先代の足跡
文字数 2,393文字
小さな小間物屋の座敷は店同様に小さく、小間物屋の若主人もやはり小柄である。そこに真輔と栄三郎、若主人の三人が向かい合って座っていると、小間物屋の女房おふくは身重の体を縮めるようにして、二人の客の前に茶を置いた。廊下に下がって、すでにかなり目立っている腹に阻まれながら精一杯に深く頭を下げて去って行った。
「小間物かど屋の主人、清二でございます。先代の笠原様と栄三郎親分には、命を助けて頂いたご恩がございます。私でお役に立てることでしたら、何なりとお申し付けください」
清二は気負うように言うと、平伏する。下げた頭が茶碗に当たりそうになり、真輔は慌てて茶碗を横にずらした。
「忙しい時にすまないが、教えてもらいたいことがある」
「何なりと」
さらに平伏する清二に戸惑って真輔が栄三郎を見ると、栄三郎も苦笑していた。
「清二、顔を上げろ。そんなに背屈 ばられちゃ旦那も俺も話がし辛い」
そろりと上げた童顔が赤面していた。
かど屋に行く道すがら、栄三郎はこれから訪ねる小間物屋の若主人に何があったのかを、真輔に話していた。一昨年の夏、その頃はまだくれない屋の手代だった清二は、藪入りの時に夫婦約束をしていたおふくと久しぶりに会い、両国へ連れ立って遊びに行った。そこでやくざ者のような男に絡まれ、もめ事になり番屋に引っ張れたのだった。知らせを受けたくれない屋が、僅かな示談の金を出しおしみ、清二はあやうく寄場 送りになるところだった。おふくの両親が栄三郎の元に駆け込み、栄三郎はもめ事の証人を探し出した。清二に非がないことがわかると、真輔の義父の笠原源右衛門が与力に注進し、清二はようやく無罪放免になったのだった。
「清二をお縄にしたのは、夏に川にはまって死んだ岡っ引きの寛一でした。些細な理由で清二のような奉公人をしょっ引いてきて、縄付きを出すのかと店を脅して、金を出させていたんです」
「くれない屋はその金を出さなかったし、親分にも知らせなかったのか?」
「悪いのは寛一ですが、その時はくれない屋も不人情だと思いました」
解き放たれた清二は、そのままくれない屋を辞め、今はおふくの両親に代わってかど屋の主人を勤めている。
「思いだしたくねぇかもしれないが、おめえが奉公していたくれない屋のことを聞きてえんだ」
「はい、どんなことでございましょう?」
その先は真輔が引き継いだ。
「春に亡くなった先代のことだが、しばらく療養していたというが、いつ頃からかわかるかな?」
「はい、一昨年の正月ごろから腰が痛みだしてお店に出られることが減りました。医者に勧められた揉み療治で更に痛みがひどくなって、その後は臥せってしまわれたんです」
「揉み療治の他に、治療はしなかったのか?」
「医者の薬は効果がなかったので、俳句仲間の方から紹介されたという薬屋がまいりました。その薬がよく効いたと一時お店にも戻ってこられ、快癒されたのかと店の者は喜んでおりましたが」
「痛みが戻ったのか?」
「だんだん体が弱られて、店の音が体に障るからと、その年の夏には品川の寮へ移られました。そのまま、あちらでお亡くなりになったそうです…」
清二は先代のことを思い出したのか、寂しげな表情を浮かべた。自分を見捨てた店を恨んではいないのかと、真輔は興味を覚えた。だが、まだ聞くべきことがある。
「その紹介されたという薬屋は、何という店かな?」
「店ではありません。担ぎの生薬屋で、大旦那様が寮に移るまで、毎日、店に来ていたと思います」
「名前はわかるか?」
「たしか、孝三だったと。何しろ目立たない男で、いつのまにか来ていつのまにか帰っておりました」
「そうか、やはり孝三か…」
清二が栄三郎の方に向き直った。
「なんでぇ?」
「親分、くれない屋が私の示談金を出せなかったのは、その薬屋のせいだったのです」
「どういうこった」
「大旦那様のお言いつけで、あの藪入りの前日に、孝三の店の手付を急に支払わされたせいで、あの日、くれない屋の金箱は空っぽだったのだそうです。店の蓄えの大方は、大旦那様が品川に運ばせていましたから。三月 後に、番頭さんがそれまでの私の給金をここまで持ってきてくれて、その時に事情を聞きました」
「金がなくたって、あっしに知れせてくれりゃあいいものを…」
栄三郎は清二の話を聞いても、何か納得のいかない顔をしていた。だが、精丸堂の孝三が、どんな薬をくれない屋の先代に使っていたのかを知っている真輔は、くれない屋が岡っ引きや役人と関わるのを避けたのだろうと思った。
かぎ屋の店先には若い娘が数人で品物選びをしている。おふくの両親であろう初老の夫婦が相手をしながら、店を出る真輔たちに頭を下げた。道まで見送りに出た清二の後ろに、女房のおふくが駆け寄った。
「あ、あの、うちの秋の新作なんです。どうぞ、奥様方に」
見ると、おふくの手に秋らしい色合いの端切れを縫い合わせた小袋が二つ載っている。店先の娘たちが手に取っているのも、同じ品々のようだ。
「清二さんが布を組み合わせて、私とおっかさんが縫っているんです」
「よろしければ、お持ち帰りください」
真輔が財布を出そうとすると、滅相もない、と清二が慌てた。
「しかし、それでは申し訳ない」
「いえ、かぎ屋の品だとお伝えいただければ、それで」
清二は、しっかり者の商人の顔で小腰をかがめた。栄三郎がおおらかに笑い、
「うちのは、奥様って柄じゃあないが、こいつは喜ぶよ。かぎ屋の新作、ありがたく頂くよ」
とおふくの手から二つの袋を取り上げ、真輔に一つを渡した。真輔が手の中の袋を見ながら、
「これは、色柄の組み合わせが面白いな」
と言うと、おふくは嬉しそうな笑顔になった。幸せそうな若夫婦に見送られながら、空の上の源右衛門様も喜んでおられますよ、と栄三郎が言った。
「小間物かど屋の主人、清二でございます。先代の笠原様と栄三郎親分には、命を助けて頂いたご恩がございます。私でお役に立てることでしたら、何なりとお申し付けください」
清二は気負うように言うと、平伏する。下げた頭が茶碗に当たりそうになり、真輔は慌てて茶碗を横にずらした。
「忙しい時にすまないが、教えてもらいたいことがある」
「何なりと」
さらに平伏する清二に戸惑って真輔が栄三郎を見ると、栄三郎も苦笑していた。
「清二、顔を上げろ。そんなに
そろりと上げた童顔が赤面していた。
かど屋に行く道すがら、栄三郎はこれから訪ねる小間物屋の若主人に何があったのかを、真輔に話していた。一昨年の夏、その頃はまだくれない屋の手代だった清二は、藪入りの時に夫婦約束をしていたおふくと久しぶりに会い、両国へ連れ立って遊びに行った。そこでやくざ者のような男に絡まれ、もめ事になり番屋に引っ張れたのだった。知らせを受けたくれない屋が、僅かな示談の金を出しおしみ、清二はあやうく
「清二をお縄にしたのは、夏に川にはまって死んだ岡っ引きの寛一でした。些細な理由で清二のような奉公人をしょっ引いてきて、縄付きを出すのかと店を脅して、金を出させていたんです」
「くれない屋はその金を出さなかったし、親分にも知らせなかったのか?」
「悪いのは寛一ですが、その時はくれない屋も不人情だと思いました」
解き放たれた清二は、そのままくれない屋を辞め、今はおふくの両親に代わってかど屋の主人を勤めている。
「思いだしたくねぇかもしれないが、おめえが奉公していたくれない屋のことを聞きてえんだ」
「はい、どんなことでございましょう?」
その先は真輔が引き継いだ。
「春に亡くなった先代のことだが、しばらく療養していたというが、いつ頃からかわかるかな?」
「はい、一昨年の正月ごろから腰が痛みだしてお店に出られることが減りました。医者に勧められた揉み療治で更に痛みがひどくなって、その後は臥せってしまわれたんです」
「揉み療治の他に、治療はしなかったのか?」
「医者の薬は効果がなかったので、俳句仲間の方から紹介されたという薬屋がまいりました。その薬がよく効いたと一時お店にも戻ってこられ、快癒されたのかと店の者は喜んでおりましたが」
「痛みが戻ったのか?」
「だんだん体が弱られて、店の音が体に障るからと、その年の夏には品川の寮へ移られました。そのまま、あちらでお亡くなりになったそうです…」
清二は先代のことを思い出したのか、寂しげな表情を浮かべた。自分を見捨てた店を恨んではいないのかと、真輔は興味を覚えた。だが、まだ聞くべきことがある。
「その紹介されたという薬屋は、何という店かな?」
「店ではありません。担ぎの生薬屋で、大旦那様が寮に移るまで、毎日、店に来ていたと思います」
「名前はわかるか?」
「たしか、孝三だったと。何しろ目立たない男で、いつのまにか来ていつのまにか帰っておりました」
「そうか、やはり孝三か…」
清二が栄三郎の方に向き直った。
「なんでぇ?」
「親分、くれない屋が私の示談金を出せなかったのは、その薬屋のせいだったのです」
「どういうこった」
「大旦那様のお言いつけで、あの藪入りの前日に、孝三の店の手付を急に支払わされたせいで、あの日、くれない屋の金箱は空っぽだったのだそうです。店の蓄えの大方は、大旦那様が品川に運ばせていましたから。
「金がなくたって、あっしに知れせてくれりゃあいいものを…」
栄三郎は清二の話を聞いても、何か納得のいかない顔をしていた。だが、精丸堂の孝三が、どんな薬をくれない屋の先代に使っていたのかを知っている真輔は、くれない屋が岡っ引きや役人と関わるのを避けたのだろうと思った。
かぎ屋の店先には若い娘が数人で品物選びをしている。おふくの両親であろう初老の夫婦が相手をしながら、店を出る真輔たちに頭を下げた。道まで見送りに出た清二の後ろに、女房のおふくが駆け寄った。
「あ、あの、うちの秋の新作なんです。どうぞ、奥様方に」
見ると、おふくの手に秋らしい色合いの端切れを縫い合わせた小袋が二つ載っている。店先の娘たちが手に取っているのも、同じ品々のようだ。
「清二さんが布を組み合わせて、私とおっかさんが縫っているんです」
「よろしければ、お持ち帰りください」
真輔が財布を出そうとすると、滅相もない、と清二が慌てた。
「しかし、それでは申し訳ない」
「いえ、かぎ屋の品だとお伝えいただければ、それで」
清二は、しっかり者の商人の顔で小腰をかがめた。栄三郎がおおらかに笑い、
「うちのは、奥様って柄じゃあないが、こいつは喜ぶよ。かぎ屋の新作、ありがたく頂くよ」
とおふくの手から二つの袋を取り上げ、真輔に一つを渡した。真輔が手の中の袋を見ながら、
「これは、色柄の組み合わせが面白いな」
と言うと、おふくは嬉しそうな笑顔になった。幸せそうな若夫婦に見送られながら、空の上の源右衛門様も喜んでおられますよ、と栄三郎が言った。