月見台

文字数 3,204文字

 翌日の早朝、真輔は穏やかな風を頬に感じながらくれない屋の持つ屋根船の穂先に腰かけ、東の空に昇り始めた、これも秋らしい穏やかな日差しが川面にきらめきを与えているのを見つめていた。側には栄三郎と佐吉が、船尾には船頭と共にくれない屋の手代がいる。

 昨日は、精丸堂夫婦の調べの途中にくれない屋の名前が出た時点で、真輔は佐吉と共にくれない屋に向かった。早朝から店を見張っていた平太に、栄三郎が加わって様子を伺っているところに合流する。栄三郎たちは裏に回わり、真輔は佐吉と表に陣取った。奉行所からの指示を、いつも通り商売をする店の暖簾の奥を見つめながら待った。

 くれない屋の主人与一郎は、暖簾を分けて入ってきた八丁堀同心と捕り方たちの姿を見ても至極(しごく)落ち着いていた。それは、まるで覚悟というより、備えが既にできているかのようだった。孝三の調べが終わり池田の前に座らされた与一郎は、父親が使っていた痛み止めについては認めたが、それ以降も孝三に薬を作るように強要したことは認めなかった。

 「痛みに苦しむ父を見ていられなかったのです。薬のことは私にはわかりません。でも、これほど効くのは、何か特殊なもの、もしかすると唐物、ご法度の物かもしれないと不安ではありました。それでも、父が少しでも安らかになれるなら、この身はお縄になってもかまわないと思い詰めていました。いえ、品川の寮で何があったのかは知りません。私は店を留守にできませんから、品川の寮には父が亡くなるまで行けずじまいでございました。父が亡くなり、精丸堂とは縁が切れました。店まで出させておきながら、悪事を私のせいにすとは…」

 与一郎のなめらかな(かた)りは、誰の胸にも響かなかったであろう。だが、孝三と与一郎の二人の間で交わされた話は、他の誰にも証しが立てられない。吟味方与力の池田は、くれない屋を罰するためには品川の寮で芥子を見つけるしかないと言った。

 「知らぬ存ぜぬと申し立てたところで、ご法度(はっと)の芥子を育てた(せめ)は寮の持ち主が負うべきものだ。孝三は全部刈ったと言っていたが、根こそぎ抜いたわけではないのだから、きっと見つけられるはずだ」

 ならば芥子の葉を見分けられる自分が、と真輔が名乗り出て、こうして品川に向かっているのだった。船が流れに乗り始めると、真輔は船尾に届かないように小声で、前日の取り調べの内容を栄三郎と佐吉の二人に伝えた。船尾には船頭の(そば)に案内役として、寮への使い役をしていたという手代が乗っていた。

 「くれない屋は、孝三に作らせた痛み止めをどこに売るつもりだったのでしょう…まさか?」

 栄三郎の問いに、真輔が答える。

 「池田様は、大奥であろうと(うれ)いておられた。そうなると町方には手出しができないからな。くれない屋の主人与一郎が、余裕を見せているのはそのためだろう。故に、何としても寮で芥子の葉をみつけなければならぬ」
 「店の奉公人は知らぬことでしょうな」

 佐吉の言葉に栄三郎も同意した。

 「やはり、そういうものなのか。くれない屋の番頭や、あの…」

 真輔はちらりと船尾の手代を振り返った。

 「手代も調べを受けたのだが、驚くばかりで何も知らない様子だった」

 栄三郎と佐吉は顔を見合わせ、頷き合うと、栄三郎が真輔に向き合った。

 「まともな番頭なら、主人が悪事を企んでいることを知ったら主人を(いさ)めるでしょうし、手代ならおそらく店移りの準備を始めるでしょう。店が闕所(けっしょ)になったら、連座させられる恐れもありますから」
 「理にかなった判断だな。やはり、己の才覚で生きている者たちは正しい道を選ぶのだな」
 「悪の道を選ぶ者もいないわけではありませんが」

 くれない屋の寮は、海辺を見下ろす高台にあり、その奥には薩摩藩のいくつかある下屋敷の一つの広大な敷地が広がっていた。建物は一間だけの小さな二階を持つ、こじんまりとした物だった。手入れの止まった前庭は、夏に伸びた雑草が枯れ始めている。それに比べて、孝三が芥子を刈ったばかりの裏庭は、塀の際までさっぱりと草を刈られていた。

 「ずいぶんと几帳面に刈ったものですね」

 佐吉は渋い顔をしながら言ったが、真輔は気にせず尻はしょりをして、丹念に地面際の切り口を見て行った。すぐに芥子らしき茎を見つけ、それを佐吉が丁寧に根ごと掘り起こす。さらに建物の横の小道で、植木に隠れるように生えている芥子も見つけた。

 「収穫は充分だな」
 「さようでございますな」

 真輔と佐吉は腰を伸ばし、栄三郎と手代が雨戸を開けておいた寮の中に入った。こじんまりとした家だが、家財道具もなくがらんとしていると、それなりに広く感じる。

 「ご覧の通りも抜けの空で、湯も沸かせませんや」

 栄三郎が土間から座敷に入ってきた。その隣で手代が恐縮している。

 「申し訳ありません。家財道具は鍋窯まで、旦那様が売り払ってしまわれましたもので」
 「かまわないよ。それより、二階に上がってみたいのだが」
 「ご案内いたします」

 急な階段を昇る二階は、四畳半ほどの広さの板の間だった。四方に板戸を下しただけの大きな窓があり、内側に手すりが(めぐら)らしてある。手代が次々と窓の板戸を上げて回った。

 「すまぬが、下で待っていてくれ」

 手代を二階から下がらせると、真輔は順繰りに四つの窓から外を眺め、栄三郎と佐吉がそれに続いた。

 「ここから、くれない屋の先代は何を見ていたんでしょうね」

 海沿いの品川の遊郭を見下ろしていた栄三郎が、(つぶや)いた。先代は品川の生まれで、ここの遊郭で働く女たちを相手の古着売りから身を起こした男である。反対側の窓から裏庭の方を見ていた真輔が振り返って答えた。

 「この寮は、元々、先代が昔馴染みの品川遊郭の女郎を落籍(ひか)せて住まわせるためのものだったそうだ。昔の店を見下ろしながら月見をしたい、とこの二階を月見台として増築したのはその女だと、昨日のお調べでくれない屋の番頭が言っていた。だから、今の主人は女が死んでからも、ここには来たがらなかったようだ」
 「父親がめかけを住まわせていた家だからですね。だから、家財道具もさっさと売っ払ってしまえたのか」
 「それより、二人とも、こっちを見てくれ」

 真輔は、いつのまにか取り出した望遠鏡を使って覗いていた、窓の先を示した。そこは、薩摩藩下屋敷の庭である。そして、そこには、何か刈り取ったかのような、この寮の裏庭と同じような跡があった。栄三郎と佐吉も、代わる代わる望遠鏡を使って下屋敷の庭を覗いた。

 「まさか、あそこにも芥子が植わっていたと?」
 「可能性はある。あそこから種子がここの庭に飛んで来てもおかしくはない。確かめられないものかな」
 「町方は、大名屋敷の中に入って調べることはできません」

 佐吉が慎重に言葉を挟んだ。

 「それに、たとえ芥子であっても、誰が植えたのかわかりません」

 江戸の外れにある人気(ひとけ)のない下屋敷、築地(ついじ)にもほころびが多数ある。

 「近頃は、大名の下屋敷の庭は、奉公人や近隣の者の畑にされているようでござんすよ」

 栄三郎にも言われ、真輔は大人しく望遠鏡をしまい、階下に降りた。武家や寺社の絡む悪事は、調べることも、裁くことも町方にはできないやっかいなものである。結局、真輔は後ろ髪をひかれながら、船に戻った。

 あの築地の先で芥子を育てていた者は、種が思いがけず遠くまで飛び、その種がこの寮の庭で育っていたことに、そして精丸堂の孝三がそれを刈って運んでいることに気が付いた。そして、孝三の仕事を知って、驚き、恐れたのだ。孝三が警戒して逃げたために、今度はおみよをかどわかし孝三を脅そうとしたが、おみよにも逃げられた。おそらく、孝三が言っていた店を見張っていた目つきの鋭い男も、仲間であろう。そして、富里屋の番頭も。やはり、富里屋が突破口になるかもしれない…。

 船の中で真輔は、行きと打って変わり寡黙に考え込んでいた。

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登場人物紹介

笠原真輔(旧姓:立花)…旗本の次男坊だが、縁あって八丁堀同心の家に婿に入り、亡くなった義父の後を継いで町廻り同心をしている。婿入りまで算学を学んでいた。妻の百合と心が通じ合えるようになり、町廻りの仕事にもやりがいを感じている。

笠原百合…八丁堀同心の一人娘。父を亡くし、失意の中で真輔を婿に迎える。わけあって、真輔を受け入れられずにいたが、少しづつ心を通わせ思いあう仲になり、本来の自分を取り戻していった。

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