真輔の不安
文字数 2,019文字
その夜、真輔は八丁堀の医師、良庵の元を訪ね、家に帰る前に隣の戸崎家の門をくぐった。戸崎健吾は、百合の従妹の初枝を妻とし、町廻り同心の仕事を一から真輔に教えてくれた先輩でもある。真輔が玄関先でおとないを入れると、賢吾が自ら出て来た。
「おお、真輔か」
「夜分すみません。少し相談させていただきたいことがありまして」
「なんだ、百合と喧嘩でもしたのか」
「い、いえ、そういうことではありません」
慌てる真輔を見て、賢吾はおおらかに笑うと、真輔を家の中に招き入れた。
「あがれ、あがれ。初枝が今、子供を寝かしつけているので、我が家もようやく静かになったところだ」
三人の幼い子供を抱える戸崎家では、妻の初枝は常に忙しい。真輔を居間に招き入れると、賢吾は自ら台所から徳利と杯を持ってきた。
「これは、今日、百合が持ってきてくれた酒だがな」
「頂き物があったのです。私は家で飲みましたので…」
「うちでは俺以外、今は誰も飲まないんだよ。付き合ってくれ」
戸崎家の奉公人は親の代からの年老いた下男と、その10代の孫娘が子守りとして住み込んでいるだけである。妻の初枝はまだ乳離れのしていない赤ん坊を抱えている。真輔は素直に杯を受け取ると、百合が本石町に行った話をした。そして、百合の持ち帰った葉の切れ端を見せた。
「良庵先生は、なんと?」
「芥子 の葉であろうと」
「おまえの見立て通りか…。そうなると、その精丸堂一家が消えたのもきな臭い話になるな」
「はい。そんな話に百合が関わったことが心配です」
百合の父親の笠原源右衛門は、何者かに切られ非業の死を遂げている。そのことを考えると、不安が頭を持ち上げて来る。
「うん、百合はおまえと一緒になってすっかり大人しくなったのかと思ったが、生来の好奇心が頭をもたげてきたようだな」
「元気なことは嬉しいのですが…」
真輔と婚礼を上げてからも、父の死と、その後に百合を襲ったある出来事のせいで、心を閉ざしふさぎ込んでいる日々がしばらく続いたのだった。
「それに、本石町は廻り先ではないので、この葉を百合が拾ってきたことも、どう説明したら良いかと」
賢吾は、思案顔の真輔の杯に酒を注いで、心配するなと言った
「なに、本石町廻りの須藤さんは、細かいことは気にしないから、正直に話せば良いさ。土井さんには、叱られるかもしれないがな。まあ、それは百合の身を案じてのことだよ」
「はい。大家には名乗らなかったと言っていましたが、安心はできませんね」
「ふむ、そこは、さすが町廻り同心の娘だな。それでも、これ以上は関わらない方が良いだろう」
賢吾は杯を置くと、真剣な表情になった。
「だが、おみよと言う娘はおまえが真剣に探してやらなきゃいけない。俺もできるだけ協力するよ」
真輔も思わず杯を置いて、賢吾の言葉の意味を探った。
「須藤さんには遅く生まれた子供がいてね。その子が見習いに出るまで、なんとしても現役の町廻りで頑張りたいのさ。しかし、歳のせいか、探索に横着になっているきらいがある。まかせておいたら、おみよは見つからないかもしれない…。精丸堂の一家が消えたことにこの葉っぱがからんでいるとしたら、親の方はそれ相応の理由があるのかもしれんが、子供のおみよには関係ない。助けてやらにゃならんだろう」
そう言うと賢吾は、妻が子供たちを寝かしつけているふすまの先に目をやった。
帰宅した真輔を百合をはじめ、佐吉とおまつも待ち構えていた。真輔は三人に、百合の持ち帰った葉が禁制の芥子の葉であろうと言い、あらためて、このことは他言しないように伝えた。
「何かしら悪事が絡んでいるかもしれない。だから、百合、決着が着くまでは本石町には近寄らないで欲しい。この葉は、明日奉行所に持って行って、今日のことはありのままに話し、おみよのことは、廻り先に関わらず探してもらえるようにお願いする。私も自分で手を打つつもりだ。栄三郎にも頼むつもりだ」
真輔の言葉を聞いて、佐吉とおまつはすこし安堵したような表情を見せて、自室に下がって行った。だが、百合はまだ浮かない表情でいる。
「何か気になることがあるのか?」
と真輔が問うと、
「私、出過ぎたまねをして、真輔様に迷惑をかけてしまいました。申し訳ありません」
とあやまった。
「謝ることなど何もないよ。百合が気が付かなければ、この葉は風に舞って消えてしまったかもしれないじゃないか」
「でも、土井様は…」
「叱られるだろうと、戸崎さんに言われた」
「やはり…」
「でも、それは百合が危険な目に会わないかを案じてのことだとも言われたよ。一家三人がさらわれたかもしれないのだ」
「穹さんは大丈夫でしょうか?」
「こちらに任せるようにと、手紙を出しておこう」
「おみよちゃんは無事かしら…」
真輔は、おみよを案じる百合を抱き寄せながら、あの芥子の葉はどこから来たのだろうと考え始めていた。
「おお、真輔か」
「夜分すみません。少し相談させていただきたいことがありまして」
「なんだ、百合と喧嘩でもしたのか」
「い、いえ、そういうことではありません」
慌てる真輔を見て、賢吾はおおらかに笑うと、真輔を家の中に招き入れた。
「あがれ、あがれ。初枝が今、子供を寝かしつけているので、我が家もようやく静かになったところだ」
三人の幼い子供を抱える戸崎家では、妻の初枝は常に忙しい。真輔を居間に招き入れると、賢吾は自ら台所から徳利と杯を持ってきた。
「これは、今日、百合が持ってきてくれた酒だがな」
「頂き物があったのです。私は家で飲みましたので…」
「うちでは俺以外、今は誰も飲まないんだよ。付き合ってくれ」
戸崎家の奉公人は親の代からの年老いた下男と、その10代の孫娘が子守りとして住み込んでいるだけである。妻の初枝はまだ乳離れのしていない赤ん坊を抱えている。真輔は素直に杯を受け取ると、百合が本石町に行った話をした。そして、百合の持ち帰った葉の切れ端を見せた。
「良庵先生は、なんと?」
「
「おまえの見立て通りか…。そうなると、その精丸堂一家が消えたのもきな臭い話になるな」
「はい。そんな話に百合が関わったことが心配です」
百合の父親の笠原源右衛門は、何者かに切られ非業の死を遂げている。そのことを考えると、不安が頭を持ち上げて来る。
「うん、百合はおまえと一緒になってすっかり大人しくなったのかと思ったが、生来の好奇心が頭をもたげてきたようだな」
「元気なことは嬉しいのですが…」
真輔と婚礼を上げてからも、父の死と、その後に百合を襲ったある出来事のせいで、心を閉ざしふさぎ込んでいる日々がしばらく続いたのだった。
「それに、本石町は廻り先ではないので、この葉を百合が拾ってきたことも、どう説明したら良いかと」
賢吾は、思案顔の真輔の杯に酒を注いで、心配するなと言った
「なに、本石町廻りの須藤さんは、細かいことは気にしないから、正直に話せば良いさ。土井さんには、叱られるかもしれないがな。まあ、それは百合の身を案じてのことだよ」
「はい。大家には名乗らなかったと言っていましたが、安心はできませんね」
「ふむ、そこは、さすが町廻り同心の娘だな。それでも、これ以上は関わらない方が良いだろう」
賢吾は杯を置くと、真剣な表情になった。
「だが、おみよと言う娘はおまえが真剣に探してやらなきゃいけない。俺もできるだけ協力するよ」
真輔も思わず杯を置いて、賢吾の言葉の意味を探った。
「須藤さんには遅く生まれた子供がいてね。その子が見習いに出るまで、なんとしても現役の町廻りで頑張りたいのさ。しかし、歳のせいか、探索に横着になっているきらいがある。まかせておいたら、おみよは見つからないかもしれない…。精丸堂の一家が消えたことにこの葉っぱがからんでいるとしたら、親の方はそれ相応の理由があるのかもしれんが、子供のおみよには関係ない。助けてやらにゃならんだろう」
そう言うと賢吾は、妻が子供たちを寝かしつけているふすまの先に目をやった。
帰宅した真輔を百合をはじめ、佐吉とおまつも待ち構えていた。真輔は三人に、百合の持ち帰った葉が禁制の芥子の葉であろうと言い、あらためて、このことは他言しないように伝えた。
「何かしら悪事が絡んでいるかもしれない。だから、百合、決着が着くまでは本石町には近寄らないで欲しい。この葉は、明日奉行所に持って行って、今日のことはありのままに話し、おみよのことは、廻り先に関わらず探してもらえるようにお願いする。私も自分で手を打つつもりだ。栄三郎にも頼むつもりだ」
真輔の言葉を聞いて、佐吉とおまつはすこし安堵したような表情を見せて、自室に下がって行った。だが、百合はまだ浮かない表情でいる。
「何か気になることがあるのか?」
と真輔が問うと、
「私、出過ぎたまねをして、真輔様に迷惑をかけてしまいました。申し訳ありません」
とあやまった。
「謝ることなど何もないよ。百合が気が付かなければ、この葉は風に舞って消えてしまったかもしれないじゃないか」
「でも、土井様は…」
「叱られるだろうと、戸崎さんに言われた」
「やはり…」
「でも、それは百合が危険な目に会わないかを案じてのことだとも言われたよ。一家三人がさらわれたかもしれないのだ」
「穹さんは大丈夫でしょうか?」
「こちらに任せるようにと、手紙を出しておこう」
「おみよちゃんは無事かしら…」
真輔は、おみよを案じる百合を抱き寄せながら、あの芥子の葉はどこから来たのだろうと考え始めていた。