待ちぶせ
文字数 3,391文字
千太は狭い路地の影に身をひそめながら、表店の貸本屋の二階をじっと見つめていた。貸本屋の軒下には、あの日、千太とおみよを富里屋から追いかけて来た男の一人がいる。裏店への入り口を見張っているので、千太は路地から出られない。やがて、三々五々と子供たちが階下に降り、脇の出入り口から表通りに出て来るだろう。この路地の近くを通る子供を呼び寄せて、伝言を頼むのだ。千太が、唯一頼れる大人である算学教室の師匠に伝えてもらおう。
「おいらはここだよ、先生」
やがて、ばらばらと通りに子供たちが現れた。この教室は五日に一度、子供たちに、そろばんではなく算学のさわりを教え、その楽しさを知ってもらおうという意図で行われている。生徒はこの辺りの裕福な商家の子息がほとんどである。さらに算学を学びたいものは本格的な塾に行くので、生徒は短い期間で入れ替わる。予想通り、千太の見知っている顔はいなかった。
なかでも一番年下に見える子供が、路地から見つめる千太に気が付き、立ち止まった。千太は笑いかけ、手でおいで、と合図をした。子供通しの気安さからか、その子は素直に路地に入って来た。
「なぁに?」
「おいらは千太、おめぇの名は?」
「庄一」
「そうか、庄一はあの教室に通ってんだろ?」
千太は貸本屋の二階を指さした。庄一はこくんと頷いた。
「その年で算学の教室に通うなんて、賢いんだな」
庄一の幼さが残る顔に誇らしげな表情が浮かんだ。
「なぁ、先生はまだ上にいるんだろう。一つ伝言を頼まれてくれねぇか?」
「伝言?」
「あぁ、虫食い算を解いたから神社に見に来てくれ、と千太が言ってると」
「あっ、それ算額のことだね」
「そうだ、頼めるか?」
「でも…」
子供は教室を振り返り、先生はすぐそこだよ、と言いながら千太の方に向き直った。だが、そこにはもう千太はいなかった。その子はしばらく逡巡し、何度も路地の方を振り返りながら、教室に戻っていった。それを天水桶の影から、千太は祈るような気持ちで見送った。
「先生…」
「なんだ、庄一。忘れ物か?」
呼びかけられて振り向いたのは、まだ二十歳そこそこの若い男だった。月代を伸ばして、無造作に一つに束ねている。身なりに構わない質なのか、着物も袴もしわが寄って、足袋は擦り切れていた。
「あのね、伝言を頼まれたんだ」
「誰に?」
「千太って子」
庄一は窓際に寄って、路地の方を指さした。先生と呼ばれた男は、窓から顔を伸ばして庄一の指さした路地を見たが、そこには誰の人影もなかった。
「どんな伝言を頼まれたんだ?」
教室で一番幼い生徒である庄一に、男は優しく問いかけた。
「あのね、虫食い算を解いたから神社に見に来てくれって」
「それはどこの神社のことだい?」
「う~ん、知らない。聞いてないよ。おいら聞いた通りにちゃんと伝えたよ」
「そうか、千太って子が言った通りなんだな。わかった、ありがとう。おっかさんが心配するから、今度はまっすぐ帰るんだぞ」
庄一を送り出すと、男は腕組みをして考え込んだ。千太という名前に覚えはないし、神社も心当たりがない。だが、虫食い算などというものを知っている子供なら、以前、この教室に通っていたのかもしれない。それならば、自分の前にここで教えていた先輩の教え子になる。その千太という子は、先輩に神社に見に来て欲しいのだろうし、どこの神社か先輩ならわかるだろう。
男の脳裏に、算学塾の先輩の顔が浮かんだ。今日のうちに、千太という子供の話を伝えに行こう。自分も久しぶりに先輩に会いたいし、家に行けば美人と評判の奥方の顔も拝めるかもしれない。よし、と立ち上がり、戸締りをすると階下に声を掛けて表通りに出ると、八丁堀を目指して足早に歩き出した。
同じ頃、くれない屋の方向に足を進めながら、真輔は、芥子の葉が精丸堂で見つかった経緯を栄三郎に話していた。真輔が話し終わると、栄三郎が足を止めた。
「なるほど。その薬の件があったから、くれない屋は清二のことを私に頼まなかったんですね」
「私もそうではないかと思う。すまないが、これは、はっきりしたことがわかるまで奉行所内でも内密なのだ」
「承知しました。私の腹に納めておきます」
「頼む」
「ですが、そういう事情ならば、正面からくれない屋に精丸堂のことを聞いても成果はないでしょうな」
栄三郎にそう言われると、真輔には次の手が思い浮かばなかった。
「あっしに考えがあります。任せて頂ければ、今日中に精丸堂について多少なりとも聞き出してまいります」
「それは、ありがたい。それで、どうやって?」
「何、そのうち女中が夕方の買い物に出てくるでしょうから、それをつかまえて聞いてみます。店の者とは関わらなかったようですが、家の内で働く女中とはもっと顔を合わせているはずです。世間話でもしてたら、めっけものですし」
真輔の顔に興味の色が浮かんだ。
「私が同行してはまずいかな」
「すみません、真輔様までいらしたら大事になりますから、女中が構えてしまいます。ちょっとしたもめ事の調べ、と思わせた方が色々聞き出しやすいんで」
「なるほど、それは思い至らなかった。では、私は佐吉を追おう。平太はこちらに向かわせようか?」
「いや、あっし一人の方が警戒されません。平太にはうちに帰るように言っていただけますか?」
「承知した。それではよろしく頼む」
「夜、八丁堀に伺います」
真輔と別れた栄三郎は、くれない屋の近くの路地に入り込むと、辛抱強く女中が出て来るのを待った。その間に、先ほどの真輔とのやりとりを思い出し、思わず顔がほころんだ。探索事に関してはまだまだ色々と教えて差し上げなければならないが、素直に吸収していく真輔が相手だと、それは楽しい仕事だった。
雨でも降りだしそうな天気のせいか、女中が買い物に出てきたのは、栄三郎が思っていたより早かった。一通り買い物が終わった様子を見極めて、そって女中に近づく。
「姉さんは、くれない屋の女中さんかい?」
「あら、もしかして都屋のご主人じゃないですか?」
栄三郎は日本橋脇で、都屋という仕出し屋をやっている。
「うちの店は、仕出しを頼むようなことはありそうにないですよ」
「今日はそっちの仕事じゃなくて、こっちなんだよ」
栄三郎は懐からちらっと十手を見せた。
「といっても、大した事じゃあない。ちょっとしたもめ事があって、調べを頼まれたんだ。ちょいと、そこの汁粉屋で温まっていかねぇか?」
「晩飯作らなきゃいけないから、ちょっとだけですよ」
女中は言葉とうらはらに、嬉しそうに先頭に立って汁粉屋の暖簾をくぐった。
「わるいねぇ。姉さん、汁粉でいいかい?ところで、くれない屋の先代は、薬屋を雇っていなかったかい?」
「ああ、孝三さんね。もう来てませんよ。大旦那様も亡くなられたし」
「そう、その孝三だ」
「孝三さん、何かしたんですか?」
「いやいや、そういう話じゃねぇんだよ。頼まれごとでね、孝三がどんな奴か知りたいんだが」
「どんなって…。地味な人でしたよ、無口で。あ~、確か娘がいるんですよ。大旦那様が、商売物の着物をよく持たせていましたから」
「ほぉ。世間話はしねぇのか?」
「ぜんぜん。あの人訛りがあったから、そのせいもあったんじゃないの。なるべく、しゃべらないようにしてるみたいだった」
「どこの訛りかわかるかい?」
「長崎ですよ、きっと」
「姉さん、長崎の言葉がわかるのかい?」
「わかるってほどのことじゃありませんが。昔、長崎の店の江戸の出店に働いてたことがあって、その時、長崎からしょっちゅう人が来ていたから、聞き覚えのある訛りだなぁと思って」
女中は、孝三に店を持たせる件では、先代と今の主人が揉めていたこと、くれない屋の商売が吉原の不景気に伴って傾いてきることなど、色々話してくれた。
「蓄えがないんですよ、あの店は」
「ずいぶん派手に商売をしていたんじゃないのか?」
「先代は右から左に使っちまう方でねぇ。さぁ、もう行かないと」
お代わりした汁粉を平らげると、女中はそそくさと去って行った。
「長崎か…」
江戸から遠く離れた地名だが、そこでのオランダや清との交易を通じて入ってくる様々なものが、江戸の暮らしに与える影響は、年々大きくなってきていた。
「おいらはここだよ、先生」
やがて、ばらばらと通りに子供たちが現れた。この教室は五日に一度、子供たちに、そろばんではなく算学のさわりを教え、その楽しさを知ってもらおうという意図で行われている。生徒はこの辺りの裕福な商家の子息がほとんどである。さらに算学を学びたいものは本格的な塾に行くので、生徒は短い期間で入れ替わる。予想通り、千太の見知っている顔はいなかった。
なかでも一番年下に見える子供が、路地から見つめる千太に気が付き、立ち止まった。千太は笑いかけ、手でおいで、と合図をした。子供通しの気安さからか、その子は素直に路地に入って来た。
「なぁに?」
「おいらは千太、おめぇの名は?」
「庄一」
「そうか、庄一はあの教室に通ってんだろ?」
千太は貸本屋の二階を指さした。庄一はこくんと頷いた。
「その年で算学の教室に通うなんて、賢いんだな」
庄一の幼さが残る顔に誇らしげな表情が浮かんだ。
「なぁ、先生はまだ上にいるんだろう。一つ伝言を頼まれてくれねぇか?」
「伝言?」
「あぁ、虫食い算を解いたから神社に見に来てくれ、と千太が言ってると」
「あっ、それ算額のことだね」
「そうだ、頼めるか?」
「でも…」
子供は教室を振り返り、先生はすぐそこだよ、と言いながら千太の方に向き直った。だが、そこにはもう千太はいなかった。その子はしばらく逡巡し、何度も路地の方を振り返りながら、教室に戻っていった。それを天水桶の影から、千太は祈るような気持ちで見送った。
「先生…」
「なんだ、庄一。忘れ物か?」
呼びかけられて振り向いたのは、まだ二十歳そこそこの若い男だった。月代を伸ばして、無造作に一つに束ねている。身なりに構わない質なのか、着物も袴もしわが寄って、足袋は擦り切れていた。
「あのね、伝言を頼まれたんだ」
「誰に?」
「千太って子」
庄一は窓際に寄って、路地の方を指さした。先生と呼ばれた男は、窓から顔を伸ばして庄一の指さした路地を見たが、そこには誰の人影もなかった。
「どんな伝言を頼まれたんだ?」
教室で一番幼い生徒である庄一に、男は優しく問いかけた。
「あのね、虫食い算を解いたから神社に見に来てくれって」
「それはどこの神社のことだい?」
「う~ん、知らない。聞いてないよ。おいら聞いた通りにちゃんと伝えたよ」
「そうか、千太って子が言った通りなんだな。わかった、ありがとう。おっかさんが心配するから、今度はまっすぐ帰るんだぞ」
庄一を送り出すと、男は腕組みをして考え込んだ。千太という名前に覚えはないし、神社も心当たりがない。だが、虫食い算などというものを知っている子供なら、以前、この教室に通っていたのかもしれない。それならば、自分の前にここで教えていた先輩の教え子になる。その千太という子は、先輩に神社に見に来て欲しいのだろうし、どこの神社か先輩ならわかるだろう。
男の脳裏に、算学塾の先輩の顔が浮かんだ。今日のうちに、千太という子供の話を伝えに行こう。自分も久しぶりに先輩に会いたいし、家に行けば美人と評判の奥方の顔も拝めるかもしれない。よし、と立ち上がり、戸締りをすると階下に声を掛けて表通りに出ると、八丁堀を目指して足早に歩き出した。
同じ頃、くれない屋の方向に足を進めながら、真輔は、芥子の葉が精丸堂で見つかった経緯を栄三郎に話していた。真輔が話し終わると、栄三郎が足を止めた。
「なるほど。その薬の件があったから、くれない屋は清二のことを私に頼まなかったんですね」
「私もそうではないかと思う。すまないが、これは、はっきりしたことがわかるまで奉行所内でも内密なのだ」
「承知しました。私の腹に納めておきます」
「頼む」
「ですが、そういう事情ならば、正面からくれない屋に精丸堂のことを聞いても成果はないでしょうな」
栄三郎にそう言われると、真輔には次の手が思い浮かばなかった。
「あっしに考えがあります。任せて頂ければ、今日中に精丸堂について多少なりとも聞き出してまいります」
「それは、ありがたい。それで、どうやって?」
「何、そのうち女中が夕方の買い物に出てくるでしょうから、それをつかまえて聞いてみます。店の者とは関わらなかったようですが、家の内で働く女中とはもっと顔を合わせているはずです。世間話でもしてたら、めっけものですし」
真輔の顔に興味の色が浮かんだ。
「私が同行してはまずいかな」
「すみません、真輔様までいらしたら大事になりますから、女中が構えてしまいます。ちょっとしたもめ事の調べ、と思わせた方が色々聞き出しやすいんで」
「なるほど、それは思い至らなかった。では、私は佐吉を追おう。平太はこちらに向かわせようか?」
「いや、あっし一人の方が警戒されません。平太にはうちに帰るように言っていただけますか?」
「承知した。それではよろしく頼む」
「夜、八丁堀に伺います」
真輔と別れた栄三郎は、くれない屋の近くの路地に入り込むと、辛抱強く女中が出て来るのを待った。その間に、先ほどの真輔とのやりとりを思い出し、思わず顔がほころんだ。探索事に関してはまだまだ色々と教えて差し上げなければならないが、素直に吸収していく真輔が相手だと、それは楽しい仕事だった。
雨でも降りだしそうな天気のせいか、女中が買い物に出てきたのは、栄三郎が思っていたより早かった。一通り買い物が終わった様子を見極めて、そって女中に近づく。
「姉さんは、くれない屋の女中さんかい?」
「あら、もしかして都屋のご主人じゃないですか?」
栄三郎は日本橋脇で、都屋という仕出し屋をやっている。
「うちの店は、仕出しを頼むようなことはありそうにないですよ」
「今日はそっちの仕事じゃなくて、こっちなんだよ」
栄三郎は懐からちらっと十手を見せた。
「といっても、大した事じゃあない。ちょっとしたもめ事があって、調べを頼まれたんだ。ちょいと、そこの汁粉屋で温まっていかねぇか?」
「晩飯作らなきゃいけないから、ちょっとだけですよ」
女中は言葉とうらはらに、嬉しそうに先頭に立って汁粉屋の暖簾をくぐった。
「わるいねぇ。姉さん、汁粉でいいかい?ところで、くれない屋の先代は、薬屋を雇っていなかったかい?」
「ああ、孝三さんね。もう来てませんよ。大旦那様も亡くなられたし」
「そう、その孝三だ」
「孝三さん、何かしたんですか?」
「いやいや、そういう話じゃねぇんだよ。頼まれごとでね、孝三がどんな奴か知りたいんだが」
「どんなって…。地味な人でしたよ、無口で。あ~、確か娘がいるんですよ。大旦那様が、商売物の着物をよく持たせていましたから」
「ほぉ。世間話はしねぇのか?」
「ぜんぜん。あの人訛りがあったから、そのせいもあったんじゃないの。なるべく、しゃべらないようにしてるみたいだった」
「どこの訛りかわかるかい?」
「長崎ですよ、きっと」
「姉さん、長崎の言葉がわかるのかい?」
「わかるってほどのことじゃありませんが。昔、長崎の店の江戸の出店に働いてたことがあって、その時、長崎からしょっちゅう人が来ていたから、聞き覚えのある訛りだなぁと思って」
女中は、孝三に店を持たせる件では、先代と今の主人が揉めていたこと、くれない屋の商売が吉原の不景気に伴って傾いてきることなど、色々話してくれた。
「蓄えがないんですよ、あの店は」
「ずいぶん派手に商売をしていたんじゃないのか?」
「先代は右から左に使っちまう方でねぇ。さぁ、もう行かないと」
お代わりした汁粉を平らげると、女中はそそくさと去って行った。
「長崎か…」
江戸から遠く離れた地名だが、そこでのオランダや清との交易を通じて入ってくる様々なものが、江戸の暮らしに与える影響は、年々大きくなってきていた。