第29話 忘憂(6)

文字数 5,032文字

「ヘイ、アストルフォ!鼻の下が粉だらけだ。」
肩を叩いたのは、完全に酔払ったリックだった。勿論、粉など付いていない。迷惑な彼は、腰を落ち着けるためのチェアを持参している。
ベンジャミンが派手なジェスチャー、ウィローが少し目を丸くするだけで迎え入れたので、彼は酔うと、こうなのだろう。数時間前に優しく話しかけてくれた面影は、もうない。
リックは、チェアに腰かけると、アストルフォを指差した。
「君は、今、僕を酔ってると思ったな。」
それは、確かにそうである。リックは、得意げな顔を浮かべた。
「超能力だ。」
さすがに笑えない。すると、リックはまた口を開いた。
「君は、今、下らないと思ったな。」
それも当たっている。抵抗できないアストルフォが小さく笑うと、リックが言葉を重ねた。
「当たったと思ったな。」
面倒だが、ここまで考えていたなら、やってもいいジョークである。
「超能力だ。」
そのくだりは要らないが、ベンジャミンとウィローは笑っている。二人の顔を見て、アストルフォも微笑むと、リックは頷きながら、ニヤついた。嫌な予感がする。
「アストルフォ。今度、僕はグレープの畑を借りる。君もやるか?」
初対面の人間に対し、結構な誘いである。
「収穫した後のワインづくりまでセットだ。だだっ広いから、何樽かになる。僕はそんなに飲まないし、ビリオネアでもない。一口、のらないか?」
アストルフォは、答えに困って、ベンジャミンの方を見た。彼の視線は、タンブラーに向けられている。シラフの状態なら、素敵な話だが、こうも酔った時に頼まれて、ウンと言うと、後で信用に関わる。ベンジャミンから、何にでも顔を突っ込む様に言われたが、今はその時ではない。そう思える。
考える間にも、リックの言葉が続く。
「君、酔ってる奴の話は信用できないと思ってるだろ。でも、金を使うのなんて、酔っ払ってないと無理だぞ。海パンとサーフ・ボードがあったら、何年でも過ごせるのに。親から不動産をもらった途端に、急に借金をして、会社を興して、経費で外車に乗って、訳の分からないオブジェを買う。経費で落とせるものは、そのぐらいになるからな。目立って、他人にねたまれて、事業がとん挫するのだけは御免だから、結果、本当の贅沢は、家族の好きなお菓子とお茶を買う事ぐらいになる。それが、シラフの頭が考える人生だ。分かるだろ?」
好きに暮らして、破産する前に、不動産を売り抜ければいい様に思うが、もらった不動産は、やはり後に引き継がないといけないものなのだろう。
聞き慣れた話に、ウィローが口を挟んだ。
「でも、リックのお酒は、悪くないわ。ダイビングも彼の提案だし。ワインづくりも、やってみたいし。そう思わない?」
ベンジャミンは、少し渋い顔をしてから、口を開いた。
「それはそうだ。名画を残した画家の全てが、美しい人生を送ったわけじゃない。むしろ、悲しい場合が多い。ただ、悲しい側面を見ると、普通の大人は深みを感じる。惹き付けられて、抜けられなくなる。可憐なバレリーナを描いたドガが、目を患い、友を失う激しい人生を歩んだ事も、勤勉な農婦達を描いたミレーが、生活のために、裸婦像ばかり描く時間があった事も、誰も悪いとは思わない。僕はドガもミレーも大好きだ。リックの描くビジョンはきれいだし、僕は常に彼の提案にのる事にしてる。」
アストルフォは、三人に見つめられている。大人の圧。
ウィローが駄目を押しに来た。
「どうする?」
悩んだアストルフォは、今日の偶然を少しだけ信じてみることにした。
「面白そうだと思います。でも、どのぐらい、お金がかかるんですか?」
そう。すぐにゴーは出さない。条件を確認するのだ。
「やるのか?」
リックが笑みを浮かべて、こちらを見つめている。掴みどころがない表情。彼の言葉は続く。
「想像するんだ。冬の土づくり。苗を一つ一つ、穴の中にそっと置く瞬間。春になって、樹液が滲みだす香り高い瞬間。そして、芽が出て、葉と蔦が伸びて、初夏に花が咲く。やがて、花が落ち、実が成り、間引き、夏には色づく。そして、秋。収穫だ。搾汁。グレープの甘い香り。発酵させてから、液体をまた絞り出し、また、発酵。樽に入れて、ひと月か、一年か、五年か…。」
「五年は待てない。」
ベンジャミンが口を挟んだ。彼の目は笑っていないので、本当にそう思っただけだろう。リックは揺れながら、顔を横に振る。話は終わらない。
「まあ、時期は相談しよう。発酵が済んだら、ろ過して、出来上がりだ。皆で、そのワインを口にする頃には、語りたい事の一つや二つは出来てる。それは、その日のワインのための積み重ねだと思うと、もう我慢できない。なぜ、やらないのか。」
リックは、明らかに興奮している。肝心の費用の情報はない。
ただ、こうも押されると、さすがに断りづらい。座る姿勢を変えたウィローが、もう一度聞いて来た。
「どうする?一緒にやる?」
満面の笑み。断ると、それは、この先の長い付き合いを、拒絶する様にとられるだろう。答えは限られてくる。アストルフォは、心を決めた。
「じゃあ、お願いします。」
一瞬の沈黙の後、リックとウィローが歓声を上げ、ベンジャミンも、目を瞑ったまま、肩で笑い出した。ビリヤード台に残っていた二人がこちらを向くと、ウィローが嬉しそうに口を開いた。
「アストルフォも、グレープをつくるって!」
二人は驚いて、爆笑した。少し反応がおかしい。ベンジャミンの笑いはあからさまになったが、やはり素直ではない。
その答えは、間もなく、リックから披露された。
「じゃあ、手付金として、まず五百ドル。」
リックが手を出すと、ウィローがタタミに倒れて笑った。ベンジャミンが言葉を重ねる。
「五百ドルで、グレープの畑を?破格だな。」
アストルフォが目を丸くしていると、倒れたウィローが、頭だけ上げて続く。
「リックのグレープの話は、まず、引っ掛かるわね。」
皆、いい笑顔である。まあ、この反応は、フェイクという事。騙されたのだろう。酔っているが、これは少しないかも。
アストルフォは、目の前に差し出されたリックの手の平を、素手で軽く押した。微笑みは絶やせない。
リックの顔は、満足そう。
「この間、手持ちがなかった時に言ってみたら、ウィローが引っ掛かった。ネットでワインのつくり方を調べた所だったんだ。樹液が滲みだすのなんて、知らなかったろ?」
〇〇〇〇。心の中なら、何度言っても、許されるだろう。そして、また、リック。
「注意しなよ。五百ドル。事業料だ。」
彼は、もう一度、手を差し出した。
「本当に?」
アストルフォが声を上げると、リックは笑って、顔を横に振った。
「ジョークだ。」
当たり前である。アストルフォは少しだけ俯くと、念のため、確認した。
「ダイビングは?」
あの話は好きだった。二人が輝いて見えた。あの時間は何だったのか、気になる。
責任を感じたのか、ウィローが起き上がった。微笑みは、まだ残っている。
「それは本当よ。皆で行くわ。」
そう言われてみれば、誘われなかった。初対面で海外旅行に誘われても困るが、グレープも似た様なものか。
少しだけ下を向いて、微笑んでいるアストルフォに向かって、リックが笑顔で問いかけた。
「何だろう。一緒に行かなくても、やはり嘘だと寂しいんだろうな。」
何を言い出したのか。アストルフォは、酔ったリックの話に耳を傾けた。
「口先だけなら、幾らでもデタラメが言えるし、好きでもない詩を感動した様に読むことも出来るけど。多分、一度、言葉を耳に入れてしまうと、その意味を頭で理解する。頭は、発せられた言葉を事実だと思うし、漠然と頭の中にビジョンをつくり上げる。それは、言葉の力なんだ。嘘は、それを不意に壊すから、確実に喪失感を与える。不安感を産む。だから、嘘をつかれた人は、心を痛める。」
話の先が見えない。
アストルフォと、ベンジャミン、ウィローの視線は、リックに集まった。
リックは、難しい顔をして止まっていたが、また、口を開いた。
「何故、僕は初めて会った君に嘘をついてみせたのか。それは、自分を知らないという事が、嘘を信じさせるのに、最高の条件だからだ。今しかない反応を楽しみたい。周囲に僕をよく知る人間がいるのが前提だ。嘘をつき通せないからね。笑って、全てが収まる。周囲への信頼のもとで、絶対の優勢を保って仕掛けた、ずるいジョーク。そういう事だ。」
ベンジャミンの仲間は、皆、似た様な喋り方をする。
アストルフォが首を傾げると、リックは少しだけ調子を変えた。
「アストルフォ。君は若いし、いい奴だ。いつまでも少年の様で、羨ましい。なる気もないんだろうけど、世の中の下らない型には、はまらない様に注意した方がいい。皆、ゆっくりと知るけど、自分達の人生は、人類の歴史を見れば、ありふれてるんだ。幾つかのタイプに分けられる。昔起きた何かを、君の身に起こすための方法を、殆どの老人は知っている。簡単なんだ。」
真顔で聞いていたベンジャミンが、立ち上がりながら、口を開いた。
「いい話をしてるのか?」
本当に聞いてみたい。ウィローも続く。
「酔ってるのよ。」
それだけでは、済ます気になれない。リックは、揺れながら顔を横に振った。
「いや、アストルフォ。ウィローに気をつけろ。痛い目を見るぞ。」
何の注意だか、分かったものではない。アストルフォは笑顔で頷くと、タンブラーを空にした。
ウィローは笑っている。そう。ベンジャミンと同じで、これはリックの説教。多分、下品なやつ。こっちは、死ぬまで同じオート・ミールしか、食べる気はない。誰の説教も要らないのだ。
ベンジャミンは、素足でサンダルを履きながら、振り返った。
「アストルフォ、もう一度、君にチャンスをあげよう。僕は、これから葉巻をとってきて、火をつける。僕が君に向かって、煙を吹いた瞬間に靴を脱ぎ、そこの消臭スプレーを足と靴に振るんだ。」
彼の指差した先には、確かにスプレー缶が転がっているが、しかし、また、急である。酔っ払いなりに慌てたアストルフォの仕草を見て、ベンジャミンは笑った。
「ジョークだ。そこに、もう一つサンダルがある。手に持って、シャワーにいって、足を洗うといい。多分、心地いい。」
そろそろ、ジョークはたくさんである。親切のつもりだったのだろうが、さすがに疲れた。
アストルフォは、呆れた表情を浮かべると、タタミに後ろ手をついた。ウィローと目が合う。リックの視線も感じるので、彼とも目が合う。皆、微笑んでいる。純粋に面白いからではないだろう。自分もそうだが、皆、酔っ払っているのだ。
もう、このまま眠ってしまえば、今日という日は終わるのだろう。
大人にからかわれ続けた一日。
今日のアストルフォの役回りは、バンビーノだった。
だが、そう悪い気もしない。皆、嫌な生き方はしていない。この輪に居れば、何なら、ずっと、バンビーノかもしれないが、彼らは、いつまでも新しい刺激を求めている様な、そんな期待が出来る。羨ましい世界の住人でいられる様な微かな期待。それは大事な事。
アストルフォを笑うために中断したビリヤードの音は、少し前から再開している。
アストルフォは、タタミに横たわると、少しだけ頭を使った。
また、会う様なつもりで考えていたが、やはりないだろう。
ベンジャミンが品定めをしていたとすれば、自分が合格したとは思えないし、アストルフォが彼らを誘う事も、まずない。
彼らは、ずっと関係が続く様な幻想をチラつかせながら、いつものジョークを試しただけで、きっと、相手がアストルフォである必要はない。そのぐらい、大勢の人が、この部屋を通り過ぎている筈。
勿論、決まったわけではない。先の事は分からない。今の時点では、まだ、アストルフォの気持ちだけの問題なのだろうが、その気持ちが切れてしまった。誰にも知られる事はないが、あまりに大きい変化。
一端そうなると、睡魔に耐える理由も、なくなってくる。
ベンジャミンに話しかけられているが、よく分からない。彼に謝るのは慣れているので、この際、別にいい。
霞んでいく視界に映り込んだウィローと目が合ったまま、意識が薄れていく。
アストルフォは、靴を履いたまま。
さっきからイビキをかいているのは、どうも自分らしい。
リックも話しかけてくる。
〇〇〇〇。
口に出していない事を、今更になって祈ってみるが、まあ、済んだ事である。
もう、今日はこのまま寝てやろう。アストルフォに出来る唯一の抵抗。
そんな夜だった。
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