第25話 忘憂(2)

文字数 4,781文字

ベンジャミンの発表は、つつがなく終わった。中身は別として、卒がないとはこの事だろう。例えるなら、踊る様だった。
後は、彼への挨拶。言われた通り、見に来た証拠を残すのだ。しかし、ウイリアム・クラスの人間がたむろしていると思うと、楽屋に顔を出すのは、気がひける。出てきた所を捕まえるぐらいが正しく、そのためには、また、同じぐらい待つ必要がある。
その時、悩むアストルフォのスマートフォンに、ベンジャミンから連絡が入った。懇親会の誘い。会場はホールの隣りのレストランで、現地集合と書いてある。
地味に無理である。何を血迷ったかと思うが、多分、ウイリアム達がいたせいである。それが会話の恐ろしさ。何がどう転ぶか、分からない。
ただ、楽屋よりは、内輪の割合が多そうなので、顔は出しやすいかもしれない。車で来たが、酔いが残るほどは飲めないだろう。
考えてみると、問題はシンプルになった。アストルフォは、了解した事をスマートフォンで伝えた。
しかし、まずは時間を潰さなくてはならない。ここで座っていられる程、大物ではない。
アストルフォは、ちらほらと会場を後にする男女に紛れる事にした。
受付を通り過ぎる。二人の生きた花は、まだ、そこに置かれていた。これは、きっと、ハラスメント。本人は、そう思っているだろう。アストルフォの視線に気付いた二人が微笑み、アストルフォも微笑みを返した。本当に働き者である。
確か、駐車料金がかかったので、車は出せない。アストルフォは、行く当てもなく、通りに出た。駐車場にいたコケージャンのガードマンが、歩道に立っている。来た時よりは、人通りが増えたろうか。人の流れに目をやると、指定された店が、本当にホールのすぐ隣りにあった。
ホールと同じぐらい古いホワイトの店。開店前の店は、きれいな壁という程度。まあ、品はいいだろう。扉の上半分はガラスだが、ブラインドが下りていて、中は分からない。
お楽しみという所か。
アストルフォは、改めて周囲を見渡した。
石畳みに縁どられた建物は悉く低層で、一軒当たりの敷地は広い。一時間半程の探検に都合のいい、ごみごみした店はない。落ち着いているのだ。
これなら、ロビーに戻った方が、まだいいかもしれない。
悩んだアストルフォは、しかし、ヘッド・セットを右耳につけると、海の方向に向かって、取敢えず、歩いてみる事にした。辿り着くかも怪しいが、違った景色があれば、心の晴れる瞬間もあるだろう。そんな微かな期待が、彼を動かしたのだ。
一時間半後。
その結果であるが、歩いただけ。海は見えもしなかった。
普段、あまり汗をかかないアストルフォのシャツが、少し湿った。一時間半ちょっとの初夏の運動。そのぐらいのイベントだった。
ホールの前に戻ってみると、スーツの集団がぞろぞろと出てきたので、丁度、フォーラムが終わったのだろう。
数人ずつ、まとまって、消えていく。本当のフォーラムは、ここからという感じ。
一応、自分もその一人である。おまけは、遅れてはならない。
場所を確認していたホワイトの店は、暖色系のライトをつけ、まだ明るい通りに、その存在を健気にアピールしている。
もう誰かいるだろう。難しい話は出来ないし、上品な振りをするのも無理である。つまり、入りづらい。
アストルフォは、店先から店内を覗き込んだ。目が合って、声をかけてくれるぐらいがいい。しかし、さすがに上がっていたブラインドの向こうは二重扉で、人の姿は見えなかった。
考えても仕方がない。
アストルフォは、覚悟を決めると、ホワイトの扉を二度開き、店内に入った。
扉を開ける度に、談笑が大きくなる。
温かい照明に照らされる、アンティーク調のサンドストンの割石の壁と床。通りの石畳を意識したのだろう。規則正しく並ぶ、木のテーブル席は満席である。煙草の煙はなく、食べ物の香りが満ちている。酔って騒ぐ客もいない。別に、店員がドレス・アップしているわけではない。総じて、素朴で感じがよい、さり気なく上品な空気。
アストルフォが、店員の一人を捕まえ、ホールの一団の居場所を尋ねると、多忙な彼女は、口元を少しだけ上げると、足早に歩き出した。奥へ、奥へ。向かう先には、ホワイトの扉が更に一枚。
ゴールドのドア・ハンドルを手にした彼女に扉を開けてもらい、アストルフォは個室に入った。
印象は、ホワイト。床は、マーブル調で、壁紙もホワイトである。重厚なシャンデリアは、エイジングが派手さを削ぎ、エレガントに感じる。中央に、ホワイトのクロスをかけた長いテーブル。ブーケとプレート、グラスが所狭しと並べられている。腰かけているのは二十人ほど。正装で、グッド・ルッキング。給仕も二人、ユニフォームで正体を隠して、壁際に立っている。
アストルフォの頼みの綱は、ウイリアムとベンジャミンである。二人を探し、皆の顔を急いで見渡す。
結論だが、ウイリアムはいなかった。挨拶した三人もである。予想が外れたが、すぐにベンジャミンと目が合った。
「アストルフォ。」
声をかけてくれるのが、ベンジャミン。意地悪はない様である。彼が指差す先には、空いた席があった。
想像する限り、ウイリアムが抜けた穴ではないか。彼なら、変な気を回しかねない。
逆に、ベンジャミンの思い付きなら、少しだけ迷惑である。先に聞いていれば、まずは車で来ないし、何なら、フォーラムにも来ない。アストルフォは、無駄な空想を巡らせながら、笑顔を浮かべ、席に着いた。
唯一の知り合いであるベンジャミンの席は遥か遠いが、取敢えず、指示を守った事は伝えられた。
アストルフォのために、皆の会話が止まる事はない。まあ、止まってもらっても困る。
アストルフォは、視線が合った数人に、小さな声で名前を告げ、笑顔で挨拶をした。ベンジャミンが大声で呼んだから、知っているだろうが、特に話題があるわけでもない。聴衆の一人のつもりで来たのだ。
後ろから注がれたワインは、シャブリ・ヴェルジェ。そう言えば、カキが並んでいる。
アストルフォが手に取ったカキにレモンを絞った時、左隣りの男が声をかけてきた。年は、ベンジャミンぐらいである。
「ベネットの所の?」
なぜ、知られているのか。緊張で、少しだけ腹に力が入る。しかし、アストルフォより先に、遠くのベンジャミンが大きな声を出した。
「ヴァレンティン・ルロワ先生の息子だ。」
数人から声が上がり、アストルフォの顔に視線が集まった。どうも、ベンジャミンの所まで、声が届いているらしい。アストルフォは、更に少しだけ緊張したが、皆の顔をもう一度見渡した。見る限り、皆、微笑んでいる。きっと、父の知合いである。
ベンジャミンに父の名を教えた記憶はないが、何か言うなら、今だろう。
「父がお世話になっています。」
皆がどっと笑う。そういう空気が、この部屋にはあるのだ。おそらく、今日の自分の役目は、これで果たせた。
話せる男と誤解したのか、右隣りにいた老人が、微笑みをたたえながら、話しかけてきた。細身で、かなりの高齢に見えるが、ホワイトの髪をきれいに後ろに撫でつけている。フランネル生地のグレーのスーツが、老いた体を美しく装っている。
「彼は、もう働いてないだろう。」
しばらくは、この話題でもちそうである。アストルフォは、レモンの汁で濡れた指をナプキンで拭き、笑顔で答えた。フィンガー・ボールに手をやる余裕がない。
「ええ、四年前に退官しました。今は、うちに居て、バード・ウォッチングが仕事です。」
老人は、目を少しだけ開いた。
「ルロワ先生に、そんないい趣味があったなんてね。」
その趣味のために、買う家も決めたのだが、それすら知らない。父親と大して親しくなかったという事。老人のせいとは言わないが。
アストルフォは、笑顔を絶やす事なく尋ねた。
「失礼ですが、父とはどこで?」
老人は微笑んだ。薄い皮に、皺が幾つも浮かぶ。
「いや、学会で顔を合わせたぐらいだけど、いろいろ勉強させてもらったよ。穏やかな、学者らしい学者だった。」
目の前の初老の男が、口を挟んだ。体格がいい彼は、声も通る。
「ジョンストン先生、それじゃあ、学者らしくない学者がいるみたいですよ。」
「僕みたいにね。」
老人、ジョンストンが答えると、大きな笑い声が起きた。アストルフォの時より、遥かに大きい。室内を見回すと、皆の表情は明るく、給仕も笑みを浮かべている。これは、店のルールかもしれない。
笑い声が揃うのは、結束の証。アストルフォは、それを感じた。
ジョンストンの話は続く。皆が彼の話を待っているのだ。
多分、ジョンストンは偉い。席が空いていたのは、遠慮の結果か、ベンジャミンが、新入りを紹介するために、敢えて、頼んだのか。そっとしておいてほしいアストルフォにとっては、最悪のチェア。
「この仕事をしていると、皆、働ける限り、働くけどね。子供ぐらいの年の教え子からも、声がかかる。先生、一度、見に来て下さい。皆に話してやって下さい。地球の裏側からだったりもする。何十年も前に書いた論文の事を聞かれるのも、苦にならない。忘れたからね。若い時は、僕が間違えてると、わざわざ文章にして、皆に発表されるもんだから、随分、怒ったけどね。この年になると、本当にいい仕事だったと思う。君のお父さんも、働く口はあった筈だけど。やめてしまった。気にしてたんだ。」
いい話の様で、息子の前でする話ではない。察したのか、向かいの初老の男が、よく通る声で、別の話題を口にした。
「ジョンストン先生、今、お幾つでしたでしょうか?」
「七十五歳だよ。」
オーッという声に、アストルフォも声を重ねた。声色も声量も目立たない程度に。
ジョンストンが言葉を続ける。
「三年前から。」
また、皆が一斉に笑った。多分、定番だろう。アストルフォの緊張が緩んだのは確かである。
ジョンストンは、知的な笑みをたたえながら、口を開いた。
「君も鳥が好きなのかな?運動はやりそうにないね。」
ジョンストンの目が、アストルフォを値踏みし始めている。数十年に渡って、若者を見てきた彼の目に、自分はどう映っているのか。ただ、まず、必要なのは、彼の直接的な問いかけへの答えである。失礼は許されない。
「鳥は、父に付合った程度です。本当にかじった程度で。運動はあまりしませんが、趣味でスケート・ボードをします。」
皆、微笑みながら、頷いてくれているが、どこからも声が上がらない。タイミングを逸したのだろう。確かに、一流の輪で口に出すには、中途半端な話題である。口から出まかせで、レーザー・フリップが出来るとでも、言えば良かったろうか。まあ、それも分からないだろう。
アストルフォが静かに赤面した時、また、遠くからベンジャミンの声が響いた。
「アストルフォ。ホワイト・クラウンド・スパローの鳴き声は?」
この間、ベンジャミンが事務所に来た時、グレイソンが真似をしていたが、全く似ていなかった。アストルフォが真似た覚えはないが、ベンジャミンは鳥の名前は憶えていた様である。
当然、真似などできない。
アストルフォが言葉に詰まると、ベンジャミンが言葉を続けた。
「鳴かない鳥だそうです。」
「いや、鳴きます。鳴きます。」
アストルフォが慌てると、皆がどっと笑った。二人の給仕が笑っているのは、店のルールではなさそうである。
笑顔のジョンストンは、また一つ質問をした。
「ベンジャミンとウイリアムと一緒なら、ずっと地熱かな?」
ずっとではない。全く違う事をしていたのだが、流れ流れて今。
そんな事をこの場で口にしてよいものか。
地熱の事なら、何日でも話せそうな皆を前にして、たまたま、働いているとは言えない。何故、働くと問われれば、お腹がすくから。輝く皆の瞳が、一瞬で曇るだろう。
アストルフォは、この場を用意したベンジャミンを少しだけ恨みながら、レモンの汁をかけたままのカキを見つめた。
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