冒険談

文字数 2,629文字

 千太とおみよを連れ帰った翌日は、昨夜の雨に濡れた庭木の葉がきらきら光るような秋晴れになった。その明るい陽射しが東の空から斜めに差し出し始めた頃、風呂敷包みを抱えた栄三郎が八丁堀の笠原家に顔を出した。庭で十手術の鍛錬をしている真輔に、百合が声を掛けた。

 「あなた、栄三郎がまいりました。昨夜、伝えそびれたことがあるそうですが」
 「あぁ、昨夜は話をする暇がなかったから」
 「それと、子供たちの着替えを持ってきてくれました」
 「着替え…」
 「店のお仕着せから、着丈の合いそうなものを、おきぬさんが見繕ってくれたそうです。着物もずいぶん汚れておりましたから、助かります」
 
 真輔が手早く汗をぬぐい着物の袖を手に通していると、栄三郎が庭に回り、小腰をかがめて真輔に挨拶をした。

 「昨夜は、遅くに騒動に巻き込んでしまって、申し訳なかった。それに、子供たちの着替えはありがたい。百合も喜んでいる」
 「何、どちらもあっしの商売ですから。昨日お伝えできなかったくれない屋のことですが、やはり商売はかなり苦しいようで、精丸堂の出店でも、今の主人と先代はかなり揉めたそうです。それと、精丸堂の孝三は、長崎の出じゃないかと、女中が言っておりました」
 「長崎か…」

 真輔はおみよの顔立ちを見て頭に浮かんだ仮説に、証拠が加わったと思った。

 「栄三郎、くれない屋は、精丸堂の作る薬を商売にしようとしたと考えられないか?」
 「はい、金に詰まって店を持たせた恩を返させようとした、考えられる筋です。一応、平太に店を見張らせております」
 「さすがだな。だが、もう一つ気になる店があるのだが」
 「どちらですか?人手なら用意できます」
 「富里屋だ。昨日の二人組が富里屋に入ったのを千太が見ているんだ」
 「ということは、少なくともおみよのかどわかしに富里屋が絡んでいるかもしれない、ということですな」
 「うん。二人の調べは戸崎さんがしてくれるので、何かわかったら知らせる。私は子供たちが起きたら、話を聞くつもりだ」
 「承知しました。富里屋も見張らせましょう。あそこは深川に本店があります。そちらも含めて、調べておきましょう」

 栄三郎が帰り、目覚めた二人の子供からこれまでの話を聞くことにした真輔は、百合にその場に同席してくれるように頼んだ。千太はともかく、おみよは不安で心が押しつぶされているだろう、少しでも場を和らげたいという真輔の配慮に、百合は喜んで協力した。

 聞き取りが終わった真輔が、まずは上司の土井に報告をしようと奉行所へ出仕した。すると、その奉行所の玄関で待ち構えていた中間から逆に、「土井様がお待ちです」と告げられた。慌てて土井の元に駆け付けると、挨拶をする間もなく、

 「笠原、今朝早く、精丸堂の夫婦が本石町の番屋に駆け込んできたぞ」

 という土井の大声に迎えられた。土井の前に座って下げかけていた頭が勢いよく上がり、真輔の厚いレンズの奥の目が大きく開いていった。

 「何と、二人は無事だったのですか?」
 「うむ。身を隠していたが、娘の人相書きまで出ているのに驚いて出て来たようだ。須藤に二人を大番屋に移させているので、詳しいことはそれからの聞き取りになるな」
 「身を隠していたとは…。しかし、何故…。私の方は、昨夜遅くに、おみよを見つけることができました。怪我はありませんでしたが、今は私の家で休ませております」

 こんどは土井が、腰を浮かせた。

 「おぉ、それは朗報。だが、子供が数日もどこでどうしていたのだ?おまえは、どうやって見つけたのだ?」

 土井から、矢継ぎ早の質問が飛ぶ。
 
 前夜、疲れ果てていた千太とおみよは、すぐに眠りについてしまったし、真輔も二人に説明を求めることはしなかった。だが、目覚めると、千太とおみよは二人して、真輔と百合に、話しを始めた。話しだすと、それはだんだんに熱を帯び、我先にここ数日の冒険談を語って行く。結局、佐吉やおまつも聞き手に加わり、みんなで二人の頑張りを大いに褒めながら、奉行所に行く前に、報告すべきことを聞き出すことができた。

 「では、手習いの帰りにさらわれて舟に乗せられたと、精丸堂の娘は申しておるのだな」
 「はい、その舟が富里屋の荷上場に着いたところで、千太が縛られたおみよをみつけたそうです。おみよをさらった二人組が富里屋に入っている隙に、千太がおみよを救い出し、大通りの人込みに紛れて麹町まで逃げました。麴町は千太の家があり、土地勘があります」
 「自分の家に行かなかったのは、何故だ。おみよは親元に戻りたがらなかったのか」
 「麴町にたどり着くまで、二人で色々と考えたのだそうです。まず、千太は、人さらいの二人が富里屋に入ったことで、千太の家ではすぐに手が回ると考えたそうです。おみよは、自分が本石町の店の近くで拉致されたことで、親にも何かあったのではないかと思ったそうです」
 「千太という子供は、知恵者だな。しかし、おみよの方、何か知っていてそう思ったのか…」
 「具体的なことは何も。ただ、親が何か不安なことを抱えているように感じていたようです。夜中に(かわや)に起きた時など、夫婦が暗い声で何か話し合っていて、声をかけられなかったと」

 麹町までたどり着いたものの、頼る相手のいない二人は、堀切稲荷で雨露をしのいでいた。この稲荷は千太にとって思い出深い場所だ。真輔がいくつか問題を絵馬にして社に掛け、算学教室の子供たちに挑戦させた時、千太は真っ先に虫食い算の問題を解き、その解答を真輔が絵馬にして問題の隣に並べた。千太にとって、ほこらしい思い出である。そして、子供の頃から、豆腐屋の女隠居が毎日大きな稲荷ずしを供えに来ることも知っていた。奉公に出る前は、幼い弟の手を引いてここに来て、その稲荷ずしで空腹を満たしたこともあった。父親を病気で亡くした後、母の仕事が決まらず食事にも事欠く時期の、こちらは辛い思い出である。
 この稲荷ずしと、おみよが持っていたわずかな銭で買ったふかし芋が、二人の食べ物だった。千太は、算学教室の日まで我慢しよう、そうすれば笠原先生が必ず自分たちの話を信じて守ってくれる、とおみよに言った。おみよは途方にくれていたので、千太を信じる以外なく、寒さもひもじさも我慢していたのだった。

 同じ頃、昨夜の二人組の調べを終えた戸越が奉行所へ向かって走り、大番屋では、そこに引き立てられてきた精丸堂の夫婦に対する調べが始まっていた。
 
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登場人物紹介

笠原真輔(旧姓:立花)…旗本の次男坊だが、縁あって八丁堀同心の家に婿に入り、亡くなった義父の後を継いで町廻り同心をしている。婿入りまで算学を学んでいた。妻の百合と心が通じ合えるようになり、町廻りの仕事にもやりがいを感じている。

笠原百合…八丁堀同心の一人娘。父を亡くし、失意の中で真輔を婿に迎える。わけあって、真輔を受け入れられずにいたが、少しづつ心を通わせ思いあう仲になり、本来の自分を取り戻していった。

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