評定の行方
文字数 3,155文字
とんとんと小気味よい拍子で階段を昇って来る足音がする。「失礼します」とすっと開いた襖の向こうに、この一膳めし屋の女将の笑顔があった。ここは、奉行所近くにある戸崎賢吾の馴染みの店である。
「皆さまお揃いのようですから、お食事をお運びしてもよろしゅうございますか?」
「おぉ、頼む、腹ペコだ」
賢吾が大声で答え、女将が階下に声を掛けるまでもなく、次々と膳が運び込まれた。最後に加わった真輔以外の前には、空の茶碗があるだけだった。昨日、品川のくれない屋の寮に出かけた真輔は、持ち帰った芥子と思われる草を確認してもらうために小石川の幕府の薬園を訪ねている。そして、奉行所への報告を終えた真輔を賢吾、賢吾の使っている岡っ引きの宗助と栄三郎がここで待っていた。
「すっかり待たせしてしまい申し訳ない」
「何の、昨日、今日と続いての遠出、まっすぐ帰りたいところだろうに、悪かったな」
「いえ、子供たちのいるところでは話せないことばかりですから」
真輔は、あれ以来、家で千太とおみよを預かっている。奉行所からの心づけはあっても、ゆりには負担を掛けていると思うが、楽し気に世話を焼いてくれている。佐吉とおまつの子のない夫婦も、嬉しそうに子供たちの相手をしている。今夜も、佐吉は奉行所に報告に寄る真輔と別れて、先に帰っていった。
膳に続いて、女将が銚子と杯を運んできた。
「何だか皆さん湿気 った顔をしているし、今夜は冷えてきましたから、腹の中から身も心もあっためた方がよろしいと思いまして。私の奢 りですから、遠慮なくお代わりしてくださいな」
「いつも悪いな」
素直に喜び頭を下げる賢吾に、にこやかな笑顔を見せると女将はすぐに階下に消えた。
「弟思いの姉さんって感じですよね」
宗助が賢吾の顔を覗き込み、賢吾は苦笑いした。女将の父親は、亡くなった賢吾の父親の中間だったので、嫁に行く前には賢吾の子守りもしている。
「二階にはもう客はいない。さぁ、話を始めよう。それで、間違いなかったのか?」
賢吾が真輔に杯を持たせて酒を注ぎながら聞いた。
「ありがとうございます。はい、種類もご禁制のもので間違いないそうです。これで、くれない屋と精丸堂の件は評定 に諮 られることになる、と池田様から告げられました」
「そうか、そうなると…」
予想していたこととはいえ、一同の表情は暗くなった。評定は、寺社奉行、勘定 奉行、町奉行の三奉行が、重い罪を犯した者の裁決を合議するものである。評定に掛けられるほどの重罪となれば、精丸堂の夫婦が死罪を免れるのは難しいかもしれない。やはり、腹の中を温める必要があると、しばし無言で杯を酌み交わした。
真輔は調べの間中、開き直ったような態度だったくれない屋の主人与一郎の姿を思い出していた。寮で芥子を見つけた話をしても、空とぼけた態度は変わらなかった。
「与一郎は、罪に問われるでしょうか?」
「どうした、証拠を見つけた本人が弱気だな。そうか、大奥が絡んでいたんだったな」
賢吾の言葉に、栄三郎と宗助が苦い顔をした。幕府の中枢に関わりがあると、捕り物自体がうやむやにされてしまう。宗助が、杯を勢いよく空けると、
「くれない屋が罪にならないなら、孝三たちだって罪にはできませんよね、旦那」
と、賢吾に問う。
「そうはいかねぇよ」
「何でですか?」
「宗助、くれない屋は知らぬ存ぜぬを通しているが、孝三たちは痛み止めを作ったことを認めちまってるんだ。死罪は免れても島送りだろう」
「それに、評定で重罪には当たらないと突っ返されても、お奉行の裁量で与一郎に罰を当てることは出来るんだ」
若い宗助を諭すように栄三郎が言い、賢吾が慰める。
「あっしは、無一文で江戸を追われたくれない屋より、島送りになった孝三たちの方が何とか生き抜けるんじゃないかと思っています」
栄三郎が自分に言い聞かせるように言うと、賢吾と真輔が頷き、宗助もようやく肩の力を抜いた。
「薬園で」
杯を置くと、真輔が口を開いた。
「良い話も聞けました。戸崎さんに言われた通り、千太の新しい勤め先のことを相談してみたのです」
薬草の栽培を担当している同心が、真輔の相談に対して質問を返した。
「薬種問屋でなければなりませんか?」
「いえ、そういうわけではないのですが、千太は薬の勉強がしたいようなので」
「それならば、ここで働くのが一番でしょう。薬草の栽培から生薬の作り方まで学べます」
「ここで雇ってもらえるのですか?」
「身元も能力もあなたが保証してくれるのでしょう。こちらはありがたいくらいです。薬草の種類が年々増えて、人が足りないのですよ。それに、その子の母親には、園丁 たちの賄 いをお願いできたら更にありがたい。長年いる者が年を取り、辞めたがっていましてね」
「あ、ありがとうございます。親子でここで働けるとは、千太がどれほど喜ぶか」
「良かった。その子には弟がいるとおっしゃってましたね。親子が三人で暮らせる部屋を用意しましょう」
真輔は賢吾にあらためて礼を言った。
「何、前に毒を使った殺しのことで、話を聞きに言ったことがあってね。その時、みんなやたらと忙しそうだったのを思い出したんだ。最初から雇ってくれとは言いにくいだろうが、相談を持ち掛けてみるって手もあると思ったのさ」
賢吾が膳の佃煮を口に運びながら言うと、宗助がまぜっかえした。
「さすが旦那、やっぱり策士ですね」
「いちいちうるさいやつだなぁ、おまえは」
賢吾は笑いながら、宗助を小突く。ようやく座がなごみ、膳の上のものを肴 に杯をかわした。
「幕府の薬園なら、富里屋が雇ったごろつきも手が出せないでしょう」
栄三郎が安堵したように言った。四人とも、真輔が千太とおみよを守った夜のことを思い出していた。
「後は、おみよですな」
栄三郎が続けてつぶやくと、戸崎が難しい顔をしながら言う。
「残念だが、精丸堂の夫婦が死罪を免れても、娘とすぐに一緒に暮らせるわけじゃない。おみよをさらう指示を出した者の正体がわからないこともあるし、行先は千太より難しいかも知れねぇな」
栄三郎は頷くと、
「おみよの件で富里屋の番頭のことを調べていたのですが、昨日から店先に姿が見せなくなりました。使いに出た小僧を捉まえて問いただしたら、どちらの番頭さんですか?と言われましたよ。通町の店の番頭は一昨日変わったから、と」
吸い物の湯気で曇った眼鏡を拭きながら、真輔は眉間に皺を寄せた。
「ということは、番頭一人が関わっているのではなく、富里屋も関わっているかもしれないということか。栄三郎、店に気づかれぬように富里屋のことを調べてもらえないか」
「承知しました。深川の本店から調べなおしてみましょう」
「俺たちも廻り先で評判を探ってみるよ」
賢吾と宗助が請け合った。
「で、おみよのことは何か考えがあるのか?」
「親の裁きが決まったら、中村江紗先生に相談してみようかと思っているのですが」
「そうか、今度の捕り物も、元々は穹の話から始まったことだからな」
宗助が復習するように
「おみよが、その中村先生って女師匠の習い子で、穹ってのは先生付きの女中でしたね」
というと、賢吾が笑いながら肯定した。
「まぁ、大方 合ってるよ。中村先生は御広敷御用人中村様の御母上 様だがな」
「偉い方なんですね。そういう方なら、きっと良いツテをお持ちですよ」
若い宗助のやや楽観的とも言える発言が、真輔たちの心を軽くしてくれた。その後は、ここ数日の出来事を振り返っているうちに膳の上と数本の銚子が空になり、少々良い気分になった一同は女将に見送られて帰路に着いたのだった。
そして、その数日後、評定は老中や大目付が列席して行われた。
「皆さまお揃いのようですから、お食事をお運びしてもよろしゅうございますか?」
「おぉ、頼む、腹ペコだ」
賢吾が大声で答え、女将が階下に声を掛けるまでもなく、次々と膳が運び込まれた。最後に加わった真輔以外の前には、空の茶碗があるだけだった。昨日、品川のくれない屋の寮に出かけた真輔は、持ち帰った芥子と思われる草を確認してもらうために小石川の幕府の薬園を訪ねている。そして、奉行所への報告を終えた真輔を賢吾、賢吾の使っている岡っ引きの宗助と栄三郎がここで待っていた。
「すっかり待たせしてしまい申し訳ない」
「何の、昨日、今日と続いての遠出、まっすぐ帰りたいところだろうに、悪かったな」
「いえ、子供たちのいるところでは話せないことばかりですから」
真輔は、あれ以来、家で千太とおみよを預かっている。奉行所からの心づけはあっても、ゆりには負担を掛けていると思うが、楽し気に世話を焼いてくれている。佐吉とおまつの子のない夫婦も、嬉しそうに子供たちの相手をしている。今夜も、佐吉は奉行所に報告に寄る真輔と別れて、先に帰っていった。
膳に続いて、女将が銚子と杯を運んできた。
「何だか皆さん
「いつも悪いな」
素直に喜び頭を下げる賢吾に、にこやかな笑顔を見せると女将はすぐに階下に消えた。
「弟思いの姉さんって感じですよね」
宗助が賢吾の顔を覗き込み、賢吾は苦笑いした。女将の父親は、亡くなった賢吾の父親の中間だったので、嫁に行く前には賢吾の子守りもしている。
「二階にはもう客はいない。さぁ、話を始めよう。それで、間違いなかったのか?」
賢吾が真輔に杯を持たせて酒を注ぎながら聞いた。
「ありがとうございます。はい、種類もご禁制のもので間違いないそうです。これで、くれない屋と精丸堂の件は
「そうか、そうなると…」
予想していたこととはいえ、一同の表情は暗くなった。評定は、寺社奉行、
真輔は調べの間中、開き直ったような態度だったくれない屋の主人与一郎の姿を思い出していた。寮で芥子を見つけた話をしても、空とぼけた態度は変わらなかった。
「与一郎は、罪に問われるでしょうか?」
「どうした、証拠を見つけた本人が弱気だな。そうか、大奥が絡んでいたんだったな」
賢吾の言葉に、栄三郎と宗助が苦い顔をした。幕府の中枢に関わりがあると、捕り物自体がうやむやにされてしまう。宗助が、杯を勢いよく空けると、
「くれない屋が罪にならないなら、孝三たちだって罪にはできませんよね、旦那」
と、賢吾に問う。
「そうはいかねぇよ」
「何でですか?」
「宗助、くれない屋は知らぬ存ぜぬを通しているが、孝三たちは痛み止めを作ったことを認めちまってるんだ。死罪は免れても島送りだろう」
「それに、評定で重罪には当たらないと突っ返されても、お奉行の裁量で与一郎に罰を当てることは出来るんだ」
若い宗助を諭すように栄三郎が言い、賢吾が慰める。
「あっしは、無一文で江戸を追われたくれない屋より、島送りになった孝三たちの方が何とか生き抜けるんじゃないかと思っています」
栄三郎が自分に言い聞かせるように言うと、賢吾と真輔が頷き、宗助もようやく肩の力を抜いた。
「薬園で」
杯を置くと、真輔が口を開いた。
「良い話も聞けました。戸崎さんに言われた通り、千太の新しい勤め先のことを相談してみたのです」
薬草の栽培を担当している同心が、真輔の相談に対して質問を返した。
「薬種問屋でなければなりませんか?」
「いえ、そういうわけではないのですが、千太は薬の勉強がしたいようなので」
「それならば、ここで働くのが一番でしょう。薬草の栽培から生薬の作り方まで学べます」
「ここで雇ってもらえるのですか?」
「身元も能力もあなたが保証してくれるのでしょう。こちらはありがたいくらいです。薬草の種類が年々増えて、人が足りないのですよ。それに、その子の母親には、
「あ、ありがとうございます。親子でここで働けるとは、千太がどれほど喜ぶか」
「良かった。その子には弟がいるとおっしゃってましたね。親子が三人で暮らせる部屋を用意しましょう」
真輔は賢吾にあらためて礼を言った。
「何、前に毒を使った殺しのことで、話を聞きに言ったことがあってね。その時、みんなやたらと忙しそうだったのを思い出したんだ。最初から雇ってくれとは言いにくいだろうが、相談を持ち掛けてみるって手もあると思ったのさ」
賢吾が膳の佃煮を口に運びながら言うと、宗助がまぜっかえした。
「さすが旦那、やっぱり策士ですね」
「いちいちうるさいやつだなぁ、おまえは」
賢吾は笑いながら、宗助を小突く。ようやく座がなごみ、膳の上のものを
「幕府の薬園なら、富里屋が雇ったごろつきも手が出せないでしょう」
栄三郎が安堵したように言った。四人とも、真輔が千太とおみよを守った夜のことを思い出していた。
「後は、おみよですな」
栄三郎が続けてつぶやくと、戸崎が難しい顔をしながら言う。
「残念だが、精丸堂の夫婦が死罪を免れても、娘とすぐに一緒に暮らせるわけじゃない。おみよをさらう指示を出した者の正体がわからないこともあるし、行先は千太より難しいかも知れねぇな」
栄三郎は頷くと、
「おみよの件で富里屋の番頭のことを調べていたのですが、昨日から店先に姿が見せなくなりました。使いに出た小僧を捉まえて問いただしたら、どちらの番頭さんですか?と言われましたよ。通町の店の番頭は一昨日変わったから、と」
吸い物の湯気で曇った眼鏡を拭きながら、真輔は眉間に皺を寄せた。
「ということは、番頭一人が関わっているのではなく、富里屋も関わっているかもしれないということか。栄三郎、店に気づかれぬように富里屋のことを調べてもらえないか」
「承知しました。深川の本店から調べなおしてみましょう」
「俺たちも廻り先で評判を探ってみるよ」
賢吾と宗助が請け合った。
「で、おみよのことは何か考えがあるのか?」
「親の裁きが決まったら、中村江紗先生に相談してみようかと思っているのですが」
「そうか、今度の捕り物も、元々は穹の話から始まったことだからな」
宗助が復習するように
「おみよが、その中村先生って女師匠の習い子で、穹ってのは先生付きの女中でしたね」
というと、賢吾が笑いながら肯定した。
「まぁ、
「偉い方なんですね。そういう方なら、きっと良いツテをお持ちですよ」
若い宗助のやや楽観的とも言える発言が、真輔たちの心を軽くしてくれた。その後は、ここ数日の出来事を振り返っているうちに膳の上と数本の銚子が空になり、少々良い気分になった一同は女将に見送られて帰路に着いたのだった。
そして、その数日後、評定は老中や大目付が列席して行われた。