第五話 今までで一番、愛情のあること
文字数 3,122文字
──姉が事故に遭った。偽の情報は能力の介入すら阻み、疑う余地を与えられなかった。
路肩に車を停めて電源を切ったルシファーは、自分の疑念の答えを探し始めた。
いったい誰が? アーロンが? 彼だったら、偽の情報を流せる。しかし、能力を阻むことなど出来るはずがない。自分はここに来るまでの間、ずっと『探って』いたのだ。そして、『聞いた』ことは疑いようのない事実だと思った。今の今まで。
何かある。しかしすぐに引き返せば。
そう思った瞬間、ルシファーの脳裏に鮮明な映像が飛び込んできた。爆発。火柱。そして立ちのぼる黒煙。
「あの野郎……」
高速道路で事故が起こっていた。ルシファーにはすぐに分かった。アーロンが仕組んだものだ。
カツミから引き離された。そう思った時。ルシファーは先ほどの疑念の答えに思い当たり、愕然とした。
自分の能力を上回る人物は、一人しかいないじゃないか。引き離したのは第三者じゃない。
「カツミ」
ルシファーの口から、その人の名がこぼれ出る。
まさか今夜に? まさかシドを? 早すぎる。カツミはまだ、決めかねていたはずだ。ではなぜ?
特区までの距離はあったが、ルシファーは意識を飛ばす。その脳裏に、二人の人物の葛藤と苦悩がまざまざと映し出されていった。
◇
0ミリアをまわったとたん、部屋のブザーが鳴った。
まだなんの答えも出していなかったが、カツミは部屋のドアを開けた。怯えた硬い表情を浮かべて。
「そんな顔されると困るな」
「そうさせてんのは、ドクターじゃないか!」
カツミの反論を、乾いた断言が押し戻す。
「そうだな。でも、もう私は存在しなくなる。この世のどこにもね」
シドの存在を証明するデータは、アーロンの手でもうすぐ全て消される。残るのは他人の記憶。加えてシドの肉体そのもの。この二つの消去をシドはカツミに強要していた。殺人の強要だった。
「今日はルシファーがいないんだね。彼が監視でもしてるみたいに離れなかったから、なかなか来れなかったよ。私と会いたかったんだろう?」
「ドクターの真意を知りたかったんだ。だから、ルシファーには引いてもらった」
「ほお。私の真意ね」
「アーロンのすることは取り消しがきいても、俺に言ってることは絶対的なことだ。なんでそんな要求に応えなきゃならないんだよ」
「それだけのことをしたからさ」
重く低く落とされた断言。顔を凍りつかせたカツミとは対照的に、シドは微笑みすら浮かべていた。
戸惑うことなく人を傷つける。そんなことができる残忍な笑み。自分の方こそ正義と信じて疑わない視線。そこにいたシドは、これまでとまるで別人格だった。
「いやだ!」
上擦った声が部屋の空気を震わせた。それは、カツミが初めて明確に示した拒絶。
「本当の気持ちを言ったね」
だが、シドは全く動じない。
「カツミが何を言っても私は譲らないよ。話すことなんかない。結果だけが欲しいんだ。超A級能力者が何をできるかくらい知ってるよ。簡単なんだろう? 私は跡形もなくなって、灰すら残らない。他人の記憶もなくなるんだ。お前を咎める者などいないよ」
シドがカツミに突き付けたのは、狂気の見え隠れする無慈悲な刃。理不尽な要求をしながらも、それを理不尽と思わせない威圧感。
自分の要求が通るまで、どこまでも追い詰めてやるという、悪魔のような冷たく執拗な意思だった。
カツミには、意識の操作も殺人であっても息を吸って吐くように実行できた。しかし、可能であることと、やりたいことは違う。いくら隠蔽できると言っても、殺人などできるわけがない。
カツミはずっと思っていた。この一線を超えてしまえば、自分は人間の資格を失う。バケモノ以下の存在に堕ちてしまう。そんなものには絶対になりたくないと。だからこその能力の封印だった。
──それだけのことをした。
シドから突き付けられた残酷な刃。
カツミは煩悶(はんもん)した。ジェイを奪ったことが、殺人の罪と等価だというのか? そこまで憎まれて当然というのか?
「憎んでるの?」
「今までで一番、愛情のあることを言ってるつもりなんだけどね。私らしくないかな?」
浅はかさを嗤うような視線が、カツミに突き刺さる。
「私らしくって、ドクターの考えじゃないんだね」
「そう。私はジェイとは違って自分に甘いからね」
「ジェイが望んだことだって言うの? そんなこと、ジェイが望むはずないじゃないか!」
「ジェイはカツミが能力を解放することを望んでた。自分の能力を拒むことは、自分自身を拒んでいるのと同じだ。今のままじゃ、お前は自分のことを好きになどなれない。違うか?」
カツミは俯いてしまった。そうなのだ。ジェイは言った。自分を好きになれと。つまりは、自分の能力を受け入れろと。しかし、自分には能力のコントロールが出来ない。今すぐどうこう出来ることじゃない……。
なぜ、シドは待ってくれないんだろう。そんなに急かすんだろう。シドを殺すことで、俺が自分のことを好きになれるなんて、本気で思ってるのか?
「ずっと一緒にいられると思ってたのに」
カツミが、ぽつりと辛さを口にした。自分とシドとの想いの違いに愕然としていた。
形は違っても同じ想いを抱えた二人。それを穏やかに昇華できるまで寄り添っていけると思っていた。思っていたのに……。
「そう出来れば、どんなに良かったろうね」
だが、シドの冷たい返答は既に過去形だった。
「カツミ。憎んでるかって訊いたけど、私は憎しみのない愛情なんて信じないよ。愛情と憎しみは背中合わせにある。憎むことも出来ないような軽薄な愛情なんて、いらないね。私は、お前に逃げ道など与えないよ」
「ジェイなら違う方法を選ぶってこと?」
「あの人は、全てを見透かして結果まで知ってしまう。よほどじゃないと行動になんか移せないよ。いつも待つだけだ。相手のことが見えすぎるから、憎むほど愛すことなんて出来やしないよ」
「……それって」
「私の本音だよ!」
パンッ! きっぱりと断言した直後、シドがカツミの頬を叩いた。その手がカツミの顎をぐいっと持ち上げる。しかしカツミは全く抵抗しない。気を削がれたシドは、すぐに手を引いた。
生への執着は本能だとカツミは思っていた。そう教えられたのだ。ジェイに。今まさに目の前にいる、シドの求める者に。だがシドにはもう、違う意味での執着しかない。彼の目に現実は映っていないんだ……。
カツミがぶるりと身体を震わせた。事実を知ってしまったからだ。狂気がシドの背中を押していることを。後ろから急かしていることを。
シドの怒声が部屋の空気を切り裂いた。
「一度くらい怒ってみたらどうなんだ? まったくお前には苛々するよ!」
「ドクター」
「いつもいつも縋るような目で見て! どうぞ哀れんで下さいと言わんばかりにね! 甘ったれるのもいい加減にしたらどうなんだ!」
「……言われなくても分かってるよ」
何を言っても空回りする。口にした分だけ、どんどんこじれていく。そこに共通するものはない。全てが捻じ曲げられていくのだ。
もはや言葉は凶器でしかなかった。
「なにが? 分かってるって?」
苛立ちを吐き散らしながら、シドはそのままドアに向かった。明日また来ると、叩きつけるように言い捨てて。
残されたカツミは、ただ悄然としていた。
悲しさや悔しさ、言葉に出来ない思いがない交ぜとなる中で、もう涙すら浮かんでこない。
「置いてかないで」
蔑みの滲んだ目。あんな目で見られるとは、カツミは夢にも思っていなかった。