命綱

文字数 1,195文字

 くれない屋の主人の与一郎は、走らずにはいられなかった。しかし、与一郎の走りは足がもつれがちで、本人が思うほどには進んでいない。それでも走りなれない体は息が切れ、ようやくの思いでくれない屋に駆け込んだ時には、居合わせた客に挨拶をする余裕もなかった。

 「だ、旦那様…」

 帳場にいた番頭は驚いて腰を浮かせながら、両手を泳がせて店の奥に進む与一郎を見送った。与一郎は自室にたどり着くと、荒い息のまま襖をきっちりと閉めてへたり込んだ。そして、震える手を握りしめ、必死に頭を働かせようとしたが、頭の中では番屋の前で見た立て札の文字がぐるぐると回るばかりであった。

 『この者たちを見かけたら知らすべし
  本石町 精丸堂主人孝三 女房おさん 娘おみよ』

 続けて書かれた人相書きを読む必要はなかった。精丸堂の一家とは、店を世話した折に何度も顔を合わせている。息が整ってきて、ようやく頭が回り出した。

 「(孝三一家がいなくなった…、では、あれは、あれはどうなったのだろう…)」

 今度は両手で頭を抱え込む。

 「あのぅ旦那様…」

 襖の外から番頭に声を掛けられ、ようやく我に返った。

 「な、何の様だい?」
 「はい、お城の表使いの滝川様から御文が届いております」
 「そうか、では文だけ置いて、おまえは店に戻りなさい」
 「は、はい。でも旦那様、在庫がはけておりませんので、どうか買取は…」
 「わ、わかっています!」

 思いのほか語気が荒くなった。番頭は襖を少しだけ開けると、畳の上に(ふみ)を置いて下がって行く。与一郎は恨みがましい眼差しで置かれた文を見つめていたが、ふと思いつき、文を取り上げ中を読んだ。滝川は、大奥の表使いとして買い物を取り仕切っているが、その資金の足しに不要になった衣装をくれない屋に卸していた。父の代に始まった滝川との付き合いは親密で、くれない屋は滝川の様々な望みに答えて来ていた。

 「(先日の痛み止めはことのほか効き目がありました。こちらより送った品物の代金に代えてかまわぬので薬は早急に届けて頂きたい…滝川。
 そうか、これは、私の命綱だ…)」

 青ざめていた顔に血の気が戻り、その口元には笑みさえ浮かんできた。文を手に、床の間の掛け軸の裏に埋め込まれた金庫の扉を開けると、大切そうに置いた。重ねられた、たくさんの文の束の上に。与一郎は、亡くなった父親の言葉を思い出していた。

 「いいかい、頂いた御文はいざという時の命綱だからね」

 父親が思っていたいざという時とは違うかもしれないが、保身のためであることに替わりない。

 「(あれが奉行所に見つかっていたとしても、知らぬ存ぜぬで通すのだ。それが通じなければ、命綱に頼ればよい)」

 与一郎は、腹を括った。父親が一代で起こしたこの店の商売が急速に傾き出したのは、幕府の出した身勝手な改革のせいだ。だから、その幕府に、武士達に、自分を罰する資格などないのだと。

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登場人物紹介

笠原真輔(旧姓:立花)…旗本の次男坊だが、縁あって八丁堀同心の家に婿に入り、亡くなった義父の後を継いで町廻り同心をしている。婿入りまで算学を学んでいた。妻の百合と心が通じ合えるようになり、町廻りの仕事にもやりがいを感じている。

笠原百合…八丁堀同心の一人娘。父を亡くし、失意の中で真輔を婿に迎える。わけあって、真輔を受け入れられずにいたが、少しづつ心を通わせ思いあう仲になり、本来の自分を取り戻していった。

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