星月夜
文字数 2,000文字
すっかり陽が落ちた大川を、猪牙が滑るように上って行く。風のない晩であった。新月では月明りは頼れず、船頭は、川岸の明かりと舳先の提灯を頼りに漕いでいた。
「漕ぎずらい晩かな?」
船に乗っていた編み笠の侍が船頭に聞くと、
「雨も風もないのに漕ぎにくいなんてこたぁありませんや。上をご覧になってください。こういう夜は星がことのほか綺麗でございますよ」
見上げた空は雲一つなく、星々が今宵だけは月に遠慮なく輝いているように見える。
「星月夜か…」
ほどなく猪牙は船着き場に泊まり、迎えの侍が提灯を差し出した。
「お待ちしておりました、成久様」
「遅くなってすまん」
「ご母堂がお待ちかねです」
「宴は盛り上がっているか?」
「はい、それはもう」
編み笠の侍、南町奉行筆頭与力の池田成久は、迎えの男と共に武家屋敷の続く道に入っていった。
「母上にはご機嫌麗しゅうあらせられ…」
「堅苦しい挨拶はおやめなさい。成元が待っていますよ」
「兄上は離れですか?」
「私たちはこちらで楽しくやりますから、ごゆっくり」
池田成久は、親同志が友人であった池田家へ養子に入っていた。今夜は、生家である旗本後藤家で行われている母の還暦の祝いを理由に、兄で幕府目付方与力を勤める成元と内々の話をしに来たのだった。くれない屋と精丸堂の夫婦の評定が終わって、十日ほどが経っていた。池田の妻子はすでに屋敷に来て、女子供での祝いの宴は始まっていた。奉行所での勤めを終えてようやく到着した息子に、母親は時間を無駄にさせなかった。
離れには、酒肴と酒が用意され、待ちわびたらしい兄が手酌で飲んでいた。
「遅くなりました」
「あいかわらず忙しそうだな」
「兄上こそ、忙しいのでは?」
「うん、それが、薩摩の下屋敷の件は手詰まりでな。それで、こうしておまえを待っていたのよ」
兄は弟の杯を満たしながら、ため息をついてみせた。離れて育っても、仲の良い兄弟である。奉行所の役人として世情に通じている弟の見識に一目置いていた。
「残念ながら、さして、はっきりとした進展はありません。ただ、うちの笠原がひとつ筋書を書いてきました」
「ほぉ。例の算学者か」
「はい。夏に起きた河内屋の騒動は、兄上もご存じでしょう。その時、河内屋に触手を伸ばした男がいまして、その男と今度の下屋敷での芥子栽培の黒幕と考えられる男が同じ人物だというんです」
「証拠はあるのか?」
「いえ、そう考えると男の目的が見えるからだそうです」
「薩摩が、アヘンを河内屋を使って幕府の要人にばらまき、幕府を転覆させるとでも?」
兄の目つきが険しくなった。真輔の筋書を聞いた時、その場にいたのは、池田と土井、戸崎に河内屋の件で働いた大崎と萩原、どれも池田が信頼できる同心たちである。池田をはじめ、少なからぬ者が兄の説に近い理由を想像していた。しかし、真輔はきょとんとした顔で、
「アヘンの販路が目的だと思います」
と言い切った。
「アヘンは高価なので、河内屋の顧客の金持ちを取り込んでさばくつもりだったとすると、河内屋とくれない屋の件は素直に繋がります」
真輔の説を聞いた成元は、
「ふむ。先の目的は何にせよ、アヘンの販路として河内屋を使えるようにしようとしたのは筋が通るか」
「あやふやなことは省いて、わかっていること、わからないとはっきりしていることだけを考えればいいんだそうです」
「考え方の説明はいらねえよ。それで、その筋書に当てはまる男はいたのか?」
べらんめえ口調が出始めた兄の問いに、弟は苦笑しながら杯を置いた。
「いえ、まだ。河内屋の件以降、表に出ないようにしているようですが、姿かたちはかなりはっきりしましたので、目を光らせているところです」
「江戸は人が多すぎる、難しいかもしれんな。芥子の栽培の件で薩摩に探りを入れても無駄だだろうから、しばらくまかせるよ。必要があったらいつでも言ってくれ。ところで、俺の方は、その算学者の実家を少し調べてみたよ」
「笠原の実家ですか?兄が一人おりますが」
「うん、そちらも出来物のようだ。門番にしておくのは惜しい人材なので、目付方に引っ張ってやった」
「ほう。確か、かなりの使い手とか」
「うむ。この一件では、目付方と町奉行所が手を携 えなきゃいけねぇかもしれないからな」
だいぶ酒の入った成元が障子を開けた。さきほどと変わらず晴れ渡った夜空に、星だけが瞬いている。
「なぁ、今は徳川という月が新月になっちまってるようなもんだ。この隙に月になりかわろうという星がある。どこかの藩か、あるいは海の向こうの国か…」
「そうだとしたら、足元の民の暮らしは固めておかねばなりません。月がどうなっても、人は生きて行かねばなりませんから」
母屋のにぎやかな笑い声が、庭を渡って入って来た。兄弟はその声を聞きながら、しばらく黙って杯をかわしていた。
「漕ぎずらい晩かな?」
船に乗っていた編み笠の侍が船頭に聞くと、
「雨も風もないのに漕ぎにくいなんてこたぁありませんや。上をご覧になってください。こういう夜は星がことのほか綺麗でございますよ」
見上げた空は雲一つなく、星々が今宵だけは月に遠慮なく輝いているように見える。
「星月夜か…」
ほどなく猪牙は船着き場に泊まり、迎えの侍が提灯を差し出した。
「お待ちしておりました、成久様」
「遅くなってすまん」
「ご母堂がお待ちかねです」
「宴は盛り上がっているか?」
「はい、それはもう」
編み笠の侍、南町奉行筆頭与力の池田成久は、迎えの男と共に武家屋敷の続く道に入っていった。
「母上にはご機嫌麗しゅうあらせられ…」
「堅苦しい挨拶はおやめなさい。成元が待っていますよ」
「兄上は離れですか?」
「私たちはこちらで楽しくやりますから、ごゆっくり」
池田成久は、親同志が友人であった池田家へ養子に入っていた。今夜は、生家である旗本後藤家で行われている母の還暦の祝いを理由に、兄で幕府目付方与力を勤める成元と内々の話をしに来たのだった。くれない屋と精丸堂の夫婦の評定が終わって、十日ほどが経っていた。池田の妻子はすでに屋敷に来て、女子供での祝いの宴は始まっていた。奉行所での勤めを終えてようやく到着した息子に、母親は時間を無駄にさせなかった。
離れには、酒肴と酒が用意され、待ちわびたらしい兄が手酌で飲んでいた。
「遅くなりました」
「あいかわらず忙しそうだな」
「兄上こそ、忙しいのでは?」
「うん、それが、薩摩の下屋敷の件は手詰まりでな。それで、こうしておまえを待っていたのよ」
兄は弟の杯を満たしながら、ため息をついてみせた。離れて育っても、仲の良い兄弟である。奉行所の役人として世情に通じている弟の見識に一目置いていた。
「残念ながら、さして、はっきりとした進展はありません。ただ、うちの笠原がひとつ筋書を書いてきました」
「ほぉ。例の算学者か」
「はい。夏に起きた河内屋の騒動は、兄上もご存じでしょう。その時、河内屋に触手を伸ばした男がいまして、その男と今度の下屋敷での芥子栽培の黒幕と考えられる男が同じ人物だというんです」
「証拠はあるのか?」
「いえ、そう考えると男の目的が見えるからだそうです」
「薩摩が、アヘンを河内屋を使って幕府の要人にばらまき、幕府を転覆させるとでも?」
兄の目つきが険しくなった。真輔の筋書を聞いた時、その場にいたのは、池田と土井、戸崎に河内屋の件で働いた大崎と萩原、どれも池田が信頼できる同心たちである。池田をはじめ、少なからぬ者が兄の説に近い理由を想像していた。しかし、真輔はきょとんとした顔で、
「アヘンの販路が目的だと思います」
と言い切った。
「アヘンは高価なので、河内屋の顧客の金持ちを取り込んでさばくつもりだったとすると、河内屋とくれない屋の件は素直に繋がります」
真輔の説を聞いた成元は、
「ふむ。先の目的は何にせよ、アヘンの販路として河内屋を使えるようにしようとしたのは筋が通るか」
「あやふやなことは省いて、わかっていること、わからないとはっきりしていることだけを考えればいいんだそうです」
「考え方の説明はいらねえよ。それで、その筋書に当てはまる男はいたのか?」
べらんめえ口調が出始めた兄の問いに、弟は苦笑しながら杯を置いた。
「いえ、まだ。河内屋の件以降、表に出ないようにしているようですが、姿かたちはかなりはっきりしましたので、目を光らせているところです」
「江戸は人が多すぎる、難しいかもしれんな。芥子の栽培の件で薩摩に探りを入れても無駄だだろうから、しばらくまかせるよ。必要があったらいつでも言ってくれ。ところで、俺の方は、その算学者の実家を少し調べてみたよ」
「笠原の実家ですか?兄が一人おりますが」
「うん、そちらも出来物のようだ。門番にしておくのは惜しい人材なので、目付方に引っ張ってやった」
「ほう。確か、かなりの使い手とか」
「うむ。この一件では、目付方と町奉行所が手を
だいぶ酒の入った成元が障子を開けた。さきほどと変わらず晴れ渡った夜空に、星だけが瞬いている。
「なぁ、今は徳川という月が新月になっちまってるようなもんだ。この隙に月になりかわろうという星がある。どこかの藩か、あるいは海の向こうの国か…」
「そうだとしたら、足元の民の暮らしは固めておかねばなりません。月がどうなっても、人は生きて行かねばなりませんから」
母屋のにぎやかな笑い声が、庭を渡って入って来た。兄弟はその声を聞きながら、しばらく黙って杯をかわしていた。