第83話 終焉(5)

文字数 3,371文字

一応、聞いてくれたのか。本当に頼られたのか。
アストルフォは、全身の痛みとソファの汚れを気にしながら、少し考えた。
何かを忘れている。大事な事である。
車で逃げようと思った時、アストルフォの記憶が蘇った。
「スカイラーは?」
聞かれたグレイソンの顔は、明らかに驚いている。
「なんでだ?朝はいなかったろう。」
来ていた事すら、知らない様である。
「前に車があった。来てるよ。」
グレイソンは、スマートフォンを取出した。アストルフォの見守る中でタップしたが、彼女は出ない。その時間が十分に長くなると、目を忙しく動かしていたグレイソンは、電話を切った。
「いるとしたら、どこだろう。」
先に口を開いたのは、アストルフォ。自分が尋ねられても、答えられない質問である。当然、グレイソンが、知る筈もない。
「そりゃあ、なんで事務所に来たかだな。」
もっともなグレイソンの言葉を前に、アストルフォは虚しい言葉を口にした。
「彼女は何をしてたろう。いつも、どこを回ってたっけ。」
そう言いながら、アストルフォはだんだん悔しくなってきた。
何も知らない。
自分は、本当に、スカイラーの事を何一つ知らない。この狭い事務所で、毎日一緒に働いていたのに。彼女の行く先が、全く浮かばないのだ。
それでもグレイソンは、それなりの答えを出す。
「基本的に車で回ってるな。でも、前に車はあるんだ。石が降らないうちに、裏のマスを取りに行ってやられたか。あとは、あんた達を探しに行ったのか。あんたでも探そうと思ったぐらいだ。」
アストルフォは頷いた。
「でも」は余計だが、言われてみると、そうとしか考えられない。
現場との道は一つしかないが、あの灰の中では、すれ違っても分からない。
アストルフォは、すぐに腰を上げた。まずは、事務所の裏手である。
グレイソンが呼び止めたが、聞く気はない。
スカイラーを助けなければならない。
しかし、アストルフォは、勢いよく扉を開けると、大量の灰を当たり前に身に受け、立ち止まった。
目の違和感と咳。生死に関わるレベルの大きな石も転がっている。足が止まるのに、十分な理由である。
グレイソンは、アストルフォの前に回り込むと、手早く扉を閉めた。
「用意が要るだろ。ヘルメットに、ゴーグル付きのマスク。防毒用の。スカイラーのもだ。後は鉄板か何かだ。」
確かにそうである。鉄板以外は納戸にある。
アストルフォは、無言のまま、納戸に向かった。
当然、体は痛む。痛むが、そこに気が回ると、いよいよ動かずにはいられない。礫の雨を脱したアストルフォでもこうなら、今この現在のスカイラーはどうなのか。事態は、急を要するのだ。
邪魔な小物を床に放り、目当てのマスクを探し出す。ヘルメットは、いつも通り壁で待っている。
アストルフォがスカイラーの荷物をリュックに詰めている間に、グレイソンも準備を終えた。
後は、鉄板か何か。めぼしいものはない。
迷うアストルフォを尻目に、グレイソンは、デスクの一番長い引き出しを抜くと、中のものを全部空けた。
そう。それがいい。この状況ではベストな選択である。
グレイソンは、次いでアストルフォに近寄ると、アストルフォの脛にタオルを巻き、ガムテープを回した。足をやられると歩けなくなるので、基本である。
「手は、気になったら、自分でやってくれ。」
そう言うと、グレイソンは自分の足にもタオルを巻いた。
こうしている間にも、スカイラーはどこかで動けなくっているかもしれない。灰と石の降る中、たった一人で。呼吸すら儘ならず、礫で打たれ続けている。
急いで準備を整えた二人は、まずは、事務所の扉を開けた。石が地面を叩く音が大きくなる。
前は何も見えないが、さっきとは安心感が違う。
その瞬間、アストルフォは、背中にレオを感じた。死んだばかりなのに、一人ぼっちにされるレオ。起きる事はないが、絶対に寂しい筈のレオ。
ただ、スカイラーまで同じ目に遭わせるわけにはいかない。
振り向く事なく扉を閉めると、引き出しを背に、壁沿いに二人は進んだ。
アストルフォは、噴石が体に当たるのを感じながら、また、レオの事を思い出した。
スカイラーが気にならないわけではない。ただ、生きていると信じる彼女への心配よりも、目にしたばかりのレオの死を嘆く気持ちの方が、この瞬間、強かったのである。
事務所に戻る途中の事。つなぎを脱いだ剥き出しの肌に、彼は石の礫を受け続けた。
血の流れる自分の頭の事ばかり気にしていたが、体だって痛い。
服があれば、少しは違っただろうに。石の表面は、決して、滑らかではない。本当に、本当に、痛かっただろうに。
それでも、彼は何も言わなかった。死ぬほどなのに。
ハンカチのせいだけではない。どこかで、何も言わないと、心に決めたのだ。
彼は、一度こうと決めたら、やり通す男なのだ。
アストルフォのレオへの気持ちが整理できる前に、二人は、釣り下がる干し籠の中のマスの元に辿り着いた。
灰にまみれたマスは、誰の手に触れられる事もなく、そこにあった。
周囲にスカイラーの姿はない。ここへ来て思うが、当たり前かもしれない。なんで、火山が噴火する中、マスを取りに来るのか。
ただ、そのぐらい、二人はスカイラーの事を知らない。そういう事なのだ。
肩を叩いたのはグレイソンだった。石ではない。彼の指差す方角には、現場がある。
グレイソンは、腰につけていたマイクのサイレンを鳴らしながら、歩みを進めた。自分達の目だけで探すのには限界があるので、音も使ってみる。少なくとも、視力を奪われた彼女に、生きる力を与えられる筈である。
二人は、灰の中を注意深く進んだ。歩き慣れた現場までの、普段なら数分の短い道程。
ヘルメットに当たる噴石は、時に頭の角度を変えさせた。
背中の引き出しも、金属音を奏で続けている。
足元は悪い。レオと二人で、目もほとんど開けずにこの道を走れたのは、奇跡である。
さっきより、灰と石が積もったせいもあるだろうが、それでも凄い。そう思っていい。
その時、遠くで何かが光った。チャイナ・レッドの光は、噴煙の中のマグマである。ホワイトの稲光も混じっている。
ここまでマグマが来るとすれば、まだ先の話。その筈であるが、もう恐怖が抑えられない。生理的に我慢できない。
頭で幾らかき消しても、本能が不安の連鎖を生み、当の本能が、自らの生んだ不安を極端なまでに拒絶する。
隣りでは、グレイソンのサイレンも鳴り響いている。
アストルフォは、その時、初めて知ったが、人間は怖くても泣きそうになる。
二人は、神の怒りと思えるほどの天災に曝されながら、目指す現場に向かって歩いた。
結論から言うと、スカイラーはいなかった。彼女のいた痕跡は、何処にもなかったのである。
無意味とは知りつつ、グレイソンはサイレンを鳴らした。
もしも、彼女がまだ生きていたとしたら。逆に、ここで見捨てて、彼女が死んだとして、後悔しない程度の時間とは。その時間は、余りに長いのだ。
二人は、灰の中、礫を受けながら、待ち続けた。
しかし、確率は絶対である。やがて、大きすぎる礫が、二人の体を打ちつけた。
グレイソンは腕、アストルフォは太腿。
アストルフォが崩れる様にしゃがみ込むと、グレイソンも続いた。
マスクをずらしたグレイソンは、アストルフォの耳元で声を出した。
「温泉かもしれん。」
アストルフォの痛さの事は聞かない。スカイラーの事に限れば、確かにそうである。言われてみれば、彼女はそこにいそうな気がする。根拠はない。
こうしてはいられない。アストルフォは立ち上がった。スカイラーには、防具さえないのだ。
しかし、アストルフォの足は、突っ張ることなく曲がった。仕組みは知らない。
全てを察したグレイソンは、アストルフォに肩を貸した。
「一度、戻るぞ。」
温泉までは坂を下るので、この足では、スカイラーの救出どころではない。
二人は肩を組んで進み、温泉へ続く道の前まで来た。
アストルフォの中には、温泉に向かいたい気持ちがあるが、グレイソンはそれを許さない。スカイラーもけがをしていれば、身動きがとれなくなる。ここにアストルフォを置いて行っても、後で同じ悲劇が起きる。結果が決まっている以上、グレイソンのジャッジは変わらない。
アストルフォは、グレイソンの歩みに従い、事務所に向かった。
目的地から遠ざかる筈だが、グレイソンは、サイレンを止めなかった。
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