百合の探索
文字数 3,166文字
元深川芸者のお染は、今は旗本の女隠居で俳人の中村江紗の元で女中をしている。名前も、本名のそらに江紗が漢字を当ててくれた、穹を名乗っている。今日は休みをもらい、仕事を世話してくれた八丁堀の笠原家へ礼に向かおうと、道を聞き聞き、組屋敷の中を進んでいた。
気持ちよく晴れ渡った秋空の下で、百合は玄関脇の植木に水やりをしていた。父が丹精していた柘植 の木は、今は真輔がおそるおそるはさみを入れている。視線を感じて、ふと目を上げると、門の前に若い女が立ってこちらを伺 っている。髷も小さく、着物も木綿に地味な縞模様だが、うりざね顔に切れ長の目が少し寂しげだが美しい女だった。
「何か御用でしょうか?」
百合が話しかけると、ほっとしたように返事をした。
「あの、こちらは笠原様のお宅でしょうか?」
「はい、そうですが」
「初めまして、深川で芸者をしておりましたお染でございます。今は穹と名乗っております。この度は、奉公先をお世話いただきましてありがとうございました。遅ればせながら、お礼を申し上げたくお邪魔いたしました」
「まあ、遠いところをようこそ、さあ、おあがりくださいませ。あいにく主人は勤めに出ておりますが」
「いえ、今日は奥様にお礼を申し上げたかったのです。私の奉公のことで御尽力いただいたそうで」
河内屋の妾だったお梅の死から、置屋の鶴屋がとりつぶされ、そこで働いていたお染は芸者を辞めて奉公先を探すことになった。女主人に仕えたいというお染の望みは、この江戸ではなかなか難しく、口入屋ではみつからなかった。栄三郎からそのことを聞いた百合が、真輔の実家で耳にした、近くの旗本の女隠居が女中を探しているという話を思い出し、紹介したのだった。
百合がお染に会うのは、今日が初めてである。だが、居間で向き合うと、歳の近い二人はすぐに打ち解けることができた。穹は、中村江紗の家で仕事の合間に手習いなど教えてもらえること、名前に漢字を当ててもらったことなど、新しい生活での喜びを語り、百合はそれを嬉しく思いながら聞いていた。
「中村先生は、手習い所まで教えに出かけていらっしゃるんですか?」
「はい、10日に一度、本石町まで行かれるので、私もお手伝いをしにお供をしております。中村先生の教え子は、大きな子ばかりですが、そこはやはり子供のことですから色々手がかかることもあって」
「墨で着物を汚したり…」
「はい、他にも忘れ物とか…」
穹の顔が、何か気にかかることがあるように曇った。
「忘れ物に何か困ったことがあったのですか?」
「はい、昨日がたまたま本石町に行く日だったのですが、やはり忘れ物があり、帰りがけに届けに行ったのですが…」
忘れ物をしたのは、生薬屋精丸堂の一人娘おみよだった。穹が行った時には店がすでに閉まっていた。声を掛けても誰も出てこない。陽が翳りを見せる前なので不審に思って隣の店の者に聞くと、やはり首を捻 って、夫婦二人の店なので、何か出かけることがあれば店を閉めるが、いつも声を掛けて出るのに、という返事だった。
「それに、昼間におみよちゃんが、今日はお父っあんもおっかさんも薬づくりが忙しいので、自分は一人でおさらいをする、と言っていたんです」
「その忘れ物はどうされました?」
「今日、持ってきました。遠回りですが、帰りに寄ってみようと思っています」
「それで、一緒に本石町まで行ったのか」
帰宅した真輔が、着替えながら驚いたような声を上げた。真輔の羽織をたたんでいた百合はすました声で答えた。
「はい、私も気になりましたから。店が開いていたらそれでよし、閉まっていたら大家に尋ねるべきだと思って」
「で、どうだったんだ」
真輔は好奇心に駆られたようだった。
「閉まっておりました。続きは夕餉を取りながらお話しますね」
「えっ…」
じらされて不満顔の真輔を後に、百合はそそくさと台所へ向かってしまった。
夕餉の席では、女中のおまつも、その亭主で真輔の中元を勤める佐吉も共に膳を並べて取るのだが、二人とも、百合の本石町での顛末を聞くのを楽しみにしていたようだった。
「穹さんから下り酒を頂きましたので、どうぞ召し上がれ」
「これは、上等だな」
「中村家の当代は御広敷御用人をお努めで、諸国の物産がお試しいただきたいと届けられるのだそうです。江紗先生が穹さんに持っていくようにおっしゃってくださったんですって」
「ありがたく、皆で頂こう」
杯を空けると、百合の口が滑らかになった。
「大家さんの家を尋ねて、さっそく二人でまいりましたの」
「大家は何か知っていたのか?」
「いいえ。とにかく一緒に精丸堂へ来てもらったのですが、表戸は閉まっているので途方にくれるばかりで、役に立たないのです」
滑らかな上に辛辣になっている。真輔は慎重に次の質問をした。
「どうやって、中に入ったんだ?」
「あら、ご存じなの?」
「い、いや、入ったに違いないと思っただけだ。わざわざ本石町まで行ったのだからね」
「ご明察。大家さんに裏口の場所を伺ったら、裏口は堀沿いになるのでぐるりと遠回りをしなければならないと嫌がったのですが、そこは、穹さんが上手く頼んでくれましたの」
「堀沿いか…」
「はい。行ってみたら幅の狭い堀で、猪牙の行き来もありませんの。とにかく、中を確かめたくて裏口の戸を押したら、これがするりと」
「開いていたのか?」
「はい」
最初は面白がっていた真輔だが、だんだん百合の話に引き込まれていった。
大家を先頭に裏庭に入った一行は、すぐに裏庭にある小さな蔵の戸が半開きなことに気が付いた。百合がそっと中を覗くと、中は空っぽであった。大家が母屋に声を掛けても、やはり何の音も聞こえない。母屋の戸を引くと、こちらもするりと空き、人気のないしんとした空気が流れ出て来た。声を掛けながら三人で中に入り、土間でためらう大家を横目に、百合はさっさと店の奥に向かっていった。棚にはごく平凡な生薬が並び、調合に使う乳鉢も中は空であった。次に、穹と一緒に二階にあがり、おみよの部屋らしい四畳半を覗くと、前日おみよが手習いに持ってきていた包みが置かれていないと穹が言った。
夕餉を食べ終わった真輔は、腕組みをしてうなった。
「おみよは、少なくとも自分の部屋に入る前にいなくなったということか」
「ええ、精丸堂のご夫婦も、蔵の中身と一緒に消えてしまったようです」
「夜逃げのようなものか?」
「大家さんはそう思ったようです。でも、おみよちゃんの着物や本は残っていましたし、何より仏壇にご先祖の位牌がありました」
「不本意に連れ去れたかもしれないか…」
「ですから、大家さんには、番屋に届けてくださいとお願いしました」
「そうするしかあるまい」
「それで、あの、私、帰り際にもう一度蔵を覗いたのです」
百合が俯いて、懐からそっと懐紙を取り出し、真輔に差し出した。
「私、扉の影にこれが落ちていることに気が付いて、拾ってきたのです」
真輔が懐紙を広げると、植物の葉の切れ端であった。真輔は懐紙に鼻を寄せると、眉間に皺を寄せた。
「これを拾ったことを大家に言ったのか?」
「いいえ、誰にも言っていません。大家さんと穹さんは話しながら堀の方へ先に出ていたので、私が蔵を覗いたことも気が付いていないはずです。こんな小さな葉っぱ、本石町の岡っ引きが気が付かないかもしれないと思ったら、思わず拾ってしまって…。いけなかったかしら?」
「これは私が預かろう」
真輔の真剣な表情は、百合を不安にさせた。穹が心配していた少女に起きたことが、百合の想像を超えた悪い方向へ向かってしまったのではないだろうか。そう思うと下り酒の僅かな酔いが、急速に冷めて行くようだった。
気持ちよく晴れ渡った秋空の下で、百合は玄関脇の植木に水やりをしていた。父が丹精していた
「何か御用でしょうか?」
百合が話しかけると、ほっとしたように返事をした。
「あの、こちらは笠原様のお宅でしょうか?」
「はい、そうですが」
「初めまして、深川で芸者をしておりましたお染でございます。今は穹と名乗っております。この度は、奉公先をお世話いただきましてありがとうございました。遅ればせながら、お礼を申し上げたくお邪魔いたしました」
「まあ、遠いところをようこそ、さあ、おあがりくださいませ。あいにく主人は勤めに出ておりますが」
「いえ、今日は奥様にお礼を申し上げたかったのです。私の奉公のことで御尽力いただいたそうで」
河内屋の妾だったお梅の死から、置屋の鶴屋がとりつぶされ、そこで働いていたお染は芸者を辞めて奉公先を探すことになった。女主人に仕えたいというお染の望みは、この江戸ではなかなか難しく、口入屋ではみつからなかった。栄三郎からそのことを聞いた百合が、真輔の実家で耳にした、近くの旗本の女隠居が女中を探しているという話を思い出し、紹介したのだった。
百合がお染に会うのは、今日が初めてである。だが、居間で向き合うと、歳の近い二人はすぐに打ち解けることができた。穹は、中村江紗の家で仕事の合間に手習いなど教えてもらえること、名前に漢字を当ててもらったことなど、新しい生活での喜びを語り、百合はそれを嬉しく思いながら聞いていた。
「中村先生は、手習い所まで教えに出かけていらっしゃるんですか?」
「はい、10日に一度、本石町まで行かれるので、私もお手伝いをしにお供をしております。中村先生の教え子は、大きな子ばかりですが、そこはやはり子供のことですから色々手がかかることもあって」
「墨で着物を汚したり…」
「はい、他にも忘れ物とか…」
穹の顔が、何か気にかかることがあるように曇った。
「忘れ物に何か困ったことがあったのですか?」
「はい、昨日がたまたま本石町に行く日だったのですが、やはり忘れ物があり、帰りがけに届けに行ったのですが…」
忘れ物をしたのは、生薬屋精丸堂の一人娘おみよだった。穹が行った時には店がすでに閉まっていた。声を掛けても誰も出てこない。陽が翳りを見せる前なので不審に思って隣の店の者に聞くと、やはり首を
「それに、昼間におみよちゃんが、今日はお父っあんもおっかさんも薬づくりが忙しいので、自分は一人でおさらいをする、と言っていたんです」
「その忘れ物はどうされました?」
「今日、持ってきました。遠回りですが、帰りに寄ってみようと思っています」
「それで、一緒に本石町まで行ったのか」
帰宅した真輔が、着替えながら驚いたような声を上げた。真輔の羽織をたたんでいた百合はすました声で答えた。
「はい、私も気になりましたから。店が開いていたらそれでよし、閉まっていたら大家に尋ねるべきだと思って」
「で、どうだったんだ」
真輔は好奇心に駆られたようだった。
「閉まっておりました。続きは夕餉を取りながらお話しますね」
「えっ…」
じらされて不満顔の真輔を後に、百合はそそくさと台所へ向かってしまった。
夕餉の席では、女中のおまつも、その亭主で真輔の中元を勤める佐吉も共に膳を並べて取るのだが、二人とも、百合の本石町での顛末を聞くのを楽しみにしていたようだった。
「穹さんから下り酒を頂きましたので、どうぞ召し上がれ」
「これは、上等だな」
「中村家の当代は御広敷御用人をお努めで、諸国の物産がお試しいただきたいと届けられるのだそうです。江紗先生が穹さんに持っていくようにおっしゃってくださったんですって」
「ありがたく、皆で頂こう」
杯を空けると、百合の口が滑らかになった。
「大家さんの家を尋ねて、さっそく二人でまいりましたの」
「大家は何か知っていたのか?」
「いいえ。とにかく一緒に精丸堂へ来てもらったのですが、表戸は閉まっているので途方にくれるばかりで、役に立たないのです」
滑らかな上に辛辣になっている。真輔は慎重に次の質問をした。
「どうやって、中に入ったんだ?」
「あら、ご存じなの?」
「い、いや、入ったに違いないと思っただけだ。わざわざ本石町まで行ったのだからね」
「ご明察。大家さんに裏口の場所を伺ったら、裏口は堀沿いになるのでぐるりと遠回りをしなければならないと嫌がったのですが、そこは、穹さんが上手く頼んでくれましたの」
「堀沿いか…」
「はい。行ってみたら幅の狭い堀で、猪牙の行き来もありませんの。とにかく、中を確かめたくて裏口の戸を押したら、これがするりと」
「開いていたのか?」
「はい」
最初は面白がっていた真輔だが、だんだん百合の話に引き込まれていった。
大家を先頭に裏庭に入った一行は、すぐに裏庭にある小さな蔵の戸が半開きなことに気が付いた。百合がそっと中を覗くと、中は空っぽであった。大家が母屋に声を掛けても、やはり何の音も聞こえない。母屋の戸を引くと、こちらもするりと空き、人気のないしんとした空気が流れ出て来た。声を掛けながら三人で中に入り、土間でためらう大家を横目に、百合はさっさと店の奥に向かっていった。棚にはごく平凡な生薬が並び、調合に使う乳鉢も中は空であった。次に、穹と一緒に二階にあがり、おみよの部屋らしい四畳半を覗くと、前日おみよが手習いに持ってきていた包みが置かれていないと穹が言った。
夕餉を食べ終わった真輔は、腕組みをしてうなった。
「おみよは、少なくとも自分の部屋に入る前にいなくなったということか」
「ええ、精丸堂のご夫婦も、蔵の中身と一緒に消えてしまったようです」
「夜逃げのようなものか?」
「大家さんはそう思ったようです。でも、おみよちゃんの着物や本は残っていましたし、何より仏壇にご先祖の位牌がありました」
「不本意に連れ去れたかもしれないか…」
「ですから、大家さんには、番屋に届けてくださいとお願いしました」
「そうするしかあるまい」
「それで、あの、私、帰り際にもう一度蔵を覗いたのです」
百合が俯いて、懐からそっと懐紙を取り出し、真輔に差し出した。
「私、扉の影にこれが落ちていることに気が付いて、拾ってきたのです」
真輔が懐紙を広げると、植物の葉の切れ端であった。真輔は懐紙に鼻を寄せると、眉間に皺を寄せた。
「これを拾ったことを大家に言ったのか?」
「いいえ、誰にも言っていません。大家さんと穹さんは話しながら堀の方へ先に出ていたので、私が蔵を覗いたことも気が付いていないはずです。こんな小さな葉っぱ、本石町の岡っ引きが気が付かないかもしれないと思ったら、思わず拾ってしまって…。いけなかったかしら?」
「これは私が預かろう」
真輔の真剣な表情は、百合を不安にさせた。穹が心配していた少女に起きたことが、百合の想像を超えた悪い方向へ向かってしまったのではないだろうか。そう思うと下り酒の僅かな酔いが、急速に冷めて行くようだった。