再会
文字数 4,107文字
「お帰りなさいませ」
気のせいか、出迎えた百合の眼が好奇心で輝いているように見える。
「ただいま。今日は百合もご苦労だった」
「いいえ、それより、お客様がお待ちです」
「誰かな?」
玄関の奥から懐かしい顔が覗いていた。
「耕助じゃないか」
「先輩、ご無沙汰してます。先輩宛てと思われる伝言を受け取りましたので、突然ですがお邪魔しました」
「伝言?誰からだ」
「千太という子供をご存じですか?」
「あぁ、算学教室に通っていた子だ。俺が辞める前に、薬屋に奉公に出た」
「その子が教室の前で、うちの生徒に先生に伝えてくれと頼んだそうです」
「麹町でか?」
「はい、虫食い算を解いたから神社に見に来てくれ、と」
真輔は、その場に立ち止まって眉根を寄せる。ため息を一つつくと、振り返って百合の手から刀を取り上げて腰に差し、玄関に戻って行った。
「あなた?」
「先輩?」
「すまぬ。千太を向かいに行かなければ」
「どういうことですの?」
百合の問いかけを背に、真輔は再び草履に足を入れていた。
「昔の教え子が奉公先を飛び出したのかもしれぬのだ。家に帰りづらく、私に頼ってきたのではないかと思う」
「まあ、家はどこですの?」
「麹町の伝介店だ」
玄関先で追いついた耕助が驚いたように
「算学教室の裏の長屋じゃないですか」
というと、真輔は頷いた。
「だから、長屋の者に見とがめられないように、伝言を頼んだのだろう」
「神社で待っているという意味ですか。場所はおわかりですか?」
「きっと、堀切稲荷だよ。千太はそこで虫食い算を解いたことがある」
「なるほど。帰り道だから、俺も一緒に行きますよ」
「あなた、お待ちください。今、提灯と傘を用意いたしますから」
気がせいていた真輔は、百合の声でようやく雨が降り出したことに気が付いた。
真輔たちが千太を迎えに出かけてからほどなく、「ごめん」と玄関先で聞きなれた声がした。
「まぁ、お兄様」
百合のいとこの夫で、隣に住む戸崎が、羽織についた雨粒を手ぬぐいで落としながら、軒下に立っていた。隣には、岡っ引きの宗助もいる。
「真輔はもう帰ったか?」
「すれ違いませんでしたか?一旦帰ってきたのですが、またすぐ出かけてしまって」
と、そこへもう一人、手ぬぐいを頭に被った男が駆けこんで来た。
「栄三郎じゃないか」
戸崎は軒下に栄三郎を招き入れた。
「すみません。やはり降り出してきちまいましたな」
「ご苦労だが、真輔はいないよ」
「どちらへ行かれたんですか?」
百合が申し訳なさそうに答える。
「昔の教え子を迎えに、麹町の堀切神社へ向かいましたの」
「麹町?どういう事情だ」
百合の説明を聞いた戸崎の顔が、思案気に傾いた。
「では、その千太と言う子の家が、伝助店だというのか?」
「はい、確かそうでしたが、それが何か?」
「精丸堂一家も、店を出す前はそこに住んでいた。それを真輔に、知らせに寄ったんだ」
戸崎の話を聞いて、百合と栄三郎は顔を見合わせた。
「それじゃあ、おみよと千太って子は知り合いってことですね」
栄三郎の言葉に、戸崎と宗助は頷いた。
「栄三郎、俺は、あんまり偶然って奴を信じねぇんだが」
「あっしもです」
「俺たちは、真輔たちを追おう。栄三郎はどうする?」
「あっしもお供します」
二人の会話を聞きながら、百合は不安が頭を持ち上げて来るのを押さえられなかった。
細かい雨粒が、あっという間に地面も空気も濡らして、冷やしていく。真輔と耕助は提灯を消さぬように神経を使いながらも、できる限り足を速めた。小さな稲荷神社についた時は、激しく吐く息が提灯の灯りに白く浮かんだ。祠 の周りは真っ暗で静まり返り、人気 がある様子はなかった。
「千太、千太、私だ」
真輔は小声で呼びかけた。すると、微かな音がして、祠の扉が少し開いた。真輔が提灯を掲げると、扉の影に千太の顔が覗いている。提灯を置いて扉に近づくと、千太が飛び出して真輔に抱き着いた。
「先生…」
「千太、無事で良かった」
「あっ」
背後で耕助が驚いた声を上げた。真輔が耕助の視線の先を見ると、祠の扉の奥にもう一つ、女の子の顔があった。暗い祠の中でも、色白のはっきりとした顔立ちが見て取れる。
「あっ…、もしかしたら、おみよか?」
真輔がやさしく声をかけると、女の子は小さく頷いた。
「先生、わけを聞いてくれ」
話し出そうとする千太の唇に真輔の人差し指がそっとあてられた。真輔の耳には、草を踏む微かな音が聞こえていた。千太を祠の方へ押しやり、耕助にも続けと合図をする。二人は足音を忍ばせて祠の中に入った。
すると、鳥居の影から男が二人、匕首 を手に飛び出してきた。真輔は、一人の足元に傘を投げつけると、もう一人の腹を、鞘ごと抜いた刀で突いた。男は体を二つ折りにしてあえぎ、いきなり胃の腑の中身を地面にぶちまけるとそのまま地面に倒れこんだ。今度は、傘を脛 に当てられひっくり返っていた男が起き上がり、匕首を手に突進してくる。真輔は身をかわし、距離を取ると、突き出されている匕首を持った手首を鞘で打ち、左にかえして、相手の右わき腹を容赦なく叩いた。男は悲鳴を上げると、後ろに尻から倒れこんだ。
「真輔!」
「真輔様!」
神社の入り口の方から、戸崎と栄三郎が大声で呼びかけた。男の悲鳴で異変を察知して、三人が走りこんで来た。境内に走り込むと、栄三郎と宗助は、倒れている男たちにすばやく縄をかけた。
「無事のようだな」
戸崎は真輔の姿を見て、安心したように息を吐き、次ににやりとした。
「まだ、十手より刀の方が使いやすいか」
「あっ、あぁ…。そうか。咄嗟に手にしたのはこちらでした」
真輔は苦笑しながら、鞘を腰に差しなおした。耕助が、祠の戸を開けて、二人の子供を後ろに従えて、おそるおそる出て来た。
「千太とおみよです」
真輔が戸崎に紹介すると、戸崎は頷き、
「やはり、偶然ってのはないもんだな。二人とも無事で良かった」
千太が真輔と戸崎に近寄ると、縛られた二人を指して小声で言った。
「あいつらがおみよちゃんを縛って船に乗せたんだ」
千太にくっついて立っていたおみよが、今度は大きく頷いた。
「もう、大丈夫だ。二度と手出しはさせない」
襲ってきた男たちは、宗助と栄三郎が番屋に連れて行った。子供がいるから舟で帰ろうと、船着き場へ戸崎が走り、真輔と耕助は二人を背負って歩き出した。
「おっかさんたちは大丈夫かな」
「岡っ引きの宗助が手配してくれるそうだ。安心しろ」
「先生、おいらは自分で歩けるよ」
「ろくに食ってないんだろう、無理するな」
「先生、いつのまにお役人になったんだい」
「おまえが奉公に出た後だ。同心の家に婿に入った」
「嫁さんができたの?」
「あぁ、これから会わせてやる。美人で驚くぞ」
千太が小さな笑い声をあげ、それから急に鼻をすすり、真輔の背中に顔を押し当てた。
船着き場に着くと戸崎は屋根付きの舟を用意してくれていた。船に乗ると、まだ一言も口をきかないおみよが、それでも安心したのか千太に寄りかかって寝息を立てだした。
八丁堀の真輔の屋敷に戻ると、百合とおまつ、佐吉が待ち構えて、二人の子供の世話を焼いた。粥を食べさせ、風呂に入れ、暖かくしておいた布団に寝かせると、二人ともことりと寝入ってしまった。
それからようやく、真輔と戸崎に夕餉が出された。
「悪いな、俺まで」
「お姉さまには、夕餉はうちで取っていただきます、と伝えてありますから。それで、後輩の方は帰ってしまわれたんですのね」
「そうか、あいつは夕餉を食いそびれたかもしれない。悪いことをしたな」
「今度、埋め合わせにご馳走いたしますから、およびしてくださいね」
「わかった」
百合は夕餉を出し終わると、台所に下がって行った。
「機嫌がよいな」
「おみよがみつかったからでしょう」
「おまえが無事に帰ってきたからだろう。俺も無事な姿を早く見せてやらないと」
戸崎は夕餉を掻き込むと、「それじゃあ、明日」と帰って行った。
「あら、お兄さま、もう帰ってしまわれたの?」
茶の用意をして戻って来た百合が驚いた。
「うん、夜中をまわっているからね」
「そうですわね。あなたも休まないと…。ね、危ないことはありませんでした?」
「ないよ。戸崎さんも栄三郎たちも来てくれたし」
疑わしそうな視線を向けられながら、真輔は茶をすすった。
眠っている千太とおみよの様子をふすまの隙間から確認すると、真輔と百合はようやく自分たちの寝間に入った。
「今日は大変な一日にしてしまったな。だが、本当に助かった。ありがとう」
枕元の行灯に灯を移している百合の背中に、真輔は感謝と労わりの言葉を掛けた。
「いいえ。こうしておみよちゃんの無事な姿を見ることができて、本当に良かったです」
「うん、これは千太の判断と勇気のおかげだな」
「二人は幼馴染なのですね」
「あぁ。おみよが本石町に移るまで、同じ長屋で育っているそうだ」
百合の顔が、ふと曇った。
「おみよちゃんは、もう、元の暮らしに戻れないのですね」
おみよの両親は、行方知れずの上、特別な許しが必要な芥子を使った痛み止めを無断で客に与えていたことがわかっている。たとえ二人が無事でいても、重罪は免れない。親子は、二度と今までの暮らしは送れないのである。そして、当然と思っていた暮らしが、突然消えるつらさを百合はその身で体験している。真輔は、そっと百合の肩に手を回した。
「それでも、子供には明日がある。私達にも、おみよのこれからについて、何かできることがきっとあるはずだ」
真輔の脳裏には、奉公先を飛び出してしまった千太の明日のこともあった。おみよをさらい、真輔たちを襲った二人は、千太の奉公先の薬種問屋富里屋に入って行ったのだと、真輔の背中で怯えていた。明日は、二人から詳しく話を聞こうと逸 る気持ちと共に、おみよに父母のことをどう伝えればよいのか迷う気持ちの二つを抱えながら、真輔の疲れた体は眠りに引き込まれていった。
気のせいか、出迎えた百合の眼が好奇心で輝いているように見える。
「ただいま。今日は百合もご苦労だった」
「いいえ、それより、お客様がお待ちです」
「誰かな?」
玄関の奥から懐かしい顔が覗いていた。
「耕助じゃないか」
「先輩、ご無沙汰してます。先輩宛てと思われる伝言を受け取りましたので、突然ですがお邪魔しました」
「伝言?誰からだ」
「千太という子供をご存じですか?」
「あぁ、算学教室に通っていた子だ。俺が辞める前に、薬屋に奉公に出た」
「その子が教室の前で、うちの生徒に先生に伝えてくれと頼んだそうです」
「麹町でか?」
「はい、虫食い算を解いたから神社に見に来てくれ、と」
真輔は、その場に立ち止まって眉根を寄せる。ため息を一つつくと、振り返って百合の手から刀を取り上げて腰に差し、玄関に戻って行った。
「あなた?」
「先輩?」
「すまぬ。千太を向かいに行かなければ」
「どういうことですの?」
百合の問いかけを背に、真輔は再び草履に足を入れていた。
「昔の教え子が奉公先を飛び出したのかもしれぬのだ。家に帰りづらく、私に頼ってきたのではないかと思う」
「まあ、家はどこですの?」
「麹町の伝介店だ」
玄関先で追いついた耕助が驚いたように
「算学教室の裏の長屋じゃないですか」
というと、真輔は頷いた。
「だから、長屋の者に見とがめられないように、伝言を頼んだのだろう」
「神社で待っているという意味ですか。場所はおわかりですか?」
「きっと、堀切稲荷だよ。千太はそこで虫食い算を解いたことがある」
「なるほど。帰り道だから、俺も一緒に行きますよ」
「あなた、お待ちください。今、提灯と傘を用意いたしますから」
気がせいていた真輔は、百合の声でようやく雨が降り出したことに気が付いた。
真輔たちが千太を迎えに出かけてからほどなく、「ごめん」と玄関先で聞きなれた声がした。
「まぁ、お兄様」
百合のいとこの夫で、隣に住む戸崎が、羽織についた雨粒を手ぬぐいで落としながら、軒下に立っていた。隣には、岡っ引きの宗助もいる。
「真輔はもう帰ったか?」
「すれ違いませんでしたか?一旦帰ってきたのですが、またすぐ出かけてしまって」
と、そこへもう一人、手ぬぐいを頭に被った男が駆けこんで来た。
「栄三郎じゃないか」
戸崎は軒下に栄三郎を招き入れた。
「すみません。やはり降り出してきちまいましたな」
「ご苦労だが、真輔はいないよ」
「どちらへ行かれたんですか?」
百合が申し訳なさそうに答える。
「昔の教え子を迎えに、麹町の堀切神社へ向かいましたの」
「麹町?どういう事情だ」
百合の説明を聞いた戸崎の顔が、思案気に傾いた。
「では、その千太と言う子の家が、伝助店だというのか?」
「はい、確かそうでしたが、それが何か?」
「精丸堂一家も、店を出す前はそこに住んでいた。それを真輔に、知らせに寄ったんだ」
戸崎の話を聞いて、百合と栄三郎は顔を見合わせた。
「それじゃあ、おみよと千太って子は知り合いってことですね」
栄三郎の言葉に、戸崎と宗助は頷いた。
「栄三郎、俺は、あんまり偶然って奴を信じねぇんだが」
「あっしもです」
「俺たちは、真輔たちを追おう。栄三郎はどうする?」
「あっしもお供します」
二人の会話を聞きながら、百合は不安が頭を持ち上げて来るのを押さえられなかった。
細かい雨粒が、あっという間に地面も空気も濡らして、冷やしていく。真輔と耕助は提灯を消さぬように神経を使いながらも、できる限り足を速めた。小さな稲荷神社についた時は、激しく吐く息が提灯の灯りに白く浮かんだ。
「千太、千太、私だ」
真輔は小声で呼びかけた。すると、微かな音がして、祠の扉が少し開いた。真輔が提灯を掲げると、扉の影に千太の顔が覗いている。提灯を置いて扉に近づくと、千太が飛び出して真輔に抱き着いた。
「先生…」
「千太、無事で良かった」
「あっ」
背後で耕助が驚いた声を上げた。真輔が耕助の視線の先を見ると、祠の扉の奥にもう一つ、女の子の顔があった。暗い祠の中でも、色白のはっきりとした顔立ちが見て取れる。
「あっ…、もしかしたら、おみよか?」
真輔がやさしく声をかけると、女の子は小さく頷いた。
「先生、わけを聞いてくれ」
話し出そうとする千太の唇に真輔の人差し指がそっとあてられた。真輔の耳には、草を踏む微かな音が聞こえていた。千太を祠の方へ押しやり、耕助にも続けと合図をする。二人は足音を忍ばせて祠の中に入った。
すると、鳥居の影から男が二人、
「真輔!」
「真輔様!」
神社の入り口の方から、戸崎と栄三郎が大声で呼びかけた。男の悲鳴で異変を察知して、三人が走りこんで来た。境内に走り込むと、栄三郎と宗助は、倒れている男たちにすばやく縄をかけた。
「無事のようだな」
戸崎は真輔の姿を見て、安心したように息を吐き、次ににやりとした。
「まだ、十手より刀の方が使いやすいか」
「あっ、あぁ…。そうか。咄嗟に手にしたのはこちらでした」
真輔は苦笑しながら、鞘を腰に差しなおした。耕助が、祠の戸を開けて、二人の子供を後ろに従えて、おそるおそる出て来た。
「千太とおみよです」
真輔が戸崎に紹介すると、戸崎は頷き、
「やはり、偶然ってのはないもんだな。二人とも無事で良かった」
千太が真輔と戸崎に近寄ると、縛られた二人を指して小声で言った。
「あいつらがおみよちゃんを縛って船に乗せたんだ」
千太にくっついて立っていたおみよが、今度は大きく頷いた。
「もう、大丈夫だ。二度と手出しはさせない」
襲ってきた男たちは、宗助と栄三郎が番屋に連れて行った。子供がいるから舟で帰ろうと、船着き場へ戸崎が走り、真輔と耕助は二人を背負って歩き出した。
「おっかさんたちは大丈夫かな」
「岡っ引きの宗助が手配してくれるそうだ。安心しろ」
「先生、おいらは自分で歩けるよ」
「ろくに食ってないんだろう、無理するな」
「先生、いつのまにお役人になったんだい」
「おまえが奉公に出た後だ。同心の家に婿に入った」
「嫁さんができたの?」
「あぁ、これから会わせてやる。美人で驚くぞ」
千太が小さな笑い声をあげ、それから急に鼻をすすり、真輔の背中に顔を押し当てた。
船着き場に着くと戸崎は屋根付きの舟を用意してくれていた。船に乗ると、まだ一言も口をきかないおみよが、それでも安心したのか千太に寄りかかって寝息を立てだした。
八丁堀の真輔の屋敷に戻ると、百合とおまつ、佐吉が待ち構えて、二人の子供の世話を焼いた。粥を食べさせ、風呂に入れ、暖かくしておいた布団に寝かせると、二人ともことりと寝入ってしまった。
それからようやく、真輔と戸崎に夕餉が出された。
「悪いな、俺まで」
「お姉さまには、夕餉はうちで取っていただきます、と伝えてありますから。それで、後輩の方は帰ってしまわれたんですのね」
「そうか、あいつは夕餉を食いそびれたかもしれない。悪いことをしたな」
「今度、埋め合わせにご馳走いたしますから、およびしてくださいね」
「わかった」
百合は夕餉を出し終わると、台所に下がって行った。
「機嫌がよいな」
「おみよがみつかったからでしょう」
「おまえが無事に帰ってきたからだろう。俺も無事な姿を早く見せてやらないと」
戸崎は夕餉を掻き込むと、「それじゃあ、明日」と帰って行った。
「あら、お兄さま、もう帰ってしまわれたの?」
茶の用意をして戻って来た百合が驚いた。
「うん、夜中をまわっているからね」
「そうですわね。あなたも休まないと…。ね、危ないことはありませんでした?」
「ないよ。戸崎さんも栄三郎たちも来てくれたし」
疑わしそうな視線を向けられながら、真輔は茶をすすった。
眠っている千太とおみよの様子をふすまの隙間から確認すると、真輔と百合はようやく自分たちの寝間に入った。
「今日は大変な一日にしてしまったな。だが、本当に助かった。ありがとう」
枕元の行灯に灯を移している百合の背中に、真輔は感謝と労わりの言葉を掛けた。
「いいえ。こうしておみよちゃんの無事な姿を見ることができて、本当に良かったです」
「うん、これは千太の判断と勇気のおかげだな」
「二人は幼馴染なのですね」
「あぁ。おみよが本石町に移るまで、同じ長屋で育っているそうだ」
百合の顔が、ふと曇った。
「おみよちゃんは、もう、元の暮らしに戻れないのですね」
おみよの両親は、行方知れずの上、特別な許しが必要な芥子を使った痛み止めを無断で客に与えていたことがわかっている。たとえ二人が無事でいても、重罪は免れない。親子は、二度と今までの暮らしは送れないのである。そして、当然と思っていた暮らしが、突然消えるつらさを百合はその身で体験している。真輔は、そっと百合の肩に手を回した。
「それでも、子供には明日がある。私達にも、おみよのこれからについて、何かできることがきっとあるはずだ」
真輔の脳裏には、奉公先を飛び出してしまった千太の明日のこともあった。おみよをさらい、真輔たちを襲った二人は、千太の奉公先の薬種問屋富里屋に入って行ったのだと、真輔の背中で怯えていた。明日は、二人から詳しく話を聞こうと