いわし雲

文字数 3,030文字

 明るく輝いていた初秋の陽光が、昼を過ぎた今は、早くも弱くなりだしている。失踪した精丸堂一家は、おみよは、どこで夜を迎えているのだろうか、雨でも降れば夜は冷え込んでくるだろう…。奉行所を出ると真輔は、空を覆いだしたいわし雲を眺めながら思った。

 昼餉(ひるげ)どきはだいぶ過ぎていたが、一緒に出た戸崎賢吾に誘われ、真輔は奉行所近くの一膳めし屋に入った。行きつけの店らしく、賢吾は店の女将(おかみ)に目配せをすると二階に上がっていく。一階は半分ほど客の入った土間と小上がりになっていたが、二階は仕切られた座敷が二つあるきりで、今はどちらも空いている。さっさと奥の部屋に陣取った賢吾は、茶を持って上がって来た女将に真輔を紹介して、二階は貸し切りにしてくれるように頼んだ。

 「承知してますよ。もう昼の客は旦那たちで終わりですから、残り物でがまんしてくださいね」
 「かまわねえから、すぐに出してくれ。腹が減ってるんだ」
 「それも、承知してますよ」

 太りじしの女将は笑いながら言うと、意外に身軽に立ち上がり、さっさと下に降りていった。

 「ここの女将は、俺のおやじについていた中間(ちゅうげん)の娘なんだ。奉行所に見習いに入った頃は、昼飯はいつもただで食わせてもらっていた」

 おおらかに笑う賢吾だが、早くに両親を亡くして戸崎家を継ぎ、人より早く奉行所の見習いに入って働いてきたのだと聞いている。真輔にとっては、笠原家に婿入りして以来、手取足取りで仕事を教えてくれた頼もしく信頼のおける先輩である。賢吾は一口茶を飲むと真顔になって話し出した。

 「本石町のほうからは、これ以上の手がかりは出て来なさそうだな」
 「店を出して一年余り、近所付き合いもないようでは…」
 「うむ、手がかりになりそうなのは、通町の客と以前住んでいた麴町だな」 
 「実は、奉行所に戻る前に、戸崎さんに会えないかと麹町の番屋に寄りました。そこで、宗助に会いました」
 「おぉ、そうかい」
 「戸崎さんにお願いする前でしたが、宗助に精丸堂一家の昔の住処(すみか)を探して欲しいという話をさせて頂きました」
 「かまわねえよ、手間が省けたってもんだ。あいつなら、もう見つけてるかもしれねえぞ」
 「ありがとうございます。私はこれから通町の贔屓(ひいき)客の店を探します」
 「うん、通町なら、栄三郎が何か知っているかもしれないしな。前の住処がわかったら、こちらも探ってみる。仕事が終わったら、おまえの家に寄ろう」
 「よろしくお願いします」

 そこへ、あふれんばかりの皿を並べた膳がおかみと女中の手で運ばれてきた。

 「おっ、豪勢だな。今日は客の入りが悪かったのか?」
 「憎まれ口きくなら、下げますよ」

 おかみは戸崎を軽く睨むと、膳を置き、新しい茶を入れるとすぐに下がって行った。二人の話の邪魔はしない。

 真輔は先ほどから気にかかっていたことを口にした。

 「精丸堂の夫婦とおみよは、あまり似ていない親子のような気がします」
 「俺もそう思っていた。もらい子かも知れねえなぁ」
 「夫婦はおみよをとても大事にしているようですし、おみよのために、身の丈を超えたことをしようとしていたのではないでしょうか?」
 「ご禁制の芥子を手に入れて、あへんで儲けようとしていたとか?」
 「強い痛み止めも作れます」
 「通町の客が求めたか…」
 「そうであるなら、店を出す金を用立てたのも納得できます。それにしても、精丸堂の夫婦は製法をどこで身に着けたのでしょう?」
 「うむ。それは、夫婦の過去を探ればわかるかもしれない。だが、今回の失踪には蔵にあったはずの芥子が絡むんじゃないか?」
 「そうですね。いつから芥子を使っていたのか、どこで手に入れたのか…」
 「まずは、手がかりをたどっていくしかねえな」

 二人は話の間にたっぷりの膳をきれいに平らげていた。店の前で二手に分かれると、着流しの裾を翻す勢いで歩き出していった。


 真輔は佐吉と待ち合わせた番屋に急いだ。 

 「遅くなってすまなかったな、佐吉」

 番屋の戸を開けると、佐吉と一緒に栄三郎がいる。

 「栄三郎も待っていてくれたのか。良かった、教えてもらいたいことがあって、店に寄ろうと思っていたところだ」
 「何でごさいましょう?」
 「うん、一昨日、本石町の精丸堂という生薬屋の一家が消えたのだが、その精丸堂は一年前に店を構えたばかりで、店を出す金はこの辺りの呉服屋か、古着屋が出したらしい。精丸堂の薬を贔屓にしていた店らしいのだが、痛み止めに頼るような病人か、持病のある年寄りがいる、金回りに余裕のある店に心当たりはないかな?」

 栄三郎は腕ぐみをして考え出した。

 「この辺りの大店では、病人の話は、めったなことでは表に出しません。商売上、得にはなりませんからね。亡くなってから、あれやこれやな話が出て来きます」
 「なるほど…」
 「今もその精丸堂とやらの薬を使っているんですね」
 「いや、待ってくれ。そうとは限らぬ」
 「ほう。ならば、一軒、真輔様の言う条件に合う店があります」
 「どこだ?」
 「へい、柳町にある古着屋のくれない屋です。あそこは、今年の春先に隠居が亡くなっています」
 「くれない屋、はて?」

 佐吉が助け船を出した。

 「表店ではありませんので、真輔様はまだお寄りになったことがありません。隠居が亡くなったのも、桜の頃、ご婚礼の前です」

 真輔が笠原家に婿入りして同心職を継いだのは、葉桜になり始めた頃であった。

 「そうか。しかし、くれない屋は表店ではないのか」

 残念そうな真輔の様子を見て、佐吉と栄三郎はそっと顔を見合わせた。番屋の中の者の耳をはばかり、栄三郎は真輔を表に誘った。番屋の外では、栄三郎の手下の平太がしゃがみこんでいた。栄三郎の顔を見て慌てて立ち上がり、栄三郎に睨まれる。

 「真輔様、あっしは番屋廻りの続きを致します。何かあれば、またこちらに戻りましょうか?」
 「いや、くれない屋に行くつもりだから、そちらへ…」

 真輔と佐吉の会話を聞いて、栄三郎が申し出た。

 「佐吉さんに、うちの平太をつかせてもよろしゅうございますか?足は速い方ですから、真輔様に伝言があれば使って下さい」
 「佐吉、かまわぬか?」
 「へい、ありがたいです」

 佐吉と平太が次の番屋に向かって歩き出した。それを見送ると、真輔と栄三郎も柳町に向かって歩き出した。栄三郎が歩きながら、番屋では出来なかった話を始めた。

 「くれない屋は、亡くなった隠居が起こした店でして。これは、以前に源右衛門様から伺っていた話なのですが、あそこは店先での商売は形ばかりで太い客筋に出向いて商売をしているそうです」
 「いなくなった精丸堂の娘のおみよは、なかなか上等の古着を着ていて、精丸堂の贔屓客からもらった物なのではないかと思うのだが」
 「なるほど、それなら合点がいきます。くれない屋は、お武家様の女中衆から古着を仕入れていましたから」
 「売り先は?」
 「仙台堀の先です」

 驚いた真輔の足が止まった。仙台堀の先にあるのは吉原である。

 「驚かれましたか?あっしも源右衛門様からお聞きしたときは、仰天しました」
 「今も、なのか?」

 真輔が疑問を持ったのは、先の老中が推進した庶民生活への過度の制約で、吉原の景気は衰退していたからである。

 「どうでしょうか…、蓄えは相当だという噂は聞いておりますが。そうだ、くれない屋の内情を知るのにちょうどよい者がおります。店に行く前に話を聞いてはいかがでしょう?」 
 
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登場人物紹介

笠原真輔(旧姓:立花)…旗本の次男坊だが、縁あって八丁堀同心の家に婿に入り、亡くなった義父の後を継いで町廻り同心をしている。婿入りまで算学を学んでいた。妻の百合と心が通じ合えるようになり、町廻りの仕事にもやりがいを感じている。

笠原百合…八丁堀同心の一人娘。父を亡くし、失意の中で真輔を婿に迎える。わけあって、真輔を受け入れられずにいたが、少しづつ心を通わせ思いあう仲になり、本来の自分を取り戻していった。

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