりで能力を発揮する機会に恵まれなかった隊員たちの士気が、一気に沸騰した。
ルシファーの隣に座っていたユーリーが、小声でルシファーに訊いた。
「何かあったのか?」
「さあ……」
そんなの、分かってても言えるもんか。ルシファーは首を横に振るしかなかった。
ルシファーは思う。カツミは元々高い資質を持った人物なのだ。彼が能力を最大限に発揮できないのは、心が強く抑圧されているせいだ。それさえ解放できれば、いくらでも上を目指していける。
ルシファーは、昨日カツミがアーロン邸に向かったことも、そこで彼が何を言ったのかも知っていた。
選べるのは、二つにひとつしかないはずだった。
しかしカツミの選択は、ルシファーの想像をはるかに超えていた。
ルシファーは、南部から戻る途中でカツミと交わしたやり取りを思い出した。あの時、カツミはすでに決断していたのだろうか。
◇
「殺すことじゃない。殺さないための行動なんだ」
「何のことですか?」
「結果は、ぜんぶ残るんだよ」
唐突に呟かれた言葉だった。そして、ルシファーの質問にカツミは答えなかった。彼は瞼を閉ざし、その奥に言葉の意味は隠された。
カツミの決意表明? 少しの間、ルシファーは思案した。しかしすぐ、考えたところで仕方のないことだと思い直した。
車窓から吹き込む潮風。煌めくモアナの光。
風も光も波音も、言葉など必要としない。それでも、春を迎えた喜びをこんなにも雄弁に語っている。
言葉ではなく行動。思考よりも経験だ。カツミの言葉の意味は、すぐに明らかになるだろう、と。
◇
カツミの重い決断は、いのちを左右するものだった。それは同時に、カツミの強い意思表示でもあった。
その影響は個人的なことに留まらない。彼の決意は今回の作戦にも反映されているのだ。
──殺さないための行動。
それがカツミの決断だった。ジェイの死を超えるまで、カツミは自分を殺し続けてきた。自分をどこまでも貶め、死の淵に踏み入る恐怖すら鈍麻させていた。
だがカツミは、これまでの自虐的な思考をばっさり切り捨てた。常に死と向き合っていた意識の指針を、くっきりと生に向け直したのだ。
「グレイ中将は見る目があるな。恐れいったよ」
ユーリーの呟きに同意を示すようにルシファーが頷いた。だが彼は思う。カツミが本当の実力を示すのは、地上を離れてからだと。
──人望ではなく実績で。俺が言わなくたって、カツミはとっくに理解していたな。
まばたきの一瞬で、思いもよらぬほど遠くへ。
あいつには羽根があるんだろうか。どれだけ豊かな心を内包しているんだろう。俺には、あいつの果てが全く見えない。
明日は長い一日になる。そう心で呟いたルシファーだったが、すぐに思い直した。
明日だけでは終わらない。これからもずっと背負う残酷な烙印を、カツミはみずからに刻むのだろう。
会議が終了した。
カツミが他のメンバーに先立って離席した。その背にはもう、これまでの幼さは欠片もない。迷いのない背中がドアの奥に消えた。
カツミを見送ったルシファーは細く吐息を漏らした。
隣にいたユーリーから、何か問いたげな視線が向けられている。
ちらりと見返したルシファーが、ぼそりとこぼした。
「ついて行けるかなぁ」
その弱音に、ユーリーが深く頷く。
「はあ……。まったくだよ」
◇
低くたれこめた雲が雨を予感させた。夕刻の大気は、広大な墓地をセピア色に染め上げている。
ジェイの遺志で、彼の墓は特区の共同墓地に設けられていた。同じ区画に、ロイとフィーアの墓石も並ぶ。
ジェイの墓石の前で、シドはジェイの遺言ともなった手紙に火をつけた。ぱっと明るく炎を上げた手紙は、瞬く間に燃え尽きてわずかな灰になった。
自分が生きていた最後の証拠を消したシドは、灰の塊から目を離すと何も言わずにその場を後にした。
『二十日の0ミリアと、カツミが決めたそうだ』
シドは、昨夜アーロンから連絡を受け取っていた。
空白の一日。カツミは今後に繋げる重要な会議に赴き、そしてシドは……ただ過去を見ていた。
「なにか企んでるのか?」
シドの探りに、アーロンが即答した。
「一度請け負ったことは、必ず実行しますよ」
アーロンの断言を聞いて、シドは追求をやめた。いずれにせよ、全ての決定権はカツミにあるのだ。
ぽつり、と小さな雨粒がシドの頬を打った。足を止め、空を仰いだ顔に儚い笑みが浮かんだ。
雨雲を見上げながらシドは思う。
ああ。もうすぐ私は貴方に会える。必ずこの手で触れられる。この目で見つめることができる。
シドのなかで、それはもう事実だった。決して疑うことのない確信だった。
温かな雨が降り注ぐ春。歩みを進め錆びた鉄柵を開くと、シドは現実という境界線を踏み越えて行った。
紛れもなく彼の意思で。狂気という領域に向かって。
◇
──それは浄化(カタルシス)。彼もまた、導く者のための生贄(サクリファイス)。
深夜の静けさのなか、シドがカツミの部屋の前に立ち止まると、ドアはひとりでに開いた。
足を踏み入れたシドは、室内に重たい磁場を感じた。ひんやりと冷たく、それでいて包み込むような空気。重力自体が重く変化し、液体の中にいるような感覚。
シドの後ろでドアが閉まった。カツミはベッドの上に座り、色の違う双眸を薄く開いている。
「いいの?」
立ち尽くすシドにカツミが問うた。
前回のような怯えはない。きっぱりとした口調は、ただの最終確認だった。
シドの顔に安堵の笑みが浮かぶ。彼は確信していた。もう何も言わなくていい。言葉の刃を振りかざす必要はない。自分の願いは必ず叶えられるのだと。
カツミがシドに腕を差し伸べた。引かれるように隣に座ったシドに注がれる、神秘的なオッドアイの光。
「ひとつだけ聞いていい?」
カツミの前置きに、答えられることならとシドが微笑んで応じた。ひと呼吸置いて、カツミの口がわずかに開いた。
「ジェイとずっと一緒にいられるとしたら、ドクターは生きていたいと思う?」
それは、とても不思議な問い。シドが答えあぐねていると、カツミが言葉を繋いだ。
「ジェイのことだけを思って、それだけで心が満たされるなら幸せだと思う?」
「可能であるなら、どんなにかね」
シドは即答した。その顔に浮かぶ、いつもの苦笑。
「それが、私の生きる意味だったから。ジェイが人生の全てだったから。彼といたかったよ。ずっとね」
「ずっと?」
「ああ」
会話が途切れ、長い沈黙が二人の間に落ちた。シドはいつしか、眠りの淵に引き寄せられていった。ゆっくりと。手繰られるように。
やがて、静かな寝息が部屋の空気をかすかに震わせると、カツミはシドの髪を優しく撫でた。
──決別と再会は一瞬で決まる。
カツミの瞳に涙が膜を張った。滲んだ視界の先で、何も知らずにシドが小さな寝息をたてている。何も知らずに……。
「ドク……」
そう言いかけたカツミは、呼び方を変えた。
「シ……ド」
──決別と再会。浄化と再生。
カツミは思う。誰かが裁きを下すとしたら、自分はすすんで身を投げ出すだろうと。きっと。必ず。なぜならこれは、自分のエゴだから。自分の残酷な願いをシドに押し付けることだから。
特殊能力者であることの烙印。それからずっと逃げ続けていた自分の弱さ。それは自分だけではなく、自分を支えてくれた人達をも傷つけていたのだ。
能力は、他人を殺すことしか出来ないと思い込んでいた。けれど、殺さないために使うことも出来る。
カツミは自身に言い聞かせた。額に烙印を押すことを躊躇するな。二つにひとつの選択。自分の選んだことに、言い訳だけはするな、と。
すっと時計を仰ぐ。約束の時間は過ぎていた。アーロンはもう、シドの痕跡を全て消去しただろう。そう思いながら、カツミは瞼を閉じた。
「シド。貴方の存在を消すよ」
毅然としたカツミの声が、深い眠りのなかにいるシドに落ちた。その宣言と共に、部屋の空気がピシリと微かに軋む。
もう、シドを知る者はどこにもいない。この星に住む全ての人物の記憶が、カツミに操作されていた。
「貴方の記憶も」
ただ一人への想いを残し。全て。全て……。
「ごめんね」
これまで幾度、同じ言葉を呟いてきたことだろう。
擦れ違い、衝突し、もどかしさと苦悩の中で。
しかし今は違う。今は、みずから手を伸ばし奪い取ることへの謝罪だった。どんな言い逃れも出来ない非道に対する断罪だった。
自分には能力の制御が出来ない。シドの精神は崩壊寸前だった。他に方法がなかったのだ。それでも。
それでも、残酷な決断をしたのは自分だ。
この方法を選び取ったのは、自分自身だ。
「ごめん……ね」
静かな寝息を聞きながら、カツミは心のなかで祈った。許してくれなんて言わない。そんなことは決して言えない。けれど。けれど、あと少しだけ時間を下さい。あと、ほんの少しだけ待っていて下さい。傍にいて下さい。一人にしないで下さい。
「俺をひとりにしないで……」
堪えきれずにこぼれ落ちた涙が、シドの頬にぽたりと落ちた。眠っていた彼の睫毛が揺らぐ。美しいオッドアイの先で、ゆっくりとシドの瞼が開かれた。
「ジェイ?」
それが、再生されたシドの最初の言葉だった。
シドにとっての当然の言葉は、カツミの行った意識操作の成功を意味していた。
カツミを見上げたシドが、不思議そうに首を傾げる。
「泣いてるの?」
かぶりを振るカツミの涙が、再びシドの頬を濡らす。
「悲しいの?」
「ううん。嬉しいんだよ」
微笑んだカツミに、シドは嬉しそうに目を細めた。
今までのシドは、もうこの世に存在しなかった。
シドに残されたのは真っ白な自我。ジェイへの想いだけを映した自我。意識の操作で記憶を失くしたシドの精神は、幼い少年に退行していた。
「嬉しいんだ。シド」
狂気と共に、シドは現世とも決別していた。彼を知る者はほんの一握り。再生された彼にはもう、苦悩も恐怖もない。
シドの頬を手で包み込んだカツミは、その額にそっとキスを落とす。持ちうる限りの慈しみをこめて。自分自身の額に、烙印を押すかのように。
「ジェイ」
シドは何度もカツミに呼びかけていた。最愛の人の名前で。ジェイ──。その名を口にする至福に、満ち足りた笑みを浮かべながら。