虫食い算
文字数 1,720文字
翌日、休みを貰った真輔が小石川の薬園へ千太とその母、弟を伴い、百合は佐吉と共におみよを番町の中村家に連れて行った。その帰り、真輔と百合は番町にある真輔の実家に泊まり、翌朝、八丁堀に帰ることにしていた。立花の家では、兄の子である姪、甥が手習いから早々に帰宅し、二人を待ち構えていた。陽が落ちてから、真輔が立花の家の玄関先に着くと、奥から子供たちの歓声が聞こえる。
「真輔様のお帰りです」
と中間が奥に声かけると、甥が玄関に駆け込んで、
「叔父上、お帰りなさい」
とまとわりつき、後から百合と一緒に現れた姉娘の姪に、一喝される。
「健輔、お行儀の悪い!叔父様、お帰りなさいませ」
姪の幸枝は、百合と並んで座り、すまし顔で手をついた仕草が様になっている。
「楽しそうだな、健輔」
「叔母上に算学の問題を出していただいて、姉上と一緒に解いていたのです。私の方が先に解いたのです!」
「私もすぐに解けました!」
「算学の問題?百合が?」
真輔が刀を渡しながら百合に聞く。
「千太に教わった問題です。いくつか書き取っていたので」
「そうか。二人ともできたのか、すごいな。後で二人が使えそうな算学の本を探しておいてやろう」
「ほんと!」「叔父様、ありがとう」
今度は二人に両側からまとわりつかれた。
夕餉の席には、勤めを終えた兄も加わり、にぎやかで和やかなひと時を過ごせた。食事を終えると、真輔は、笠原家に婿に入る前に使っていた部屋に入り、置きっぱなしにしていた本を整理しはじめた。甥や姪が使えそうなもの、耕助に渡す専門書、手元に持っていたいもの、と山を分けていると、台所仕事の手伝いを終えた百合が入って来た。たくさんの本の山を前にして、
「これほど打ち込んでいらしたものを止めるのは辛いのではありませんか…」
心配気に真輔の顔を見上げた。
「区切りをつけねばならぬ頃合いだったのだ。私には耕助ほどの才はない。ああ見えて、あいつは天才なんだよ」
「まだ、お若いのに?」
「天賦の才は幼いうちから出るものだよ。耕助は農家の三男坊だが、幼い頃から暗算で大人を驚かせていたそうだ。そこの庄屋が、うちの塾の先生に、面倒を見てくれと送り込んで来たんだ」
「まぁ」
「見てくれに構わない奴だから、そうは見えないだろうけれど」
真輔の言葉に百合は首をすくめる。
「ぜひ、お食事にお呼びしてください。千太たちを助けてくれたお礼をしていませんし」
「うん、そうしよう。ところで、二人にどんな問題を出したんだ?」
「これです」
「虫食い算か。千太が得意な問題だ…」
真輔がふいに考え込み始めた。
「どうされたの?」
「いや、捕り物は虫食い算のようなものだな、と思ってね。事の成り立ちを記していくと、正体の見えない者が立ちはだかる。あれこれ推測して当てはめると答えのわかる穴もあるが、埋まらぬ穴もある」
「おみよちゃんをさらう手筈をした者…」
「うん…」
「私には話せないことが、まだ色々あるのですね?」
「すまぬ」
「いいえ、八丁堀育ちですから、万事承知しております」
「それと、富里屋には近づかないでくれ」
「それも承知しております」
頷く百合は、一緒になった頃に比べて、数段逞しくなったように見える。それは、同心の仕事の厳しさが身に染みてきている真輔にとって、ありがたいことだった。
床に就いてからも、真輔の頭の中には埋まらぬ穴が居座り、少ない手がかりを捻 りまわさずにはいられなかった。手がかりの少ない虫食い算は、答えがでない。だが、二つの問題が同じ答えを持っていれば、解ける。
「そうか!」
真輔は、いきなり体を起こして叫んだ。隣で寝ていた百合は驚いて目をさまし、心配そうに真輔を覗き込んだ。
「起こしてしまったな、すまぬ。虫食い算の解き方の新しい道を思いついたので、つい」
「今から解かれるのですか?」
「いや、この問題を解くには助力がいる。明日、奉行所に行ってからだ。さあ、寝よう、明日は早い」
さっさと枕に頭を置いた真輔の布団を直すと、百合はゆっくりと横になった。その百合の手を、隣から腕を伸ばしてきた真輔の手が触れる。そっと握り返すと、強く握り返された。
「真輔様のお帰りです」
と中間が奥に声かけると、甥が玄関に駆け込んで、
「叔父上、お帰りなさい」
とまとわりつき、後から百合と一緒に現れた姉娘の姪に、一喝される。
「健輔、お行儀の悪い!叔父様、お帰りなさいませ」
姪の幸枝は、百合と並んで座り、すまし顔で手をついた仕草が様になっている。
「楽しそうだな、健輔」
「叔母上に算学の問題を出していただいて、姉上と一緒に解いていたのです。私の方が先に解いたのです!」
「私もすぐに解けました!」
「算学の問題?百合が?」
真輔が刀を渡しながら百合に聞く。
「千太に教わった問題です。いくつか書き取っていたので」
「そうか。二人ともできたのか、すごいな。後で二人が使えそうな算学の本を探しておいてやろう」
「ほんと!」「叔父様、ありがとう」
今度は二人に両側からまとわりつかれた。
夕餉の席には、勤めを終えた兄も加わり、にぎやかで和やかなひと時を過ごせた。食事を終えると、真輔は、笠原家に婿に入る前に使っていた部屋に入り、置きっぱなしにしていた本を整理しはじめた。甥や姪が使えそうなもの、耕助に渡す専門書、手元に持っていたいもの、と山を分けていると、台所仕事の手伝いを終えた百合が入って来た。たくさんの本の山を前にして、
「これほど打ち込んでいらしたものを止めるのは辛いのではありませんか…」
心配気に真輔の顔を見上げた。
「区切りをつけねばならぬ頃合いだったのだ。私には耕助ほどの才はない。ああ見えて、あいつは天才なんだよ」
「まだ、お若いのに?」
「天賦の才は幼いうちから出るものだよ。耕助は農家の三男坊だが、幼い頃から暗算で大人を驚かせていたそうだ。そこの庄屋が、うちの塾の先生に、面倒を見てくれと送り込んで来たんだ」
「まぁ」
「見てくれに構わない奴だから、そうは見えないだろうけれど」
真輔の言葉に百合は首をすくめる。
「ぜひ、お食事にお呼びしてください。千太たちを助けてくれたお礼をしていませんし」
「うん、そうしよう。ところで、二人にどんな問題を出したんだ?」
「これです」
「虫食い算か。千太が得意な問題だ…」
真輔がふいに考え込み始めた。
「どうされたの?」
「いや、捕り物は虫食い算のようなものだな、と思ってね。事の成り立ちを記していくと、正体の見えない者が立ちはだかる。あれこれ推測して当てはめると答えのわかる穴もあるが、埋まらぬ穴もある」
「おみよちゃんをさらう手筈をした者…」
「うん…」
「私には話せないことが、まだ色々あるのですね?」
「すまぬ」
「いいえ、八丁堀育ちですから、万事承知しております」
「それと、富里屋には近づかないでくれ」
「それも承知しております」
頷く百合は、一緒になった頃に比べて、数段逞しくなったように見える。それは、同心の仕事の厳しさが身に染みてきている真輔にとって、ありがたいことだった。
床に就いてからも、真輔の頭の中には埋まらぬ穴が居座り、少ない手がかりを
「そうか!」
真輔は、いきなり体を起こして叫んだ。隣で寝ていた百合は驚いて目をさまし、心配そうに真輔を覗き込んだ。
「起こしてしまったな、すまぬ。虫食い算の解き方の新しい道を思いついたので、つい」
「今から解かれるのですか?」
「いや、この問題を解くには助力がいる。明日、奉行所に行ってからだ。さあ、寝よう、明日は早い」
さっさと枕に頭を置いた真輔の布団を直すと、百合はゆっくりと横になった。その百合の手を、隣から腕を伸ばしてきた真輔の手が触れる。そっと握り返すと、強く握り返された。