別れ

文字数 3,162文字

 真輔に助けられてこの家に来た時のおみよは、すぐにも元の生活に戻れるような心持ちでいた。だから、それまでの数日の辛く不安な経験も、千太と共に乗り越えた冒険のように考えることができていた。しかし、両親には事情があり、しばらくは会えないだろうと真輔に伝えられてから、おみよの小さな胸は日に日に膨らむ不安でいっぱいになっていった。それでも、笠原家の人々や千太の気遣いに答え、皆の前では努めて明るくしていたのだった。
 評定(ひょうじょう)のあった日の夜、真輔はおみよと千太に、おみよの両親に起きたことを話して聞かせた。父親の孝三が、長崎で清の薬師(くすし)から薬の作り方を学んだこと、その中に幕府の禁じている薬のあったこと、その薬をくれない屋で求められて作ったこと、そして御禁制の薬を作ったことに対して罰が与えられることになったことを。

 「どんな罰ですか?」

 おみよの声が震えている。

 「残念だが、遠島(えんとう)を申し渡された…」
 「島流し?」
 「そうだ」

 涙が、おみよの大きな瞳から溢れ出て来る。膝の上に置いた手をきつく握りしめ、荒い呼吸が口から洩れ、やがてそれはしゃくりあげる声に変る。すばやくおみよににじり寄った百合が肩を抱くと、その体に抱き着き、膝に顔を埋めて泣きじゃくった。今まで耐えて来た恐怖や不安の全てを吐き出し、希望を捨て去ったかのような、激しい涙だった。
 おみよを抱きかかえ一緒に涙する百合と、怒ったような顔で(うつむ)いている千太を前に、真輔は半ば茫然と、自分の無力を噛みしめていた。おみよの激しい涙の波が少しづつ収まり始めた頃、千太がぽつりと問いを投げかけた。

 「帰って来れるんですよね?」
 「望みがないわけではないが、約束はできない」

 真輔の答えを聞いた千太は、それ以上何も言わなかった。島流しになった者は、いつ出るかわからない赦免を待つことになる。そのわずかな望みにおみよを(すが)らせることがどれほど残酷なことか、それが想像できるほど千太の心は大人になっている。そのことにも、真輔は自分の無力を感じていた。四人の上に漂う重い空気を払ったのは、百合だった。泣き疲れたおみよの肩を掴み、起き上がらせると、

 「おみよちゃんのお父さん、お母さんは、島に行ってもお薬を作って、島の人たちに喜ばれて暮らしていくに違いありませんよ。だから、おみよちゃんも負けずに元気にしていなきゃ」
 「島でも生薬屋をやれるの?」
 「そうよ。島の中では、普通に暮らせるのよ。おみよちゃんのお父さんとお母さんなら、長崎でも江戸でもやってきたのだもの、島に行ってもできますとも」

 おみよは、百合の言葉に、けなげに(うなづ)いた。真輔はと言えば、ようやく落ち着いたおみよに、

 「島への船が出る時には、見送りができるよ」

 と声を掛けるのが精いっぱいであった。

 おみよと千太がようやく寝付いた深夜、二人の寝間から離れた台所で、真輔は百合と佐吉、おまつに評定の結果を詳しく説明した。

 「実は、くれない屋の主人の与一郎は、死罪となったのだ」
 「真輔様が、くれない屋の寮で見つけた芥子が…」
 「そうだ。佐吉が掘り出したあの草が、与一郎の罪状の主な理由になった。私たちは、与一郎 は江戸所払いに済んでしまうのではないかと思っていたので、評定の結果には少々驚いているのだ」

 くれない屋として繋がりのあった大奥の上位の女中に孝三の作った痛み止めを渡していた与一郎は、大奥が(かば)ってくれるものと思い、真輔たちも、大奥がからむがためにうやむやにされるのではないかと心配していた。だが、真輔も聞きかじってはいた、隣国の清で起きたアヘンの蔓延とそれに関わったイギリスとの戦争から、幕府にとってアヘンは脅威であり、日本での流通には神経をとがらせていた。それが今回の与一郎の刑に繋がっているようだ、と土井が真輔たちに説明した。おそらく、くれない屋と取引があった女中は、ひっそりと宿下がりさせられるのであろう。
 与一郎の刑に比べれば、孝三夫婦が島流しで済んだのは、温情を掛けられたと言ってもよい。だが、おみよにはそうは言えない。おみよにしてみれば、わけのわからないうちに、親と引き離されることが決まったのだ。

 「おみよちゃんが、安心して暮らせるような場所を、必ず探してあげましょうね」

 百合に真剣な顔で言われ、真輔は以前から頭にあった、中村江紗に相談する案を口にした。

 「私も、同じことを考えていました。私が相談にあがってもよろしいかしら?」
 「頼もうと考えていた」
 「まぁ、真輔様と百合様は、以心伝心でございますね」

 おまつの言葉で、ようやく真輔の顔にかすかな笑みが浮かんだ。そして、無力なりにできることをするしかない、と心を立て直した。
 百合と二人になると、真輔はあらためて孝三夫婦とおみよの歩んできた道のりを百合に伝えた。百合は、長崎での話にまた泣き、夫婦が足を踏み外し、落ちて行った闇の深さに震えた。翌朝、百合はさっそく手紙を書いて江紗に送った。すると、その翌日、江紗の返事を持って、(そら)が笠原家を訪ねて来た。

 「おみよちゃん。無事で良かった。先生も知らせを聞いて、とてもお喜びでしたよ」

 旧知の穹の顔を見て、おみよはまた少し落ち着きを取り戻したようだった。

 「ご心配をおかけして、申し訳ございません」

 行儀よく頭を下げるおみよの手を取ると、穹はかぶりを振った。

 「あなたが謝ることは何もないのよ。先生も私も、ただ、あなたの無事を喜んでいるだけなの」

 穹のやさしい言葉に、また新たな涙を浮かべるおみよだった。

 江紗の手紙には明日にでも会いたいとあり、百合は翌日、番町まで飛んで行った。何もかも打ち明けて助力を求めた百合に、江紗は思いがけない提案をする。


 それから十日後、秋晴れの永代橋の(たもと)では、百合やおまつが見守る中、おみよが島に送られる両親と別れの時を過ごしていた。百合やおまつの手を借りながら縫った綿入れや栄三郎が用意してくれた米や味噌、かつおぶし等が渡される。互いの思いを語り合うほどの時はなく、泣きながら再会を誓うだけであった。
 そこへ、女籠が到着し、側に穹が付き添っている。百合があわてて駆け寄り、籠から降りる江紗を出迎えた。

 「おみよをこれから預かるのですから、親御に挨拶をしなければと思いましてね」

 江紗はにこやかに言うと茫然と見ている三人に近寄って行った。

 「先生」

 おみよが嬉しそうに声をあげ、孝三とおさんは手にしていた荷物を取り落とし、地面に膝をつき額を地面に当たりそうなほど下げた。江紗はおみよの手を取り、二人の前にしゃがむと、静かに語りかけた。

 「笠原様から、話は全て聞きました。おみよは内弟子として、私がしっかり育てて行きますから、会える日を信じて、島で元気に暮らすのですよ」

 おさんは顔を上げると、江紗の顔をひたと見つめ、祈るように手を合わせるとありがとうございます、と繰り返した。孝三は頭を下げたまま、肩を震わせている。そこへ、江紗の威厳に圧倒されていた役人が、船の漕ぎ手にせかされて、孝三たちに舟に乗るようにと遠慮がちに告げた。二人を乗せた舟は、八丈島に向かう船の泊まる品川へ向かって進んで行った。おみよは泣きながら、いつまでも手を振り続け、百合も一緒に手を振り続けた。

 「もう、舟は出ちまったでしょうかね…」

 町廻りの途中で、大川の方を振り返りながら佐吉がつぶやいた。真輔も足を止める。

 「そうだな。そろそろだろう」
 「戻って来れるといいですね」
 「うん…」

 明日には、千太とおみよは、新しい生活を始めるために笠原家を出て行く。

 「明日から、家の中が静かになるな」
 「寂しゅうございますな」
 「そうだな」

 だが、感傷に浸っている暇はない。二人は踵を返すと、次の番屋に向かって速足に歩き出した。
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登場人物紹介

笠原真輔(旧姓:立花)…旗本の次男坊だが、縁あって八丁堀同心の家に婿に入り、亡くなった義父の後を継いで町廻り同心をしている。婿入りまで算学を学んでいた。妻の百合と心が通じ合えるようになり、町廻りの仕事にもやりがいを感じている。

笠原百合…八丁堀同心の一人娘。父を亡くし、失意の中で真輔を婿に迎える。わけあって、真輔を受け入れられずにいたが、少しづつ心を通わせ思いあう仲になり、本来の自分を取り戻していった。

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