幼馴染

文字数 1,035文字

  商家の小僧の一日は目まぐるしい。その日も薬種問屋富里屋の小僧の千太は、昼飯をかき込んでから独楽鼠(こまねずみ)のように立ち働いていた。それで、船が着いたから荷受けを手伝えと言われたのが、何時のことなのか覚えていなかった。まだ外が明るかったことは確かである。だから、自分たちが荷物を下している船の後ろに着いた猪牙(ちょき)船の上で、風にあおられた(むしろ)の下から覗いた幼馴染の顔を見つけて驚いたのだ。なにしろ、その女の子は、縄で縛られ、猿轡(さるぐつわ)をはめられていたのだから。

 荷運びの列の最後尾にいた千太は、他の奉公人が蔵へ入って行くのを確かめると、ちゅうちょなく手に持っていた荷を地面に置いて、猪牙船にひらりと乗り移った。

 「おみよちゃん」
 
 千太が急いで縄をほどくと、おみよは自分で猿轡(さるぐつわ)を引き外し、千太の手を借りて河岸に飛び移った。

 「一体どうしたんだ?」
 「私、人さらいに捕まったみたい」
 「に、逃げなきゃ、おみよちゃん」

 千太は皆が戻って来る前に、おみよの手を引いて路地に入った。堀の方で大きな声がする。おみよをさらった者も船に戻って来たのだ。二人は全速力で店の間の細い路地を抜け、大通りの人込みに紛れた。そぞろ歩く武士の集団を見つけ、その側を小走りで離れぬように歩いた。

 「どこに行くの?」
 「わからねえ、とにかくここを離れよう」
 「千ちゃん、私、家に帰りたい」
 「おみよちゃんの家は反対側だ。今はもどれねえよ」
 「じゃあ、どこに行くのよ」
 「とりあえず、俺んちの方だ」

 千太はおみよを乗せていた船の漕ぎ手ともう一人の男が、富里屋に入っていったのを見ていた。店には戻れない。千太がいなくなれば、家にも探しにくるかもしれない。

 「おみよちゃん、どこでさらわれたんだ」
 「手習いの帰りに、家の近くで」
 「なら、人さらいはおみよちゃんの家も知ってるかもしれない」
 「番屋は?」
 「だめだ。子供の言うことなんか信用してくれないよ。追っかけて来た大人に言いくるめられておわりだ」

 おみよはべそをかき出した。千太はおみよの手をしっかり握りしめて、一直線に富里屋から離れて行った。大通りまで追いかけて来た男たちは、人の多さに舌打ちをした。後から通りに出て来た富里屋の番頭が、あわてて男の一人を捕まえた。

 「この通りで騒ぎを起こすのはやめておくれ。この辺りの岡っ引きはうるさいんだよ」
 「逃がしていいのかよ」
 「子供のことだ、行き先は家しかないよ」

 男たちは千太の家を教えられると、すぐに麹町に向けて歩き出した。
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登場人物紹介

笠原真輔(旧姓:立花)…旗本の次男坊だが、縁あって八丁堀同心の家に婿に入り、亡くなった義父の後を継いで町廻り同心をしている。婿入りまで算学を学んでいた。妻の百合と心が通じ合えるようになり、町廻りの仕事にもやりがいを感じている。

笠原百合…八丁堀同心の一人娘。父を亡くし、失意の中で真輔を婿に迎える。わけあって、真輔を受け入れられずにいたが、少しづつ心を通わせ思いあう仲になり、本来の自分を取り戻していった。

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